第二の人生を満喫!+愛犬ウィル(享年14歳)

還暦で娘・息子は結婚し孫がいます
様々な障害を抱え妻に支えられながら前向きに暮らしてます。

優しさ

2006-12-15 21:18:45 | 職場と正面から向き合って(終)
          「誰かに差し伸べる手は、人の温もりを伝える」


この記事は、過去に書いたもので、非公開にしていたものです。投稿日時も、そのままにしています。過去の非公開記事から、見つめなおす為、公開します。
自分自身が、どれだけ成長しているのか確認したい。という意味もあります。
カテゴリーをクリックして頂ければ、見やすくなるかと思います。(ペコリ)




今日も晴れでした。
比較的に穏やかな日だったと思います。

優しさと強さは表裏一体だと感じます。
人は弱いから他人に優しさを求めると思いますし
他人から優しさを受けた人は、その温かさを感じるでしょう。

初めから強い人は、何処にも居ないと思います。
初めから強靱な人は、居ないと思います。

病気を抱えた人が弱いと言えるでしょうか。
病気や障害を抱えても力強く生きている人はいます。
その方達は、初めから強かったのでしょうか。
そうでは無いと感じます。

誰かから支えられ、優しさを貰えて強くなったと思います。
また、誰かを支えているのだとも思えます。

社会や職場の中で独りで生きている人がいるでしょうか。
色々な人とかかわりを持ちながら生きているのではないでしょうか。
今、生活し生きているは、独りで生きているのですか?
何かしらの支援や協力を受けながら生きているのでは無いかと思います。

そう言う意味では、優しさは強さの裏返しであると同時に
人は元々弱い存在だから優しくなくては生きていけないと思います。

そして、もう一つの裏返しは生と死だと思います。
生は優しさだとすれば
死は強さだと思います。
誰しもが、死を恐怖と感じるとき
今、死を迎えられて良かったと感じられるのは強さです。
死を迎えるときですら、他人の優しさ無しでは強さは生ま
れないと感じます。
また、独りで死んで往くんだとしても他人の協力なしでは
迎えられないでしょう。

都会から地方にまで孤独死が増えてきましたが
孤独死をしたとしても、葬るのは優しい他人の手です。

病気前の自分もそうでしたが「我」ではその時、生きてはいけても
最後は他人の手を借りることになると思います。

優しさと強さ
そして
生と死は
人と人のかかわりであると思います。


一輪花

2006-12-14 16:36:53 | 職場と正面から向き合って(終)
                「家族それぞれが一輪花」


この記事は、過去に書いたもので、非公開にしていたものです。投稿日時も、そのままにしています。過去の非公開記事から、見つめなおす為、公開します。
自分自身が、どれだけ成長しているのか確認したい。という意味もあります。
カテゴリーをクリックして頂ければ、見やすくなるかと思います。(ペコリ)



今日も晴れです。

昨日、落ち込んでいた自分も家族のお陰で立ち直りました。
見て頂いているみんなに、ご心配をお掛けしました。

家族の力ってすごいなぁと実感しました。
自分が病気であるお陰って言えば変な言い方かも知れませんが
家族が結束してて、それでいてみんな同じじゃないんだと思いました。

病気のお陰で家族の絆が深まったのも事実ですが、家族のそれぞれが
色々な側面から自分を支援してくれていると思えます。
妻はこころの中に入り支援し
子供らは自分に勇気を与え
母親は子供のころ自分が好きだったものを作ってくれたり
してそれぞれが役割を持って接してくれていることに感謝です。

家族力=家族の介護力
とでも名付けたい位に素晴らしい介護だと思います。

現代社会で家族が崩壊していく中で自分は家族力によって支えられ
幸せだとも感じます。

社会の最小単位の家族
家族は自然なのか?文化なのか?を考えてしまいました。

自分は今回の件で家族は自然だと感じますし、自然の中に文化がある
と思います。

この家族力を近隣の方や町内会そして地域に広げていきたいなぁと
思いました。
そうすれば救われる人が居るかも知れません。

操り人形

2006-12-13 19:11:23 | 職場と正面から向き合って(終)
                「厚い氷の下に誘う」


この記事は、過去に書いたもので、非公開にしていたものです。投稿日時も、そのままにしています。過去の非公開記事から、見つめなおす為、公開します。
自分自身が、どれだけ成長しているのか確認したい。という意味もあります。
カテゴリーをクリックして頂ければ、見やすくなるかと思います。(ペコリ)



今日は晴れです。

午後から近くのスーパーに買い物に行くと
自分が若い頃にお世話になった同じ職場の
H夫妻と会いました。
Hさんは今、定年になって久しぶりに会いました。

Hさん夫妻は自分が会計のところにいると、
声を掛け自分はすぐにHさんだと分かりました。
Hさん夫妻から変わったなぁと言われました。
そう。変わったんです。
今はこんな生活です。と言い。。。

狂っているという目をしていました。
こんな姿を見せたくは無かった。
若い頃、お世話になり自分を幹部までして頂いた。
そうか。
やっぱり自分はオカシインダ。
健康な人間から見れば狂っているんだ。

自分の中の闇が操っている。
川の音
呼んでいる
来いと

闇が行かせようとしている

深く

冷たい

氷の下に

誘うように

二度と戻れない


平 凡

2006-12-12 23:08:44 | 職場と正面から向き合って(終)
               「季節がら渡り鳥が飛んでいた」


この記事は、過去に書いたもので、非公開にしていたものです。投稿日時も、そのままにしています。過去の非公開記事から、見つめなおす為、公開します。
自分自身が、どれだけ成長しているのか確認したい。という意味もあります。
カテゴリーをクリックして頂ければ、見やすくなるかと思います。(ペコリ)




今日は晴れです。
自分の体調が余り良くない以外は平凡な日です。

平凡な日がこんなに穏やだなんだと実感した日でもあります。
職場からの連絡も無く、本当に穏やかです。
家族もそれぞれが学校やパートに行ったり、食事を作ったり
と坦々とした日です。
こんな日が続けば良いのにと、つくづく思います。

平凡な日を送れないのは自分のせいだと思います。
闘いを遣らずに上手く職場を渡れば平凡な日は送れたと思います。
それが、出来なかった自分
見ぬ振りをする事が出来ない自分
バカな人間
家族に平凡な日を送らせなかった自分です。

平凡って
言うほど優しくはないと思います。
今の社会で平凡で普通の暮らしをしている人が何人いるだろうか。
この師走の押し迫った時期
追いつめられている人だっているんじゃ無いだろうか。

今の社会で平凡で普通の暮らしは難しいと感じます。
年金で生活している人
生活保護を受けている人
家族の中で障害や病気を抱えている人
ワーキングプアの人
多くの人が平凡で普通の暮らしを望んで居るんだけれども、
出来ない人がいます。
もしかしたら、本当に追いつめられて自殺する人もいるんでしょう。

そう言う事を考えたら、
今日一日の平凡で穏やかな日は「幸せ」だと感じます。

例えば、車を運転している時にネコが轢かれているのを見たら、
目を反らし何でも無いかのように通りすぎる人
目を向けどんな様に轢かれたんだろうと思う人など
色々な人がいると思います。
少なくとも目を反らす人は、臭い物に蓋をする人だろうと思います。
自分がJRでパニック発作で倒れた時、自分を跨いで降りて行った人が多くいます。
そんな人と同じだろうと思います。

競争社会の中で何時まで競争をし続けるんですか。
競争をし得られる
地位、収入、名誉
それは結果的に「勝ち組」と言われる自己満足
競争社会や市場原理を否定はしません。
定年後や働いてぼろぼろになっても競争を止めないのですか。

競争社会から落ちこぼれた人は「負け組」と言われても暮らしています。
「勝ち組」の人は、何人の「負け組」を作って来ましたか。
「勝ち組」の人は、経済が豊かになり働けなくなったら、
環境が良い高級老人ホームに入り豊かな老後を過ごしたいと
思って頑張っているんですよね。
環境が良い高級老人ホームに入っても孤独や寂しさに苛まれている人もいます。

「勝ち組」と呼ばれる人は少しでも自分が作った「負け組」の人を考えて欲しい。
平凡に普通に暮らすことが出来ない人のことを考えて欲しい。

師走の押し迫った時期
平凡に普通に暮らしたくても暮らせない人がいます。
自分がぼろぼろになっても子供だけは一人前にするんだと、
何とかぎりぎりの生活をしている人がいます。

平凡に普通に暮らせない人が自分で自分の命を絶たない事を、ただ、ただ願うだけです。

そんなことを考えていると自分自身が非力だと感じます。


力(ぢから)

2006-12-11 23:11:56 | 職場と正面から向き合って(終)
             「水面の氷は圧倒する力で湖水を覆う」



この記事は、過去に書いたもので、非公開にしていたものです。投稿日時も、そのままにしています。過去の非公開記事から、見つめなおす為、公開します。
自分自身が、どれだけ成長しているのか確認したい。という意味もあります。
カテゴリーをクリックして頂ければ、見やすくなるかと思います。(ペコリ)



今日は雪で吹雪きました。
午後からは晴れでした。
もうすぐ流氷が接岸する時期です。

流氷は遠い北の方から流れて来ます。
風、波、気温などの力を借りて流れて来ると思います。
自然の力は人間では出来ない事をやってのけるんだと感じます。

人にはも色々な力があると思います。
仕事力
遊び力
癒し力
Etc・・・

自分は「力」を「ちから」と呼ぶのではなく、
「ぢから」と呼びたいと思います。
「ちから」は生きていく上で、綺麗でスマートな呼び方と
感じるからです。
その点「ぢから」は地を這い蹲り、泥に塗れながら胆を据えて
日々を生きている感じがするのです。

仕事力、遊び力、癒し力と分けて居ますが、自分はこれらは、
連続したものと考えて居ます。
仕事の中に遊びや癒しがあるし
遊びの中にも仕事や癒しが
癒しの中にも仕事や遊びの力があると思っているからです。

例えば、遊び自体、元々創造だと思います。
今でこそ、ファミコンがあり創造する事は難しくなっていますが、
自分が子供時代は鬼ごっこや缶蹴りなど、友達とルールを決めて
遊び自体を創造していたと思います。
その創造が仕事の中に生かされ、せの成果をみんなで分かち合い癒され
物作りでは世界有数の国になったんだと考えます。

今では仕事は、何でも競争原理が働きポストフォーディズムでより専門性が
求められ創造は薄らいで行きましたし、癒しも無くなっています。

晴耕雨読のような日々の暮らしは今では出来ない時代です。

自分が仕事力、遊び力、癒し力で最も重視したいのは、
癒し力です。
ケア力とも言います。

人と人が関わりを持つとき癒し力は必要だと思うのです。
他人事と自分の事を区別して考える人は多いでしょう。
しかし、他人事は今では他人事では済まされないと思います。
自分は精神疾患で休職4ヶ月目ですが、パニック障害、うつ病など
誰が、いつなってもおかしくは無い病気だからです。
それで、休職になって職場の対応を目の当たりにしたとき、
他人事と思える人間は死すとき後悔するでしょう。
そうでは無く、他人事=自分の事と考えられる人間は人間的に成長
すると思います。

癒し力(ぢから)を付けるのは、一朝一夕では無理でしょう。
日々の生活の中で人間性や感性を高める努力が必要だと思います。
努力の仕方は人によって違うので一概には言えませんが、
他人を考えられる人間は高められるでしょうし、他人の中に自分
を見られる人も近づけるんだと思います。

自分はまだまだ、小学生低学年レベルですので、今後も努力が必要
だと思っています。

家庭の中で出来ない人間は外に出ては出来ないと思います。

修行あるのみです。









生について

2006-12-10 23:15:49 | 職場と正面から向き合って(終)
  「特別養護老人ホームにいる高齢者のいきがいは忘れられているのだろうか」


この記事は、過去に書いたもので、非公開にしていたものです。投稿日時も、そのままにしています。過去の非公開記事から、見つめなおす為、公開します。
自分自身が、どれだけ成長しているのか確認したい。という意味もあります。
カテゴリーをクリックして頂ければ、見やすくなるかと思います。(ペコリ)




今日は晴れ後雪です。
積雪は約10Cm位でしょうか。
平年よりも少ない気がします。

今日も昨日に引き続き娘と一緒に市内の特別養護老人ホームに
行って来ました。
娘は高齢者の方からすれば孫みたいなもので人気者になってい
ました。
自分は娘とは別に高齢者の方にこころの対話をしていました。

こころの対話の中で多くは
長年住んでいた自宅で暮らしたい
こんな体になって、もう死にたい
ここでは、食っちゃ寝の繰り返し
と言う話が多く聞かれました。

この特別養護老人ホームは市内でも少ない
ユニット型のホームです。
設備的には快適に出来ています。

快適な環境で暮らしていても
やはり、長年住んでいた自宅で暮らしたい想いは
理解出来ます。
体が麻痺して自由がきかずに、
もう生きていても仕方がないと言う気持ちも
理解出来ます。
そして
食っちゃ寝の生活

果たして、「幸せ」なんだろうか?と。
考えてしまいます。

どこの特別養護老人ホームでも同様なんじゃないでしょうか。

娘が2回行き、高齢者の方に笑顔がありました。
自分が話しを聴いていると熱心に話してくれました。
何かを伝えたい。訴えているようにも感じました。

一個人のボランティアではありますが、生き甲斐を創ることは出来ないのか。と
考え、新たな課題が自分に出来ました。

社会で、
ノーマライゼーション
協 働
バリアフリー
ソーシャルインクルージョン
男女共同参画
ADL
IADL
Well-being
Etc・・・
福祉の単語が氾濫しています。

その単語が氾濫し関心を持っているのは良いですが、
福祉が収益事業化し、量が多くなっていると思います。
量は多いけど、質はどうなのか疑問です。

質を高めるには「生」を考える必要があるのでは無いでしょうか。
「生」とは
①生きていること。命。
②生きること。
③暮らし。生活。
④生き生きとしている。新鮮な。          (ジーニアス国語辞典より)
と言う意味があります。

「生きている」のと「生かされている」事は違うと感じます。

社会の中でも
生きている自分と
生かされている自分という方がいるんではないでしょうか。

人は必ず歳を重ねていきます。
明日の自分の姿と重なります。

各人は、他人事ではなく自分の事として捉え行動する
時期がきていると思います。

社会のハザマでの出来事では無く正面から向き合う必要を感じます。
そして、
引きこもり
ニート
登校(出勤)拒否(子供や大人)も
根が同じだと感じます。

社会の中で忘れかけているものは多いと思いますし
臭いものを見ないようにしている様な気がしてなりません。


                     

Volunteer is

2006-12-09 19:56:30 | 職場と正面から向き合って(終)
         「認知症でも高齢者の方から学ぶことは多いです」


この記事は、過去に書いたもので、非公開にしていたものです。投稿日時も、そのままにしています。
過去の非公開記事から、見つめなおす為、公開します。
自分自身が、どれだけ成長しているのか確認したい。という意味もあります。
カテゴリーをクリックして頂ければ、見やすくなるかと思います。(ペコリ)





今日は雪です。

今日は市内の特別養護老人ホームに、こころの対話の
ボランティアに娘と一緒に行って来ました。

認知症の高齢者の方から学ぶ事は多いです。
一見、何を言っているのか分からない事でも
表情や身振り、手振りで何かを伝えようとして居るのです。
それを、感じとることが出来るかが必要です。

職員の方とも交流出来ますし、自分や娘にとって良い刺激に
成りました。

太陽の日照と季節そして時間の経過により老化は、みんなに平等
だと感じます。
人間である限り老化はやってきます。
他人の事ではなく自分の事として捉える必要があると思います。

ボランティアは特別な人が遣ることでは無いと思いますし
お節介でも無いと思います。
ボランティアを通して結ばれる人間関係は、高齢者の喜びを我が
喜びの心情と理解と支援の手を差し伸べてくれる活動に感謝せず
におれない高齢者の心情との交流だと思っています。

そしてボランティアは金銭の報酬や名誉を期待してはダメだと思います。

自分のライフスタイルとしてボランティアはあります。
それは
何らかの助力を求める人に無償の手を差し伸べないでは居られない心情と
共に社会で生きていくんだと言う自分の考え方があるからです。

高齢者や知的、精神、身体に障害を持つ方と、社会で、ともに生き合い
喜ぶを持ってともに、重荷を担い合うものと思います。

自分でおおらかに、無理なく、志を貫き続けたいと思います。

Volunteer is not 他人がすること。

では無く

Volunteer is  するのは自分

と言う考えで続けて行きます。



焔(ほむら)

2006-12-08 15:56:00 | 職場と正面から向き合って(終)
              「自分の中で炎が焔となる」

この記事は、過去に書いたもので、非公開にしていたものです。投稿日時も、そのままにしています。
過去の非公開記事から、見つめなおす為、公開します。
自分自身が、どれだけ成長しているのか確認したい。という意味もあります。
カテゴリーをクリックして頂ければ、見やすくなるかと思います。(ペコリ)




今日は晴れです。

自分のこころは炎から焔になりつつある。
職場や社会で苦しんでいる人がいる。
手を差し伸べることは容易ではないかも知れない。

でも誰かが遣らなければと思います。
人間性や力量が問われる。
一朝一夕で培われるものではない。
何事も経験と知識が必要

遣らない前に逃げ出す事は出来ない。
逃げ出すことは簡単
遣ることは難しい
であれば、
困難の道でも前に進むしかない。

職場や社会にいる苦しんでいる人を救うこと
自分のこころは焼き付く
次第に熱く燃え上がっている
自分が出来ることで救いたい。
少しでも気持ちが軽くなって欲しい。
その想い

自分に人間性や力量が無くても
黙って見ていることは出来ない
今、苦しんでいる人がいるのに








シンジラレナイ

2006-12-07 09:09:09 | 職場と正面から向き合って(終)
          「雑巾は汚れを取るが自分の汚れは取れない」

この記事は、過去に書いたもので、非公開にしていたものです。投稿日時も、そのままにしています。
過去の非公開記事から、見つめなおす為、公開します。
自分自身が、どれだけ成長しているのか確認したい。という意味もあります。
カテゴリーをクリックして頂ければ、見やすくなるかと思います。(ペコリ)



今日も晴れです。
気分は雷雨と言ったところ。

昨夕から今朝に掛けて吠えまくっている。

今日、新しい長が着任する。
名前は分からない。

昨夕、また入れ替わりか。と思っていたら。。。
3年3ヶ月で上司が入れ替わり、苦しく辛い出来事が
次々に頭に蘇ってきた。

入れ替わり時は、
辞めろとか。
お前が来る場所じゃないとか。
公務員はみんな自分みたく怠けていないとか。
さんざん言われ続けた。
その過去が蘇る。

過去が蘇るのは、頭が体が憶えている証拠
必っして消えることがない過去の記憶
入れ替わりの時は、その記憶に苛まれる。

コントロール出来ない、もう一人の存在
それを否定は出来ない。
自分だから。

もう一人の自分を消したいけど、
消せない
汚れを取るような雑巾がない。

雑巾で消せればと思う。
この、もう一人の自分という汚れを。。。

妻、子供ら、母親に吠えまくった、もう一人の自分
嫌になる
もう入らないとも思う
けれども存在し続ける。

2回目の休職辞令書
自分の状態をしっかり確認しないで
家族の状態も確認しないで
家族の経済状態も確認しないで
一家崩壊の危機なのに
だれが分かって出しているのか。
ただ単に、事務処理。お役所仕事
一家が崩壊しようが、一家心中しようがお構いなし。

        ぼろ雑巾は汚れを落とせるけど
             自分がぼろ雑巾になったとしても
                  自分の汚れは自分では落とせない



自分でも

自分が

他人が

シンジラレナイ









偶 然

2006-12-06 16:03:13 | 職場と正面から向き合って(終)
   「テニスコートで行われた試合の中に、どれだけの偶然があったんだろう」

この記事は、過去に書いたもので、非公開にしていたものです。投稿日時も、そのままにしています。
過去の非公開記事から、見つめなおす為、公開します。
自分自身が、どれだけ成長しているのか確認したい。という意味もあります。
カテゴリーをクリックして頂ければ、見やすくなるかと思います。(ペコリ)



今日は晴れです。
そして
今日から休職4ヶ月目の日です。

休職
今後、副長、人事からの謝罪
メンタルケアの構築
自分の処遇
家族のこと
Etc・・・
が夢にまで出てきて、こころが不安定になり
朝から苦しくて吠えていた。 また、いつものこと。

夢にまで出て来たのは現実
現実だけれども
この出来事は必然なのか偶然なのか。

人が社会の中で暮らしていく内の何らかの出来事で
必然的なものは、どの位あるのだろうか。
たとえば、何か物事をしたとき努力したから結実した。と
言うのは必然的だろうけど、その中に偶然もあるんじゃないか。と思う。
その偶然は「運」と呼ばれるんじゃないか。

夢に出てきたことの中に、どれだけの必然と偶然があるのだろうか。
どちらかと言えば偶然の方が多いのではないか。

休職
前の副長に代わって今の長が4月に来なければ、休職にはならなかった。
これは、偶然だと考えることは出来ないだろうか。
規則だから。
みんなが言っているから。
今年4月に今の副長が来たのは偶然
そして
必然的に休職になった。

副長、人事班長からの謝罪
省庁からの意見があって、
トップが謝り
そして
科長が謝った。
みんなが謝るから俺たちも。。。
これも、偶然ではないか。
副長、人事班長が単独では謝らない必然性
その必然性は組織として、抜け駆けは出来ないからだ。

メンタルケアの構築
07’4月に作成した「うつ回復プログラム」が規則になる。
自分が吠えたから成るんではなく、この組織のメンタル面の限界という必然性がある。
以前、現在窓口になっているYからメンタル面が問題になっている
と言っていた。
それが、必然性だと思う。
この必然性の中に偶然が潜んでいるとすれば「時期的」偶然だと。思う。

自分の処遇
新たな副長が来た偶然性で休職になり今後も必然性よりは偶然に処遇が決まるだろう
それは、
今月12月5日に長が交代になり新しい長の偶然という裁量に委ねられるからだ
人間の裁量は、殺人を犯した。交通違反をしたという必然性があるのは良いが、
自分のように犯罪を犯した訳ではなく、
ただ病気になった。
その裁量は偶然だろう。

家族のこと
休職になった自分が家族を不幸にしているのは必然性だと思う。
この必然性の中に偶然があるとすれば
「運」良く離婚されないことだと。思う。

最後に
病気
偶然になった。

偶然に病気になったが
偶然に
人に出会えた。

偶然に
自分のことを知るようになった。

偶然に
感謝と謙虚を学んだ。

偶然に
同じ様な病気の人間が苦しんでいるのを知った。

偶然に
メンタルケアを充実しなくてと言う気持ちが涌いた。

偶然に
手を差し伸べなければと考えた。

偶然に
心の友に出会った。

偶然に
家族に感謝が出来る。

すべて偶然が生んだ産物

100%偶然とは言わないが多くは偶然だろう。

 日常生活の中に偶然は連続するし、必然性の中にも偶然は潜んでいると感じる


余 韻

2006-12-05 16:38:03 | 職場と正面から向き合って(終)
       「空から降る雪の一片、一片は自分の肌に触れ溶け込む」


この記事は、過去に書いたもので、非公開にしていたものです。投稿日時も、そのままにしています。
過去の非公開記事から、見つめなおす為、公開します。
自分自身が、どれだけ成長しているのか確認したい。という意味もあります。
カテゴリーをクリックして頂ければ、見やすくなるかと思います。(ペコリ)



今日は晴れ後、雪です。

今朝、子供らを駅まで送りに行き家に帰って朝食、洗面後
自分の部屋に行き、少し経ってから具合が悪くなった。
妻を呼び薬を飲み介抱して貰った。
そのままバタンキュウである。
気が付いたら昼になって、また薬の飲む時間になっていた。
薬を飲んで落ち着いて来たので、この記事を書いています。

昨日の余韻か。と感じる。
昨夜7時に職場の科長Kと窓口になっているY
そして自分と妻、臨床心理士のK先生が仲立ちで、
K先生のカウンセリングルームで、お互いに謝ると
言うことで席に着きました。

妻と一緒にカウンセリングルームを訪れたら、Yと
Kは来ていてK先生と話しをしていた。
対面した瞬間  K科長 ユニフォーム! 頭と体が反応した。耐えた。
此処に来る前にソラナックス2.5錠飲んでいて良かったと思った。
それにしても、前から誰が主体なのかを考えていないなぁと、
本当に思いましたし、対面した時、KやYは偉そうにソファに
座って威圧感を発しているように見えた。
自分も病気になる前は、こんな感じだったんだろうなぁ。とKやY
の中に職場の自分を見たような気がしました。

席に着くと、Kが話掛ける。
どうだ、調子は。
早く帰って来いよ。
今回のボーナス明細書を自分に渡した。 ボーナスは前年の1/3の額だ。
この額で一家四人と母親、暮らしが成り立つのか不安がある。
そして、
今までのボタンの掛け違えた部分や直属上司としてやってなかった事
は謝ると言った。
その言葉を聞き、自分も暴言など申し訳ありませんと謝った。
これで、終わりだと思っていた。
K先生から自分に今、コーヒーを止めて居るんですね。と言われ
ええ。と答えた。
こころで早く終わってくれよと思っていた。 あまり長くKの顔を見たくはない。
握手してどうでしたか。とK先生から聞かれる
前進かな。そう答えた。

そして、この対面は終わった。
K科長は帰る。
窓口のYと妻が話している。 2回目の休職の辞令書を妻に渡していた。
自分はK先生と話しをした。

K先生から大部、洞察が進みましたね。と言われた。
そうかなぁと感じる。
Kさんとは今後どうですか。と聞かれた。
本当にこころから信用している訳ではないので、答えにちょっと窮した。
とりあえず、道徳や規範から外れないと言う考えで、
少しは前進と。答えた。
次回は15日夜7時に来る約束をして家に帰った。

家に帰ってから家族に今日の説明と感謝の気持ちを伝えた。
そして、妻からボーナスが1/3になり節約を心掛ける様に
言うと
娘から仕方無いでしょ。貰えないよりは良いんだから。と
話され、思わず涙が自然に出た。 情けない気持ちとありがとうの気持ちが交錯した。

今日10時からT長が離任の見送りがあった。
出れなかった。
まだ、自分の中に「必ず~しなければ」というものが根強くあると思う。

昨夜の余韻は今日の昼過ぎまで引っ張っている。
学習(訓練)が足りないのか意思が弱いのか。
どちらにしても、遣らないと前には進めない。

まだ幼稚園か小学生の自分
成長段階の葛藤は続くようです。









壱から

2006-12-04 09:24:00 | 職場と正面から向き合って(終)
            「雲が新たに出来る如く、壱から始めよう」

この記事は、過去に書いたもので、非公開にしていたものです。投稿日時も、そのままにしています。
過去の非公開記事から、見つめなおす為、公開します。
自分自身が、どれだけ成長しているのか確認したい。という意味もあります。
カテゴリーをクリックして頂ければ、見やすくなるかと思います。(ペコリ)




今日は晴れです。

ふと、昨日気付いた事がある。
病気のことですが。
今までの自分の生き方や考え方を強制的に否定させた病気である。と
言うことです。
病気が自分の生き方や考え方が間違っているよ。と。
教えたのです。
死にはしないけど、強烈な死の恐怖を与えてあげる。と。
病気が行っている様に感じる。

病気と言う「魔物」だと考え行動していたが、
自分を惑わし害を与える魔物ではなく、
道徳や規範からはずれない様に自分を正す
魔物であるのかも知れない。と感じた

過去に遡って罪を問い直しても、自分自身の道徳や規範が正せる訳ではない。

他人を憎んでも恨んでも真実は明らかにならないだろう。

他人を責めても正義にはならないだろう。

この記事を今、書いている自分は成長段階で幼稚園か小学生くらいでしょう。
子供らを見ていると、自分より大人だと日々感じる。
3年3ヶ月で漸く幼稚園か小学生レベルになった事を鑑みると、
普通の社会人レベルになるのは一生掛かるかも知れない。

人間は不完全であるのは理解しているが、
せめて、普通に生きていける社会人レベルまでは日々、努力する。
そうしなければ、病気になって自分が苦しみ、家族や心の友に
助けられた意味が無いのかも知れない。

弱者を救いたい思いはある。
しかし、今の自分では人間性がなさ過ぎる。
もっと、豊かな人間性がなければ他人は救えない。
一生掛かるかも知れないけど遣るしかない。と思える。

医師からこころが揺れると辛くなる。と言われていたが
何のことか分からなかった。
過去の自分を否定させた病気は3年3ヶ月の期間、新たな自分を構築するため
こころに葛藤を起こ苦しませた。
この葛藤こそが、こころが揺れることだったんだ。と思う。

自分は今、幼稚園か小学生レベルだから、他人から謙虚に聞くことが出来るの
かも知れない。
そして、謙虚に聞いて行動し自分自身が成長させて貰ったら感謝という言葉になる。

謙虚な姿勢から感謝の気持ちが生まれる。今はそう思える。

いつ、普通の社会人レベルになれるのかは分からない。
それでも、日々の生活の積み重ねから生まれると思う。

    
     諦めずに、自らが自分自身に立ち向かって行かなければと思う。








光と影

2006-12-03 11:38:37 | 職場と正面から向き合って(終)
                 「光と影は光明」

この記事は、過去に書いたもので、非公開にしていたものです。投稿日時も、そのままにしています。
過去の非公開記事から、見つめなおす為、公開します。
自分自身が、どれだけ成長しているのか確認したい。という意味もあります。
カテゴリーをクリックして頂ければ、見やすくなるかと思います。(ペコリ)




今日は晴れです。
夜、雪が積もりましたが大した事は無いです。

昨日の母親との喧嘩で見えました!
見えた!と言うより、漸く分かったと言った方が良いかも知れません。

今朝、8時に起きると珍しく母親は寝ていた。
おそらく昨日の事が原因だろうと、すぐに推察出来た。
昨日のうちに自分から折れて謝ったが、尾を引いているのだろう。

妻と子供で9時に買い物、その後、夜積もった雪を除雪した。
家に入っても母親は寝ていた。
11時頃、母親は何処かに出かけて居ない。

昨日からの出来事を見ると、まるで自分を見ているようだ。と感じた。
それも、今の自分を見ているようだ。

他の人との考えが違う→素直になれない→我を張る→イジケル→受け入れない→閉ざす

この一連の行動は、自分自身だ。

職場の方から自分が職場を閉ざしている。と言われた事がある。
何の事か理解出来なかった。

でも、今回の出来事で漸く理解出来た。

そうなんだ。閉ざしているんだ。と

以前、臨床心理士とのカウンセリングでエンプティチェアを遣って貰い、
父親と対決した事があります。
その対決以降、大分、こころが軽くなりました。
軽くなったと言うより、少し大人になったと言った方が良いかも知れません。

母親との口喧嘩は、エンプティチェア同様、対決だったのかも知れません。
子供の頃からの口答え出来ない抑圧されたものが、解放された気分の様です。
母親は子供の時から光でもあったと思いますが、自分の影でもあったと今、
そう、思えます。

今、考えれば、
いずれ、対決しなければならなかったと思います。

おそらく、病気の要因の一つでもあったんでしょう。
今、気分は「見えた!」です。

母親は今、何処に行ったか分かりませんが
昨日、帰れといった事を実行したとすれば
自分が休職で家に居る事と同じと感じます。

未体験のゾーンを身をもって見せ、光明を与えてくれた

母親に感謝します。

これで、また少し大人になる事が出来ました。

ありがとう。




親子喧嘩

2006-12-02 20:36:29 | 職場と正面から向き合って(終)
              「親子喧嘩で嫌気がさし寝る」


この記事は、過去に書いたもので、非公開にしていたものです。投稿日時も、そのままにしています。
過去の非公開記事から、見つめなおす為、公開します。
自分自身が、どれだけ成長しているのか確認したい。という意味もあります。
カテゴリーをクリックして頂ければ、見やすくなるかと思います。(ペコリ)



親子喧嘩
おそらく、夫婦喧嘩より始末が悪いと思う。

親子喧嘩の発端
夕食時に、自分が死ぬより母親が長生きされると自分の子供に負担が掛かる。
これが、きっかけでした。

不幸にして事故などで死んだ場合は除くが
寿命の順番から行くと母親、自分の順である。

それに対し、母親は親にそんな事を言うもんじゃない。と喧嘩腰

何を目くじら立てているのかな。と思ったが
自分の子供に負担が掛かることを考えたら
いや。順番なんでそうなっていくのが良い。と自分は言う

また、それに対し、妻の実家の話まで出て母親の方はそんな事は言わない。と
怒る始末

素直に話しをしろよ。と言っても聞かない。

仕舞いには、もう此処には来ないからと言われ。
だったら、明日帰れ。と言った。

自分が子供の頃から色々な騒ぎが家の中であった。
取るに足らない事から家を潰す話まで
それが胸中を過ぎった。
もう、家の中での騒ぎは嫌だ。と

何年すれば、自分が育った環境から脱却できるのだろう。
自分が育った環境の一端でも子供らに味わいさせたく無い。

夫婦喧嘩は犬も食わない。というが
親子喧嘩はなんだろうか。

そんな事を考えながら、寝るしかないのか。

皆さんは、どう思いますか?

2006-12-02 20:14:42 | 職場と正面から向き合って(終)
    「冬の誰もいない公園で子供らが遊ぶのを自分のこころは見ている」

この記事は、過去に書いたもので、非公開にしていたものです。投稿日時も、そのままにしています。
過去の非公開記事から、見つめなおす為、公開します。
自分自身が、どれだけ成長しているのか確認したい。という意味もあります。
カテゴリーをクリックして頂ければ、見やすくなるかと思います。(ペコリ)



今日は晴れです。

病気は氣の持ちよう
病気は氣の持ちよう
病気は氣の持ちよう
と職場にいた時も
言われ続けていると

氣をしっかり持ってやるぞ。と
初めは思ったが
さすがに、四方八方から言われていると
気持ちがどうでも良くなってくる。

病気は氣の持ちようで片付けられている事に気付くと
どんな病気でも、色んなものが入り交じって区別が付かなくなると思う。

氣を見たとき
①生命力や活力の根源となる心の働き。
②外界を知覚する心の働き。意識。
③その人が生来もっている心の傾向。気質。
④物事に反応する心の働き。物事に反応して変化する心の状態。気分。気持ち。
⑤物事についてあれこれ考える心の働き。
⑥何かを(積極的に)しようとする気持ち。また、何かをなし遂げようとする精神力。
⑦物事に引きつけられる気持ち。関心。
⑧その場に感じられるようす。雰囲気。
⑨寒暑・風雨など、気象を変化させる自然現象。また、天地間に生じる大気。
⑩ある物がもつ特有の味や香り。
                              (明鏡国語辞典より)
など、五感で感じるものがある。

氣を感情面で見ると
①気が気でな・い気にかかって落ち着かない。
②気が差・す気がとがめる。後ろめたい気持ちになる。
③気が済・む気持ちがおさまる。満足する。
④気が立・つ感情が高ぶる。いらだつ。
⑤気が付・く
                              (明鏡国語辞典より)
など、自己の感情を表すものがある。

氣をマイナス感情で見ると
気が咎とが・める心の中で悪いという気持ちになる。うしろめたさを感じる。
気が引・ける気おくれする。引け目を感じる。
気が揉も・める心配で落ち着かない。やきもきする。
気に入い・る好みに合う。
気に食わな・い好きになれない。気に入らない。
気に障さわ・る不快に感じる。感情を害する。
気に病や・む心配する。悩む。
                              (明鏡国語辞典より)
などがあります。

氣をプラス面で見ると
気は心量や額はわずかでも、真心がこもっていること。
気を利きか・せる相手の気持ちや立場などにふさわしいように、先回りして配慮する。
気を付・ける注意する。
気を取り直・す失敗したあとなど、気持ちを新たにして元気にふるまう。
                              (明鏡国語辞典より)
などがあります。

氣の持つ意味は、五感で感じるものから感情面や行動面にまで広がります。

人それぞれ、どの面で見るかは人による枠組みであり一概には言えないでしょう。

現代社会において、物質的な豊かさを手に入れた我々人間は、
その場の感情面や行動で表現することは出来ても
五感で感じることは少なくなっていると思えます。

人間の中には氣という五感で感じられる部分が存在しているのを外に出て感じたい。

それは、健康だから病気だからという事ではなく。。。