ヒロコのブログ

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

書道

2009-09-10 23:48:33 | 日記・エッセイ・コラム

 亭主はおできを8月4日切ってから1ヵ月余りになる。余り治りが遅いので今日再手術をした。今度は大きく切ったがはたしてよくなるのか?はよよく治ってもらわな困る。

 昨年5月以来1年半ぶりに書を書いた。まるで棒切れで書いたような抑揚のない字しか書けなかった。最後に書いたのと比べて唖然となった。まるで違う。よくもこうなるものだと思った。書は一日でも抜けたらあかん。毎日書く。これが原則だ。だがうさぎちゃんは週に一度、よく書いて二度だ。

 亭主の世話に明け暮れて自身のことは、通院と夜パソコンに向かうことだった。他は何もできなかった。

 そのパソコンももっぱら居眠りばかりしている。ブログも12時を過ぎると翌日の日付けになるので、一度投稿してからまた書く。その文章は投稿の変更として保存される。一事が万事この調子だ。

 うさぎちゃんが書を始めたのは、1973年加古川の広報で中央公民館で受講生募集を見て、何を思ったのか急に書道をしようと思い立ち、勤めの帰り加古川に回り習い始めた。週1回で月4回なかなかしんどかった。休み休み4,5年も行った。

 その頃になると先生が作品展に出せ、出せで書く間もなく出品する破目になった。これでは仕方ないので止めた。

 もう書道はしないと思い、退職した時も何しようかと思っていた矢先、近代美術館の水彩画の初心者教室の募集を見て応募した。これも週1回2時間で半年だった。

 教室が終わって先生が新しく教室を始められると聞き入れて貰った。

母が歳で弱ってきたし、いなみ野学園に入学したので止めた。

 いなみ野学園では絵画クラブに入部した。このころ母が1人で留守が出来かねたのでよく休んだ。月一回の画評会に持っていく絵は何時も前日の夜描いていた。

 画材は我が家で調達するので、裏庭にある花が大半だった。クラブでは花を描く人になってしまった。

 なのにまた、書を始めた。近くのコミセンで書道教室が出来、生徒募集していたので応募して行き始めた。唯書くだけだったが先生に競書を勧められ出すようになった。

 いなみ野学園在学中、母が1人で寝起きがおぼつかなくなって1年ほど休んだ。母の世話だけで日を送るのは張り合いがなく、なんだか1人取りの残されるようだった。よし県展に出してみようと思い立ち、加古川の中公以来の出品した。唯、細切れの時間を合わせて書いた。

 それが思いもよらぬ入賞した。それ以来欲が出て次はと思いながら書いたが一向に入賞しない。やっと一昨年入賞し無鑑査会員になった。