晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

明日は、第28回北海道ロードレース

2007-10-20 16:25:58 | Weblog
 今週は、火曜日から金曜日まで夜の営業が続き、千葉ロッテマリーンズの応援も充分出来ないうちに敗れてしまいました。でも、最終戦後、両チームのナインが、ライトスランドの前でお互いを讃えあっているシーンには感動しました。黒装束のマリーンズ応援団は札幌では異端視されがちですが、日本シリーズではパリーグの覇者としてハムを応援すると思います。

 明日は、第28回北海道ロードレースのハーフマラソンを走ります。忙しくて、2週間、全く練習をしていません。今日も雨天ですので、明日はぶっつけ本番になりそうです。少し前なら、ハーフ位ならいつでも走れると思っていましたが、今はそう舐めたものでもありません。とりあえず、何としても完走をしたいものです。



『街場の中国論』(内田樹著)その3

第3講「中華思想~ナショナリズムではない自民族中心主義」からのメモ
 中華思想は、中華から発信する「王化」の光があり、それが届かないところには「化外の民」がいるという考え方である。その境涯までは周縁部を含めてすべて「王土」に含まれる。従って、周縁を教化するという考えにはならないため、対外的に帝国主義的な政策は採らない。中国こそは文明の精華であるという「不平等ルール」に基づく。

 一方、帝国主義には、未知の文明に対して、ヨーロッパ人より開化の旅程で遅れているだけで、我々と同じ人間なのだから啓蒙教化してあげようという「親しみに満ちた軽蔑」がある。皮肉にも、植民地からの搾取の発想を正当化したのは、人間は平等という近代市民論。明治以降の日本は、ヨーロッパ型の帝国主義戦略を採った。



 日本が、自国の考え方の延長で中国を理解しようとしても、拠って立つ思想が違うため、理解をすることができないのだろう。これは、現在でも台湾や朝鮮半島の情勢を考える場合同様と思う。


第4講「もしもアヘン戦争がなかったなら~日中の近代化比較」からのメモ
 「王化」戦略に固執する清朝と、それを否定する日本の「帝国主義」戦略の対立がある。

 アメリカのハワイ取得と日清戦争で日本が朝鮮を占領しようと企図したのは、同じ1894年の出来事で、両者は植民地主義的な領土拡大という同じロジックに基づく。

 では、なぜ日本は清のように半植民地化されず、はげしい国土の簒奪と文化の破壊に苦しむ事態を回避できたのか。

 日本の近代化が成功した最大の理由は、幕藩体制で270の藩(小国)が分立していたこと、国全体では、それぞれの藩で、治世の訓練を受けた政治家が大量にかつ継続的に養成されるシステムがあったから。

 このことから、現在道州制が議論されているが、逆に「廃県置藩」、出来る限り政治単位を小さくし、現場処理に任せたほうが、システム全体としてのパフォーマンスは向上するという考えが導かれる。

 アメリカは、日本を開国させた直後に南北戦争(1860~1865年)に突入、イギリスは薩英戦争の後、薩摩、長州の「パトロン」になり、フランスは幕府と結び、英仏の「代理戦争」とも呼ぶべき相互牽制により日本は破局を免れた。



 中華思想の中国、歴史の偶然に救われた日本、両国のその後の歴史から、私達はまさに歴史の中で生きているのだと思います。


第5講「文化大革命~無責任な言説を思い出す」からのメモ
 過去一世紀の歴史の中で、抗日戦だけが中国人にとって唯一の「国民的統合」の記憶である。従って、国民的統合に危機的兆候が見えたときに、体制の矛盾が露呈したり、党指導部のハードパワーが落ちたときに、「抗日統一戦線」に記憶をかきたてようとするのは、心理機制としては自然のこと。

 ここに、中国における反日デモで示される、首相の靖国参拝や歴史教科書の記述に対する反応の根拠がある。

 反対に、日本人には、日本人としてのアイデンティティの危機を経験したときに、そこに立ち戻れば必ず自信が取り戻せるような国民的統合の記憶の核がない。

 毛沢東の文化大革命とは、王化秩序とは逆の物語の処方、農村が都市を包囲し、全土を均質化しようとした。分業の否定も、専門分化による中心=周縁の位階差の否定であった。



 あの戦争以来、アジアの民衆は、様々な軋轢があったとしても「反日」の一点て連帯できる。排除されたこの国は、米国の属国として生きていくしかないのか。

 「造反有利」「反帝反修」などという文字を見ると、騒ぐものを感じてしまう。数々の実態が明らかになったが、依然として文革を全否定できない何かがある。「文化」をスローガンに掲げた国を挙げての運動が、かつてあっただろうか。


第6講「東西の文化交流~ファンタジーがもたらしたもの」
 ヨーロッパ近代の啓蒙思想家たちが、中国にある種のファンタジーを抱いていた。

 14世紀から17世紀にかけての、ヨーロッパでのパラダイムシフト、「自然の再発見」、それまでの人間を本質的に「罪深いもの」として規定する中世的なキリスト教文化に対して、人間はそれ自体、本然の姿としては、「善きもの」であるというのが近代ヒューマニズムの考え方であった。

 ヨーロッパ人が「自然」(nature)と呼ぶものを中国人は「道」(tao)と呼んでいた。当時のヨーロッパ人は、統治技術としての儒教よりも、老荘思想の人間観に惹きつけられた。
コメント
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