晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

自由 その3

2010-12-25 20:11:18 | Weblog

 

走る仲間が昨日肺ガンの手術を受けた。彼は、煙草も喫まない。身体も人一倍動かしていたのに。同業者としてショックである。しかし、それらのこととガンとの因果関係は元々無いのだから、ガンにならないという保障は全く無いこともそのとおりと理解はしている。

 

 

 

これまで、自由とは極めて曖昧な概念であるということを述べてきたが、その「自由」を旗として掲げるとこれに対して公然と批判できないという情況もまたある。また、積極的な自由に内在する怖さについても触れた。

 

これらから、自由を外延的に拡大していくと、そこには摩擦、軋轢、対立、衝突・・などのぶつかり合いが生じ、権力、抑圧・・が発生する。しからば、寛容、受容、許容、理解、親和・・を基調とする「友愛」社会というものがありえるのだろうか。(何だか、鳩山由起夫氏のスローガンっぽくなってしまった。)これに対する私の答えは現時点で持ち合わせていない。

 

今のところ私にできることは、自由を内側に向かって自閉的に捉え、そこに橋頭堡を築くことから始めることではないかと考える。それも大変難しいと考える。

 

そのひとつは、身体的自由である。今、自分の身体は一体誰のものかと問う。体調不良の時、疲労困憊した時など、自分の身体が自分のもので無くなる様な感覚は誰しも体験する。自分の身体が自分ではどうすることもできない不自由な状態である。

 

それに対して、自分の身体を意識化で制御できる、身体作法を使い分けることができる、最低限先ずその自由を確保したい。

 

もうひとつは、内面の自由である。一体自分は何を考えているのだろうかと問う。人は他人の言葉や表情からその人を理解できるのはほんの一部のことなのではないか。他人が何を考え何を想っているのかはわからないのである。反対に、自分を他人に完全に理解してもらうこともまた不可能に近いことである。

 

そんな自分であるが、その自分自身の内面を意識化で制御できる。他人から考えさせられるのではなく、自分自身で考えぬくことができる、その自由も確保したい。

 

 

『自由はどこまで可能か リバタリアニズム入門』(森村進著 講談社現代新書 2001年刊)は、自由論の基本文献に位置づけられているのだろうが、法哲学からの自由尊重主義への接近を述べているが、私にとってはあまり触発されるものでは無かった。

コメント
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