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晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『新しい左翼入門』 その3

2012-08-09 21:08:31 | Weblog

 著者は、左翼には属さないが、左翼と同一歩調をとることの多い「市民派リベラル」と呼ばれる考え方を批判する。それは、「自分自身は世間の主流の比較的恵まれた地位にありながら、被差別、在日外国人、女性、障害者等々の差別されている集団や、近隣諸国に配慮することを求める立場です。」(P211)と規定する。彼らの考え方の特徴として、「資本側対労働側、支配側対被支配側といった階級対立は本質的仕組みとしては意識されず、ひとまとめにして考えられる傾向が感じられます。」(P212)とやや曖昧な表現をする。また、「利害を語ることを、人権を語ることに比べて次元の低いこととして見下す傾向があるように感じられます。」(P212)ともいう。

 「エコロジー」「地球温暖化」・・・などは、「個々人の暮らしの都合に根ざして語るよう余程注意しないと、「悟ったエリート」が「愚かな俗物」に空中法則を押し付ける図式をもたらしがちです。今日の貧困労働者にとっては、環境にやさしいライフスタイルも、身体に安全な食品も、経済的負担になりがちである。」(P212)という。

 今は死語であるが、従来はこのような人々をプチブルと蔑称した。批判的にものごとを考えることができるのには、ある種の余裕、経済的、精神的な余力が必要と思うが、陥りがちなのは、彼らの批判的活動がその意図に反して、真に困窮している人々、行き詰っている人々にとって、権力的になったり、いわゆる上から目線になったりしがちだということである。例えば、大衆に対する前衛(党)、啓蒙活動を行なう市民運動、フクシマ後のにわか脱原発運動、誰しも反対することのできないスローガンを掲げている運動(交通安全、人権、安心・安全、健康、健全育成、環境美化、・・)などに対して、私は同種の臭いを感じる。なぜなら、これらの背後には、「・・でないもの」を差別し排除する構造が潜んでいるからである。

 ここに、吉本のいう「大衆の原像」を現実の中でどう捉えるかという問題が潜んでいる。

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