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「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その10

2014-10-18 17:07:03 | Weblog

 京都に着いたら、イノダコーヒー大丸店グリルで夕食。同じ値段で札幌ならばワンプレートにコーヒーだが、コーンスープとサラダとライスとコーヒーが付いているのでボリュームもあってかなりお得。違う土地を訪れることは、明日は何をして、誰々と打ち合わせをして、といった日常のしがらみを少しづつ忘却させてくれます。

 

 「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その10

 2014年1月に開始した時(2014.1.26)に「私は、一つの試みとして、『資本論』の中で、マルクスが心情を吐露したり、激しく感情を露わにした表現を素材に、私がこれまで実社会の中で経験したり、感じたり、考えてきたこととマルクスの心情との対話を試みたいと思っている。」と書いた意気込みが、7月から雑事にかまけて疎遠になってしまった。今年も残すところあと2か月余りになってきて、何とか『資本論』第1巻を読了したいと考えている。

 使用しているのは、『資本論 第一巻 ㊦』(今村仁司・三島憲一・鈴木直訳、筑摩書房マルクス・コレクションⅣ・Ⅴ 2005年刊)と私の労働体験である。

 マルクスの分析は、第七編「資本の蓄積過程」に入り、第二一章「単純な再生産」では、(P296)「ローマ時代の奴隷は鎖によってつなぎ止められていたが、賃金労働者は見えざる糸によって自らの所有者につなぎ止められている。賃金労働者の見かけ上の独立性は、個人的な雇い主の絶えざる交替と、契約という法的擬制によって保たれている。」と言う。

 時代が変わっても労働者の置かれている情況は変わっていないと考える。私のような、かなり磨滅した労働力は定年に達すれば会社から賞味期限切れとしてと捨てられ、一方、新たな若い新鮮な労働力たちは、「就活」と称して会社に何とか気に入られようと売り込みをかける。

 第二二章「剰余価値の資本への変容」では、いかにして資本が剰余価値から生まれてくるかを分析する。贅沢な暮らしと資本の蓄積(会社の拡大)という二つの誘惑に襲われている資本家に対し、マルクスは皮肉を込めて、(P327)「蓄積せよ、蓄積せよ。これがモーセであり、預言者である。『勤勉が供給する材料を、節約が蓄積する』。ゆえに節約せよ、節約せよ。すなわち、剰余価値または剰余生産物のできるだけ大きな部分を資本に再変容させよ。蓄積のための蓄積、生産のための生産。」と述べる。

 よく、会社の社訓にある「節制、節約、勤勉」という言葉は資本の蓄積のためにということを意味しているということがわかる。俗に言うと「金持ちはケチだ」ということである。ちなみに、マックス・ヴェーバーは、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、キリスト教の禁欲、節制の倫理と資本主義の精神の間に親和性があることを説いた。

 第二十三章「資本制的蓄積の一般法則」では、マルクスは、(P366)「宗教においては人間が自分の頭で作り上げた創作物に支配されるが、資本制生産においては、人間が自分の手で作り上げた創作物に支配されるのである。」と述べる。

 いわゆる「疎外」を表している。若い頃からマルクスのコアにある考え方である。

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