晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

瀬川拓郎 『アイヌ学入門』

2015-06-09 20:37:04 | Weblog

 アへ首相が来年のサミット開催地を「伊勢神宮」と発表した。この際、僕は古代史ブームが来るといいなあと思う。安保法制論議で憲法学者が違憲と言い切ったように、歴史研究者が神話の実在性と天皇制の真実を語る機会になればいいという期待感を持つ。前回の洞爺湖サミットは決めたのはアへ首相だったが、翌年は福田になっていた。来年もアへ首相である保証はないぞ。

 『アイヌ学入門』(瀬川拓郎著 講談社現代新書 2015年刊) 

 このブログ2015.5.24で、白老町のアイヌ民族博物館を見学したことを書いた。その後、紀伊國屋書店でアイヌ関係の書籍を探していたら、本書が平積みにされていて、かなり力を入れて売っているようであった。事実、2月20日第一刷発行が、すでに5月18日第四刷である。

 「はじめに」で述べているが、著者は「アイヌは自然と共生する民」という従来の静的なイメージの転換を意図し、交易や移動などが盛んだったというかなりダイナミックな民族として描いている。

 僕の持っている先入観というか、期待感は、かつてこの列島には縄文人が暮らしていて、弥生時代に大陸から渡ってきた人々(稲作文化)によって、北に蝦夷、アイヌ、南に琉球人が徐々に追いやられた。従って、アイヌと琉球の文化には、この国の初源を見出すことができるのではないかというものである。

 しかし、著者は、慎重な表現で「アイヌは日本列島の縄文人の特徴を色濃くとどめている人びと」とし、「現在のマジョリティである和人は、弥生時代に朝鮮半島から渡ってきた人々と、日本列島の先住民である縄文人が交雑して成立した集団」と、アイヌ・イコール・先住民とは断定しない。

 僕は、アイヌ民族博物館で聞いた、明治になり北海道開拓とともに突然にアイヌの生活手段が奪われそれまでの平和な暮らしが奪われた、私たちは差別の無い多民族共生社会を目指しているという言葉の意味を考えている。

 共生社会と天皇制が理論的に両立しないということは前に述べた。もう一つ、多民族共生社会の実現にとって国民国家という枠組みが桎梏になるのではないかというものである。明治維新を起こした薩摩、長州の田舎の下級武士は、その権威づけのために天皇という稲作文化の象徴的な存在を引っ張り出し、それまでの「藩」という単位では無く、「日本」という国民国家、それも単一民族国家という虚構を作り上げた。そもそもこの国民国家の中で共生は可能なのか、共生のためには国家を開いていかなければならないと考える。

 この列島で、マジョリティの継承してきた文化とアイヌや琉球の文化が異なるのに、アイヌ民族、琉球民族を日本民族の中に一つにくくることは、それぞれの文化を否定することになり、国民国家「日本」には収まりきらないと考える。

 

 

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