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戦後左翼史 その9 1961年② 大量離党・除名 構造改革派の追放

2016-02-13 16:43:52 | Weblog

 寒い日には旭川ラーメン「よし乃」、サツエキにあります。

 久々の暖気(5℃)、気持ちよくリハビリラン、途中10人ほどで走っている集団とすれ違う。彼らも身体が疼いて外に飛び出してしまったのだろう。

 道5区衆議院補欠選挙で共産党が自党の条件を呑むなら候補を降ろしても良いなどと駆け引きをやっているつもりになっているが、池田陣営(民主党を中心とした野党)は、そんなものはほおっておけばいいと思う。ここまでひとり相撲をとって今更候補を出したら世間から袋叩きにあうのが落ちだ。

 

 戦後左翼史 その9 1961年② 大量離党・除名 構造改革派の追放

*(*は、僕の考え)7月の第8回党大会で新綱領が採択されるのだが、それまでに至る過程での宮本顕治による異論排除の手口、党内民主主義は欠片ほどもないことがわかる。万一、日共が政権に関与した場合は、それが国民に対して行われないとは言い切れない。

1961.4.10アカハタ 「関根弘ならびに武井昭夫の規律違反にかんする決定の発表にあたって」中央委員会書記局、雑誌『現代詩』8月号に「樺美智子の死に思う」を発表した関根弘は除名、「さしあたって、これだけは」発起人の武井昭夫は党員権1年間制限。また、1957.3月号『中央公論臨時増刊』座談会「若き共産党員の悩み」での発言を問題にされた。

(参考)・関根弘:戦後入党、詩運動のリーダーとして活動

・武井昭夫:1946年入党、1958年の第7回党大会での綱領論議のころから、指導部と対立、’60年安保闘争で党に反対する声明「さしあたって、これだけは」を谷川雁らと発表し、この後に規律違反として除名

1961.4.11アカハタ 主張「安保反対国民会議(4.4、6開催)の活動とわが党の任務について」

1961.4.16、17アカハタ 「構造改革論と運動の現実 構造改革論批判」小林良夫世界労連日本出版協会事務局員)

1961.4.17アカハタ 主張「党の思想と原則の擁護のために 武井昭夫同志批判」「新日本文学会」に属する小林勝・柾木・岡本・大西・小林祥らを規律違反の処分

1961.4.30道新 「日共綱領草案を発表」7.25党大会まで3か月、人民民主主義革命路線対構造改革論

*以下、僕は宮顕式統制手法をれんだいこ氏のHPから学んだ。

3.1~13と3.25~28の「第16中総」に「綱領草案」が提出された。

①反対と保留の中央委員は、自らの意見を下部の機関や組織で述べてはいけない。意見があれば400字詰原稿用紙25枚以内にまとめ提出すること。希望によって党報に発表することが出来る。しかし、後になってこのルールは反故にされた。

②府県から地区の党会議や委員会総会は、すべて草案を踏み絵となり党員を点検の場と化した。大会代議員の選出は、選考委員会によって推薦名簿の段階で厳重にふるいにかけられ、批判意見を持つ代議員候補者は、ほとんど意図的に落とされた。

4.29中央委員会、「日共綱領草案を発表」。7月上旬までに全国からの大会代議員の選出では、綱領反対派又は反中央分子は、完全に排除されていた。

③★5.27アカハタ主張「統一と団結を強める第八回党大会を準備しよう」で、中央委員会はじめ各級機関や細胞指導部がこれらの議案を下部組織やグループに説明するときの、機関として統一された公の態度は、当然議案の立場(賛成)から説明するという立場に立たなければならない」と。

④5.28アカハタは、無署名論文「大会準備に現れた一つの偏向」で、「もともと全国的な問題についての討論は、党中央の提案に基づき、党中央の指示に従って行われなければならない」と。

⑤6.9~10「第17中総」で中央反対派の意見発表中止を決定

⑥6.12アカハタで、「大会での討議は議案への賛否をあらわすことではなくて、議案の正しい理解によって各自の誤りをただすことである」と。

1961.4.30アカハタ 論壇時評(下)「『構造改革』論に対するいくつかの批判」石田精一アカハタ編集委員

(参考)・石田精一:1997年9月第21回党大会で顧問に再任

1961.5.2アカハタ 主張「綱領(草案)の発表の意義」

1961.5.3アカハタ 「総評運動方針案要約の問題点」春闘の底に安保の確信、経済闘争と政治闘争の正しい結合、太田議長、岩井事務局長

1961.5.7、8アカハタ 「党北大阪地区トロツキストを摘発、処分」党大阪府委員会声明、大阪中電細胞、前田裕昭、青木正義、伊藤修身を除名

(参考)・前田裕晤:前全労協副議長、『労働情報』発行人

・青木正義:草案は民族解放民主革命、いわゆる二段階革命の立場、前田と青木正義(立命館大学)が「平和共存論反対」を提起

・伊藤修身:元大阪中電労働者、4トロ?

1961.5.8アカハタ 主張「安保反対全国共闘の進化のために」

1961.5.8日本読書新聞 見取図「流動する理論戦線 日共綱領草案の発表を機に」、日共本部の構造改革派に対する異常なまでの高姿勢

1958年第7回党大会で党章草案の採択が持ちこされた。少数意見:春日庄次郎、鈴木市蔵、山田六左衛門、原全吾、内野壮児、内藤知周、西川彦義、亀山幸三、保留:中野重治

以下、構造改革論を主張したのは、

○佐藤昇『現代帝国主義と構造改革』は、強い説得力はあるが、政治体制論の展開が不足。

○『講座 現代マルクス主義』(大月書店)には、井汲卓一、長洲一二、上田耕一郎、杉田正夫(力石定一)が執筆

○雑誌『現代の理論』は、安東仁兵衛(笹田繁)(共産党東京都委員)を編集者に刊行

○経済分析調査会(代表者:今井則義)、小野義彦、勝部元、内田譲吉

○イタリア共産党を紹介、石堂清倫、代久三、前野良

○その他、大橋周治(社会主義政治経済研究所)、棚橋泰助、浜川浩、中田真司、三沢純、中林賢二郎

○農業:山崎春成、一柳茂次

○平和運動:富田和男、林茂

○『講座 現代のイデオロギー』(全六巻、三一書房)には、梅本克己、竹内良知、榎並公雄、中岡哲郎、沖浦和光、犬丸義一が執筆

○社会党内には、加藤宣幸、森永栄悦、高沢寅雄、中津研二、赤堀邦雄、松下圭一、田口冨久治、増島宏らがいる。

○その他、丸山真男、篠原一、坂本義和、藤田省三、日高六郎、香内三郎、稲葉三千男、荒瀬豊

構造改革論ではないが、

○トロキズム:黒田寛一、対馬忠行、清水幾太郎、浅田光輝、三浦つとむ、香山健一、盛田実(『週刊労働』編集責任差)、橋川文三、山田宗睦、吉本隆明、谷川雁、武井昭夫

(参考)・春日庄次郎:1957年7月第7回党大会で「構造改革・社会主義革命」論を主張、宮本顕治に代表される「反帝・反独占の民主主義革命」論と論争。この大会で中央統制委員会議長に選出。★1961.7.8第8回党大会前に、綱領草案に反対し離党声明を発表。7.15山田六左衛門ら反主流派6中央委員は、綱領草案討議における「少数意見抑圧」に反対し声明、★7.20春日、山田ら6名は反党活動を理由6人に除名

・鈴木市蔵:1962年参院選全国区で当選。1964年党に反して部分的核実験停止条約批准に賛成。このため、5.15の衆院本会議で賛成し権利停止処分を受けた志賀義雄衆議と共に、5.21第8回中央委員会総会で除名処分(翌5.22発表)。5.25参議院で部分的核実験停止条約批准に賛成。志賀・神山茂夫・中野重治らと「日本のこえ」を結成。

・山田六左衛門:1958年党大会で中央委員。1961年党大会で綱領批判、春日庄次郎らと離党、社会主義革新運動準備会(社革)に参加、1962年統一社会主義同盟を結成

・原全吾:1958年党大会で中央委員候補、1961年の綱領論争では、綱領草案に反対する春日庄次郎氏ら7人の中央委員、同候補とともに離党。

・内野壮児:戦後入党、「アカハタ」編集部、1961年除名、1969年労働運動研究所を設立

・内藤知周:1946年入党、1958年党中央委員、1961年第8回党大会前に春日庄次郎と共に、日本における革命は社会主義革命であるという一段階革命論を主張、脱党、除名。1961.10社会主義革新運動準備会を結成。統一社会主義同盟(フロント(社会主義同盟)の前身)を結成。1967年に「前衛党」建設問題で分裂。いいだももらと共産主義労働者党を結党。

・亀山幸三:戦後入党、第6回全国協議会後自治体対策部長、1961年綱領、選挙問題で除名。

・中野重治:1958年中央委員、1964年部分核停条約の批准で、志賀義雄・神山茂夫・鈴木市蔵らとともに「日本のこえ」派を旗揚げ、1964年除名。

・長洲一二:1959年安東仁兵衛らと雑誌『現代の理論』創刊に参加(同年廃刊、離党。

・上田耕一郎:1946年入党。1956年『戦後革命論争史』、構造改革派と見なされてきたが、第8回党大会で確定した反帝反独占の民主主義革命(現綱領)の立場に立ち、『戦後革命論争史』を「自己批判」、以後党の中心的担い手として活動。

・安東仁兵衛:1948入党、1959.5長洲一二らと雑誌『現代の理論』創刊(同年9月終刊)。1961年に構造改革路線を打ち出し、路線対立から離党、統一社会主義同盟に参加

1961.5.24、25アカハタ 「党の組織原則への侵害―大井正氏の「民主戦線における言論の自由について」―」橋本貢中央委員会宣伝教育部員、大井正(東京唯物論研究会、新日本文学会員、論文は『新日本文学』5月号)

(参考)・大井正:常任幹部会員、元明大教授

★1961.5.25アカハタ 主張「統一と団結を強める第八回党大会を準備しよう」

1961.6.15~21アカハタ (1)~ (6)「修正主義の反党的宣伝を粉砕しようージャーナリズムにあらわれた党と二つの草案にたいする中傷への批判―」岡本博之

(参考)・岡本博之:常任幹部会委員、1997年第21回党大会で名誉幹部会委員

1961.6.30アカハタ 主張「実践的討議のために、思想的統一のために」

1961.6.30アカハタ 「規約の改正点について」

*日共から見ればトロツキスト、彼らを排除したあとは綱領をめぐって構造改革派の追放が続き多くの人材が党外に流出した。しかし、その後の党史を振り返るとまだまだ追放劇が続く。

 

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