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ジェームズ・C・スコット 『反穀物の人類史――国家誕生のディープヒストリー』①  「国家を考える」ノオト その1 

2020-10-20 13:20:14 | Weblog

世論調査の方法に疑問!共同通信は「全国の有権者をコンピューターで無作為に選ぶRDD法を実施。固定電話では、実際に有権者がいる世帯にかかったのは731件、うち505人から回答、携帯電話は1,239件、うち506人から回答を得た。」という。統計的にはこれで有意なのだろうが随分と少ない!電話に出なかった世帯の件数もわからない。この時代、見知らぬ番号からの電話に出る人はあまりいないのではと思う。

 

『反穀物の人類史――国家誕生のディープヒストリー』①(ジェームズ・C・スコット著 みすず書房 2019刊) 「国家を考える」ノオト その1

7月にNHK-Eテレ「100分de名著」で、先崎彰容氏が吉本隆明著『共同幻想論』をコンパクトに解説していた。限られた時間の中で国家の成立というとてつもなく大きなテーマを100分で。(先崎氏の考え方には様々な評価があるだろうと思う。)その刺激もあり国家の誕生に関する著作を少し読んでみようと思った。

国家を考える時、一例を挙げればコロナ禍において、国家(政府)は十分な働きをしたのだろうかと疑ってしまう。国家が果たした役割はいったい何だったのだろうか。地域の実情が様々に異なる中で、国家が全国一律に対応方針をしめすこと自体に無理があったと考える。実際に行われていたことは地方自治体や現場の保健所、医療機関への丸投げばかりだったのではないか。突き詰めていくと、国(政府)にしかできないことは財源対策だけである。それも自らの努力ではなくただ赤字国債を発行して財源を生み出し、あとは自治体などにお金を配分している、それだけのことだ。それで僕は国家の必要性についてのまします疑問を深めている。

僕は、今の国民国家は黄昏を迎えており、そろそろ賞味期限がきているのではないか、そこで国家が無くなればどのような社会になるのだろうかなどと夢想してきた。先史時代には国家が無かった時代があったが、それはどのような社会だったのか、それから国家がどのようにして誕生したのだろうか。そんな問いに答えてくれそうなのが本書であり、高校の世界史やこれまで学んできた通説とは随分違うことに驚かされる。

否定される通説と著者の主張を対比する。(P-ⅸ、ⅹから引用、*は僕の補足)

・「動植物の家畜化・作物化(*ドメスティケ―ション)が定住と固定した畑での農業に直接つながった」⇒「定住は動植物の家畜化・作物化よりずっと早かった。定住も家畜化・作物化も、農耕村落らしきものが登場する少なくとも4,000年前には存在していた」

・「定住と最初の町の登場は、ふつうは灌漑と国家が影響したもの」⇒「(*その登場は)たいてい湿地の豊饒の産物(*の採集)だ」

・「定住と耕作がそのまま国家形成につながった」⇒「国家が姿を現したのは、固定された畑での農耕が登場してからずいぶんあとのこと」

・「農業は人間の健康、栄養、余暇における大きな前進」⇒「初めはそのほぼ正反対が現実だった(*前進なんかではなかった)」

・「国家と初期文明はたいてい魅力的な磁石として見られ、その贅沢、文化、機会によって人びとを引きつけた」⇒「初期の国家はさまざまな形態での束縛によって人口を捕獲し、縛りつけておかなければならず(*外部へ出ることができない)、しかも群衆による伝染病に悩まされていた」、「初期の国家は脆弱ですぐに崩壊したが、それに続く『暗黒時代』(*国家が崩壊した後)には、実は人間の福祉が向上した跡が見られることが多い」、「国家の外での生活(『野蛮人』としての暮らし)(*外界に留まった人びとを野蛮人と呼んでいる)が、少なくとも文明内部の非エリートと比べれば、物質的に安楽で、自由で、健康的だった」

歴史の流れを「農業→定住→国家」と単線系で捉えるのは誤りなのだろう。次回以降、重要と思われる記述をノオトし、僕なりに国家を考えてみたい。

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