ふわり、ふわりと風のふくままに・・日記

感性がキラリと輝くような毎日を過ごしたいけれど、現実はなかなか思うようにはいかない。小さな喜びに敏感でありたい。

待降節 クリスマスを迎える準備

2009-12-13 21:07:50 | カトリックの信仰
 私はカトリックの信仰者の端くれ、だから街中を彩るクリスマス商戦の類はキリスト教のお祝いに便乗していると思っている。あちこち飾るイルミネーションも余り好きではない。

 クリスマスは主・キリストの降誕「神が人となって生まれてくださったことであり、今日もまた来て下さること」を感謝する日であり、その四週間前から待降節といって、主を迎える準備をする期間をすごす。今日は待降節第3主日、“主にあって喜んでいなさいという喜び”の主日ともいう。留守にしていた我が家も少しだけ、クリスマスを迎える準備に入った。人が生まれるためではない貧しい馬小屋で生まれたことを思い起こし、馬小屋を飾ることもある。が、今年は教会近くのお年寄りが教会のデーサービスに見えて、手作りされた星のオーナメントを頂いたのでそれを昔日曜学校の子どもたちが作ったツリーに飾ってみた。隣りには戸棚の隅にあった折りたたみ式の葉っぱが揺れると綺麗なツリーと手作りツリーに手作りリースを飾った。

 所属教会は今日待降節黙想会:K師の講話+説教から
★☆★☆★ 信仰も私から選んだのではなく神から先に与えられた恵み、ミサにあずかることができるのも恵み、与えられた恵みをいつも喜んでいなさい、というのが今日のメッセージ。教会に来るのも義務だから来るのではない。義務でミサを捧げている司祭に出会ったら、そんなミサだったらありがたくもない。司祭になろうなんていう召命も生まれないだろう。司祭になれた喜び、司祭としてミサを捧げることができる喜び、受けているものは恵みであって、喜びを持っていきることを忘れてはならない。

 …(笑)今まで2つ感謝したことがある。司祭になって良かったこと、もう一つは結婚しなくて良かったとこと(笑)…

 フランシスコザビエルが宣教を始めたころ教会の用語をどう日本語にしたらいいか分からなかった。主を通訳をした者が「だいにち」と訳し仏教の如来様と近く感じたものを正さずラテン語をそのまま「デウス」といわせた。愛を何といったか、「たがいのおん身を大切に」=「ごたいせつ」と訳した。それは神の愛の無償性、先行性に通じる。

 イエスは幼子として馬小屋に生まれた。人の赤ちゃんを産む為の場所ではないところに生まれてくださった主を迎える準備は最大限の準備をしても足りることはない。昔、サザエさんの漫画にお客様がいらしたから「洗濯物を片付けて」といわれたかつお君が慌てて洗濯物を居間に放り込んだ。「お客様は居間においでよ」 !!!(笑)というような、取り繕い、ぼろ隠しをしても駄目。赦しの秘跡で何年も同じことを言ってはいないか。慌てて赦しの秘跡を受けてぼろ隠しをしても、その奥底にまだまだ罪の傾きは残っていて、そんな私でも主は赦してくださっていることに気がつき、感謝する気持ちになることができる。“光は闇に訪れる”といわれる。回心とは反省ではない。弱い自分に打ち勝つことでもない。義務で変わらなくてはいけないということではない。あるがままの自分に気がついて、キリスト者としては勝利主義、成果主義の中にではなくて、成熟していく中に存在価値を見ていくのではないか。味わい、深めていくと神に赦されている自分に気がつく。神の恵みを深めて、味わっていくことが回心に繋がる。

 神に対し、人に対してありがとうと感謝の思いを取り戻していこうというのが回心。日々の中で頂いた人生、恵みの人生を喜びの中で生きる時に他人を批判したり、他人に悪いことはできない、比較もしなくなる。

 一日の終わりに今日あったことを反省するのではなくて、ありがたかったこと、嬉しかったこと、感謝すること、清々しく思ったことを忘れずに思い起こして心に刻むことを勧める。★☆★☆★

 たびたびジョークで笑いもあり、でもまっとうなカトリックの教えを伝えてくださった黙想会。20年近く前より、やっぱり豊かになられていた。あと10日余、素敵なクリスマスを迎えることができますように。


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