ふわり、ふわりと風のふくままに・・日記

感性がキラリと輝くような毎日を過ごしたいけれど、現実はなかなか思うようにはいかない。小さな喜びに敏感でありたい。

今日の献立

2010-02-23 21:37:27 | 料理
 今日はカルチャーの日。中にはもう20年も通っているという方もあり、先週よりも懐石料理の経験のある方ばかり。

☆まぐろの山かけ 
 まぐろのさくをぶつ切りにしてしょうゆ洗い、長いもを叩いて、叩いて細かく刻んでまぐろの上に盛り、わさびと海苔を点森にする。

☆えびのゆば包み上げ
 えびの殻をむき、叩いてからすり鉢で当たる。そこへ一度茹でて水をきった豆腐を入れて当たり、塩一つまみ、片栗粉を入れて湯葉で巻いたものを揚げる。白髪葱を上に盛り、かけ汁をはって七味をふる。

☆身欠きにしんと白菜辛子酢
 身欠きにしんは塩を多めに振り、身から焼き始め色よく焼けたら川目も少し焼き、塩を落とすように酢洗いしてザク切り。白菜は芯と葉に分け4cmくらいに切り、芯はマッチ棒より少し太めの千切りにしてさっと湯通しする。葉は立て千切りにし、湯通しした白菜の芯とあわせて少量の塩を振り5分ぐらい置いて水気を軽く絞る。塩、酢、砂糖、淡口、オリーブオイルを振り掛け、身欠きにしんのザク切りとわかめを1㎝切りにしたもの、紫蘇を粗微塵にしたものを合わせて、最後に水辛子を混ぜる。

 余り手がかからなくて美味しい三品でした。
山かけには大和芋をすり鉢で当たって使うことが多い。長いもでも当たって作るときがある方も多いだろうが長いもは水気が多いので何となく頼りない。でも叩いて叩いて細かくして盛ると食感があって、木のまな板(またはプラまな板ならば布巾を敷いて)の上で叩くと水分が程よくなる。一度お試しあれ。

 白菜は縦にせん切りすることが歯ごたえがしゃきしゃきしていいのかも。身欠きにしんの代わりにスモークサーモン、味は変わるがロースハム、鶏もも肉を炒めて脂を抜いてからほぐし身にしても、油あげを焼いて細切りでも家計に合わせてアレンジもできるか。オリーブオイルは少しです。

 平ゆばが手に入ったら、上品な一品になります。

春は一歩一歩近づいているようですね。

「二つの不幸」

2010-02-20 23:05:22 | カトリックの信仰
 「人生には二つの不幸がある。ひとつめは目的を達成できない不幸。ふたつめは目的を達成してしまった不幸…」という格言から、オリンピックのメダリストのタイプを観たコラムがあった。

 アスリートたちは、それぞれの競技の中で目標を目指して練習し、体を作り、時には怪我をし、悔しい思いをし、またそれをバネにしていく。「夢は見るものではなく、掴むもの」といった人もいた。スピードを競う判定はコンマ二桁まで計測して判定されたり、フィギアみたいなものも審判の受け取り方でかなり大まかなばらつきがあった時代から細かい採点基準が決まっていて、例えば回転が映像で確認できたりしている時代~~~う~ん、そこまでしなくてはならないのかなぁ。

 メダルを達成できない。あるいは自分の目標を達成できない悔しさや無念さを不幸と思う。目標を達成して、そのあとの脱力感というかその後の人生の目標が見つからない不幸。

 私の一番大切にしたいものは、競争の中にない。人と比較する中にもない。あの方の前で何様でもない、自分だけの力でできることなどほんのわずかでしかない。だからといって、自分に今できることに手を抜いていいとは思っていない。今できること、今あの方が望まれることを誠実に、謙虚に、でも一生懸命にしたいと思う。あの方の思いは、実は計り知れなくて、知れば知るほど、親しく感じる程、さらにもっと近くに感じたい、もっと深く知りたいと思う。いやぁ、到達点は永遠に続く果てのようだ。神の愛、イエスのまなざしに出会ったのは不幸ではない!幸いだ。 心のざわつきが全くないなんて言わないけれど、私の拙い信仰でも、心に広がる穏やかな空気は生きにくい今の世の中でも力を与えてくれている。

 目指すものは生きるエネルギーになるのだから夢を描いて、目的をもつことはを大事にしたらいい。自分の思う通りになったら謙虚に喜べ。思う通りにならなかったら謙虚に反省すればいい。思う通りにならないことが多いのだから失望する必要はない。次のステップへの希望なのだから。

大輔 がんばりましたね

2010-02-19 22:04:24 | 日々の出来事
 うん、よく頑張った。できたら金メダルとらせてあげたかったけれど、でも大けがから復活し、年末の全日本から本当に滑り込んだのんでしょうね。(痩せていてびっくりしました!)SPの後の笑顔を見ていたら、できたらあの笑顔をもう一度見たい!!と思いました。

 最後のオリンピックと言っていたけれど…プルシェンコだってカムバックしたから将来のことは分からないけれど、今度の世界選手権は出るんでしょう、ね。楽しみ、楽しみ。

 織田君だって、小塚君だってこのままでこのシーズン終わりたくないでしょうし…。アスリートのがんばっている姿は好きだなぁ。今回、まともにリアルタイムではなかなか見るチャンスがなくて残念ですが、来週は少しは時間をとることができるかなぁ。

 オリオールズの上原、昨日からキャンプイン。今年は中継ぎでまず、投げて投げて実績を作ることにしたそうな。そう、実力をちゃんと評価してもらってこそ先発希望はかなえられるかもの世界だからね。それにしてもこまめに更新してくれるブロガーではあります、ファンにはたまりませんが・・。

今日は上田教室日帰り。
「雛祭りの茶懐石」の割り稽古
向付  さよりの細作り菜種和え
飯   一文字
汁   蓬麩の京みそ仕立て
煮物椀 三彩しんじょ椀
焼き物 さわらの幽庵漬け
八寸  唐墨 菜の花辛子漬け

直前に先生事故って、「間に合いそうもないからやり始めて~~」って、そりゃぁびっくりしました。事故もだけれど、人の献立をいきなりできるものではない。でも、生徒さんに手伝ってもらいながら下準備をしていたら、ぎりぎりセーフで先生が現れてホッとしました。説明を聞きながら、やっぱり大先輩(年は近いけれど、ずっとずっと教室を持っていらっしゃってさすがです。このために、そして専門外の中華や西洋料理を教わるために上田に通っているようなものです。感謝!!

長島、加藤 やったじゃない!!

2010-02-16 23:51:32 | 日々の出来事
 オリンピックメダルがいくつ、とか予想するのやめようよ。一生懸命アスリートたちが頑張ってすごした時間、その照準をオリンピックに合わせてきたことを共に喜ぼうよ。と思っているのだけれど、でもステン!!とこけるくらいのガッツポーズや銅メダルがこんなに悔しいとは!といいつつ嬉しそうな様子を見ると、良かったなぁ、メダルというご褒美を貰ってと思う。

 メダルなくても、メダルじゃなくても頑張ったことへのご褒美は人生の中にこれから生かされてくるのだから、ね。

 おめでとう!!

疲れた、けれど楽しかった

2010-02-16 23:46:13 | カトリックの信仰
 週末に帰宅して、今日がピークの日々だったのですが、でも終わってみれば充実していたというのでしょうか。

 土曜日の晩:部屋の中が温まらずに、DMの片付けやらメールのチェック、荷物を解いたところで早めに入浴・就寝。夜のうちに、先月頂いたはねだしの黒豆を3キロ近く水に戻す。

 日曜日:朝、黒豆に火を通しながら、今週のカルチャーの献立チェック.買い物リストを作り、一日の行程を考える(思ったとおりにならないのは世の常)。
 ミサに出て、知人と昼食をし、買い物に走り、修道院の夕食を作り(火曜日の献立と同じにして練習)、夜は黒豆の続きを煮ながら、あちこち片付けていたら「竜馬伝}の時間になっていましたっけ。その後、パソコン仕事で料理と火曜日の夜の教会のクラスの下準備。寝たのはかなり遅く…。豆はかなり柔らかいのだ駆れど、スーパーで買った乾燥麹ではやはり足りないし、気になって使う気にならず、翌日仕事。

 月曜日(って昨日?):朝から普段からたまっていた文具を買いにちょっと郊外の常時3割引の事務用品屋に行き、銀行にいき、麹屋さんにいった。お昼を挟んで教会の手伝いに借り出され、その後、またまた八百屋や肉屋、魚屋と走り回って翌(今日)の準備完了!(のはずが、今日まだ残りが少しありました(*_*;)、それから出耒になっていた病み上がりの方のお見舞いに。前後入れて1時間、もう真っ暗になってきていました。

 夕方から1時間半、味噌作り。柔らかくなった黒豆に火を通して暖め、麹・塩・種みそを用意、フードプロセッサーも仕込む容器も準備して、手順はよくなったけれど、出来上がり10キロを超えたみそ仕込が終わって、あちこちきれいにし終わったのは9時近く。夜はまたクラスの準備で聖書やノートを開いて要点のみ書き留める。

 今日(火曜日)です!:朝、カルチャーにもっていくものチェック。最後の魚屋さんに行き、またまた銀行で振込みやら済ませて 早めだったけれどカルチャーへ。3月の日程の確認、4月からの新講座の確認。

 懐石料理入門科。1時から準備仕事をして、2時から開始。
《今日の献立》
いかの刺身三点盛り、いかのげそとほうれん草煮寄せ、茶碗蒸し。
13人出席者と楽しく調理。11回目の入門科はあと来月のみ。皆来年度もやってくれるかなぁ。片づけして、5時近くに教会へ。一仕事してから夜のクラスの最後の準備は聖書を何回も何回も読み込むこと。

 「ヨハネ福音書をゆっくり読む」は3回目にして1章の19節から。なぜかヨハネになったら、ご夫婦二組参加で、今晩は10人。洗礼者ヨハネを通して福音記者ヨハネが伝えたかった神の思いを受け止めて、丁寧に読み勧める。今まで何回も何回も読んだはずの箇所なのに、今回の準備で今まで思い込んで読み飛ばしていたところがあった。信仰を深める為にはそんなことはどうでもいいのに…。
  
 洗礼者ヨハネがイエスを待っていた「神の子羊」とみとめて、彼のの弟子が2人がイエスについていく。自分の師が、自分のしていること、伝えていることは今まで伝えられていた「その方」が来る準備に過ぎない、道筋に過ぎない。いつか「その方」がこられる。その時は霊が下るのが見えるのですぐ分かるはずだと神の思いを使命としていたから、弟子たちはその話を何回も聞いていただろう、だからイエスを「神の子羊」という師の促しで、イエスと出会い、そのままイエスに従った。待ち望んでいた人に会えたら、嬉しいに違いなかっただろう。まだ、説教も病人を癒すこともしていなかったときに…。あっ、この人だ!!とものすごいインパクトがあったのだろう。二人のうちの一人アンドレは、兄弟シモンのところへいって連れてくる。シモンはイエスから岩(ヶふぁ)と呼ばれ教会の礎となるペトロ。アンドレは更にフィリッポという同郷の友人に知らせる。ここです、今まで気がつかなかったのは。『アンドレとペトロはがリラヤのベトサイダの出身で、フィリッポも同じ出身だった』あれ??ペトロの家はカファルナウムじゃなかったっけかな?? イエスはカファルナウムで宣教活動は多いのだが『ペトロの姑を癒した』のもカファルナウム (@_@。あれ?カファルナウムは姑の家があったところ?ペトロ自信はベトサイダ出身で、ガリラヤ湖畔にあるカファルナウムは故郷ではなかったんだ!って、本筋とは違うのだけれど、こういう小さな気づきが嬉しいことの一つ。

 出席者からも創世記の第一章で神が何度も『良しとされた』と書いてあるが、あれは、創世記が書かれたバビロニア捕囚時代に、暗いことばかり辛いことばかりのときに何か明るいことはないか、神の思いは悪の中にあるのではない、といって書かれた天地創造物語なのだという説がある、そうなという分かち合いをして頂いた。

 弟子たちがイエスに従った場面を思うと私たちも、振り返ってみれば折りに触れて神の導きがあったことに気がつく。神もイエスも見えないし触れられない。でも色々な出来事の中に、自分の力ではない巡り合わせ、出会いが沢山あって、今がある。様々なタイプの一人一人違う人と人との出会いが、相性のいい人であろうがなかろうが、それは私の問題ではない。神の創造の業なのだから。だから人間関係で思い煩うのは時間が勿体無い。

 今、楽しい?と聞いたら、『楽しいですよぉ、山あり谷ありだから』と。そう、自分の思い通りにならないことも、大丈夫『良しとされた』方がいるのだからと希望を持てる、核心をもっている者は強く生きることができる。

 何とも、充実した数日間でありました。友達と会い、ちょっとの奉仕ができ、料理を共に学ぶことができて、聖書を共に分かち合える時ももてた。嬉しかったし、楽しかった。

 こうしてハードな日はまだ続く。

2/14 主日の説教より

2010-02-14 22:36:20 | カトリックの信仰
 今日は久しぶりに母教会でミサに参加。F師司式でした。

☆★☆★☆ ルカ6:17,20~26 貧しい人は幸いである~
 第一朗読(旧約聖書)のエレミヤ書では『祝福されよ、信頼されるものは…』とあり、第二朗読(使徒書)のコリントの信徒への手紙の中で『主の復活は来る』とあり、この灰の水曜日から四旬節に入り、私たちは主の受難、復活へ向けて準備が始まる。
 イエスは、集まった人々に向かって語りかけている。ひとり一人に色々な思い、願いがある。どんな辛いことがあっても、或いは何もなくても神に信頼して生きることができるか。キリスト者として、生活の中でキリストを選ぶ場面もあるでしょう。その時に、キリストを選ぶか。例えば、昔金曜日に毎週、肉を食べてはいけない小斎(小さな清めといったらいいのか)があった。家のものが信者ではない時に、夕べの食卓に肉が出たときにどうしようかと思ったというような体験もあった。例えば日曜に仕事が入って、ミサに行けなくなった。今はどちらもたいして問題にすることではないが…そんなことでもキリスト者としてどちらを選ぶかという小さな選択があった時代であった。
 良心的に人をゆるせない時にキリスト者としてゆるさなくてはならない葛藤がある、そういうときにこそ、キリストを選んでいけるキリスト者でありたい。これからの四旬節の間にそんな自分の心の貧しさに気づき、キリストに信頼をおくものとなれるように祈りましょう。★☆★☆★

 主日のミサでは沢山の方と顔をあわせる。ミサが終わって、知人のR君と玄関先で話をしながら昨年末に生まれた赤ちゃんを連れて迎えに来る奥さん(私、この2人の結婚式の証人でした)を待っていた数分の間、やはりミサを終えて家路につく多くの方と次々に『お久しぶり…』『お元気でしたか?』と声を交わわせ、ちょっと会話しているのを見ていたR君が、びっくりしていた。「え~っ?? 話をしない相手がいない!!」 確かに~~~

 本当に幸せなことだと思う。が、この幸せを今日の福音の中に当てはめるとキリスト者としてはどんな生き方をしているのだろうと自分を振り返ってみた。今日の福音箇所にはなくて、マタイの福音書にある『柔和な人は幸いである。その人は地を受け継ぐ』という句が好きなのだが、今日のルカではピタッと来るところがない。色々な人に色々なことを言われたことも、何人かの人にののしられたことも、あることないこと言われてめげそうになったこともあったっけ。でもそんな時にいつも思っていた。言われたそのことを言わせてしまうものが私にあるから、そういう言葉になるのだろう、とその内容を思い巡らしすごすようにしていたな、と。波立ち、心騒ぐ思いが段々と穏やかになって行き、至らない自分に気がつかせてくれたことを感謝できるようになる、そんなことは何度も体験した。そんな折々のことが思い出されて、それでも今日、沢山の方たちと心からの笑顔で話せることに多くの方たちに支えられ、助けられて教会活動をしていたのだなぁと改めて、感謝しかない。

 昨夜、早めにお風呂に入り、床に入り、良く眠って、朝早く目覚めて…。今日はお天気も良くて、いい一日だった。

 オリンピック、みな一生懸命、それでいい。悔いのない、練習してきたことができたと思える瞬間が沢山の人にありますように。外野席はその輝きを目にできることに感謝したらいい。

寒いです!

2010-02-13 21:50:22 | 日々の出来事
東京でも雪が降ったり、今日も寒かったですが、久しぶりに帰った長野は比ではなかったです。
母には最高気温が0℃とかマイナスの時もあるって信じられないようですが、東京の日中と長野の家の中が同じも20℃以上の室温をキープしているハ母には考えられないでしようね。この凛とした寒さは嫌いではないけれど、久しぶりに半端ではない感覚です。
朝までに暖房が効くでしょうか…☆‥☆~

枝野さん 行政改革担当大臣に・・・

2010-02-10 22:30:11 | 日々の出来事
 以前、HPやブログに政治の話は載せない方がいいと言われたことがありましたっけ…

 今朝のニュースで、枝野さんを行革大臣にというのを知って、少し前に内閣官房にという鳩山氏の要請に本人は受諾したが非小沢派ということでなかなか話が進まないという記事を読んでいたので、ほぅ、鳩山氏の意志が通ったのかなと思った。小沢さんの言うなりではないぞ、と。その後、反対勢力を閣内にいれて口を閉じさせようという、そういうシナリオもありかな?と思っていたら、どっちもありというのが新聞やテレビで言われていて、そうか誰でも考えることなのだなと思った次第。

 鳩山氏を積極的に支持というのではない。でも長く続きすぎた政権に戻ってほしいとは思わない。硬直してしまい、野党として与党に「誰のいのちを守るつもりか」と質問しているそのままに、自分たちの得た利権に固執していたのはどちら様でしたっけ?と思わずにはいられない。国民のためにという政治理念を守っていたのですか?・・・・そして、だからこそ民主党には、「なぁんだ、自民党の古い体質そのままじゃないか」と思わせないで欲しい。目先のパフォーマンスではなくて、多少時間がかかっても着実な変化を具体的に見せてほしい。だから、変だと思うことを変だと言える人がいていい。その人たちが干されてしまうようだったら、支持率はもっと下がるに違いない。

 1秒、2秒の差を埋めるためにスピードを上げて大惨事になった列車事故の時に、その数秒の成果のために人間性を失っていくような社会構造はおかしいと思った。新しいN系の新幹線で東京―大阪間の時間が短縮されたと大きなニュースになったときに感じた違和感…もう忘れてしまったけれど何時間じゃなくて、30分にもなっていなかったような気がする。その数分を縮めて、もっとビジネスに駆け回る集団を送り出している。多額の予算をつけて、リニアモーターカーの開発がなされているがそんなに急いでどうするの?と思う。仕分けの対象にならないかな、と。わかる。私も何時間もかけて汽車に揺られ、電車に乗って移動していたのに、新幹線ができたらなかなか時間のかかる乗り物に乗らなくなった。楽になったから。でも、失ったものもある。

 人間の持つ本来の生きる力に信頼できる、そんな社会は現代でも可能だと… 枝野さんから話はそれた。

2/7 主日の説教から

2010-02-08 22:49:09 | カトリックの信仰
 実家近くの修道院でのミサは久しぶり…

 K師は後期高齢者医療の対象と一昨年伺った、って説教には何の関係もないですが…

 ☆★☆★☆
 ルカ5:1~11 イエスがペトロに「人間をとる漁師にしよう」と言われ、ペトロがすべてを捨てて従ったところです。その前晩に漁師であるペトロが何も獲れずに網を繕っていたところに、漁師でもないイエスが来てもう一度船を出すように言われました。プロの漁師出会ったペトロは、イエスの仰せに従いました。そして船に一杯の魚が取れたときに、イエスの足元にひれ伏して「主よ、私から離れて下さい。私は罪深いものです」と言ったのです。

 神の素晴らしさ、恵みの大きさに気がついた者は、ますます自分の至らなさに気付きます。神がご自分の似姿として私たちに与えて下さったいのちは、どんないのちかを示して下さったのはイエス、神の与えて下さったいのちの恵みに気がつかない人々に仕えるようにと召し出されました。人をすなどる者になれ!と。神によって清められた主の望みのために働く力を与えられているのだから、立ち、伝えなさいと言われます。主がおん子を通して、神の思いを伝えることができるように私たちを支えて下さい、と祈りましょう。

 第1朗読(イザヤ6:2~8「私はここにおります。私を遣わして下さい」)、第2朗読(1コリント15:1~11「私にしても、彼らにしてもこのように宣べ伝えているのですし、あなた方はこのように信じたのでした」)も神のみことばの前にへりくだり、福音を伝えさせて下さいと祈っています。おん子ご自身が伝えて下さったみ言葉が福音です。旧約は預言者を通して、新約は決定的に違うのです、神のおん子が伝えて下さったことばです。福音書と使徒書も違います。

 神がいつでも恵みを与えて下さっているので、私たちは自らを卑しめず、恵みに感謝すれば、私のいのちがあなたたちを神の子に仕上げるという神の計画が完成するという確信に導かれるように祈りましょう。☆★☆★☆

 今、読み進めている本“幸せに驚く力”(清水眞砂子著)の中に 「人間って、自分で選んでいるつもりだけれど、自分で選べることってほんのわずかしかないっていうことが分かってきました」というフレーズがありました。「人生に何を期待するか」ではなく「人生が自分に何を期待しているか」という問いに答えていくこと、人は課せられた人生を生きていくという言い方もありました。それを神からの恵みと受け止めて、与えられた道を歩く、恵みに気付いて生きるという私を重ねることができました。振り返って、いろいろなことがあったなぁと思う時もありますが、その時々に新たに歩みを進めることができたのは悲しい時でも辛い時でも神の思いを受け止めていくのだという確信が、闇の中の光となってくれていたのだなと思う。やっぱり、すべての人に神の恵みは語りかけているのだ!と思うと嬉しくなる。

追記:昨日作った惣菜

2010-02-06 06:26:58 | 料理
 昨日かった材料で、午後ほとんど立ちっぱなしで作り上げたものは

☆ほうぼうと赤貝の刺身
☆ほうぼうの蒸し物
☆ほうぼうの榎茸人参巻き焼き
☆穴子甘煮(穴子ご飯用)
☆ほうぼうのあらのみそ汁。

刺身は本当においしかった。ほうぼうも赤貝も甘味があって母も大満足。だって二人で赤貝5個もしっかりいただいたのだから。身はプリプリの、でも柔らかく。ひもも貝柱もおいしかった~~。
ほうぼうは大小あったけれど(だから安かった)色々にできて楽しんだ。どれも気に入ったけれど、あらのみそ汁は絶品でした。刺身の褄用に大根を桂むきにした残りの芯もみそ汁に入れて、ねぎを一杯。あらから上品ないい味が出ていました。
穴子、おいしい匂い、好きだなぁ~~~。穴子と焼き物は今晩妹といただく。
昨日作ったものは弟夫婦にもあげた。母や弟夫婦(そして今日は妹も)皆のおいしいという顔は買い物に行った甲斐があったというもの、作ってうれしい気持ちになるというもの。堪えられませんね。

 残念なのはまたまた写真には撮らずに食べてしまった、ということ。今晩撮れるかな。