「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

29、藤裏葉 ④

2024年01月19日 08時56分49秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・賀茂祭りを見ると、
源氏は遠い昔、
正妻・葵の上と六條御息所が、
争った事件を思いだす。

その話を紫の上に話す。

「時の勢いを傘にきて、
驕慢な振る舞いをするのは、
心ないやり方だ。
葵の上は、
あの時の恨みを負うて、
死んでしまった。
あの時、おごった人の子供は、
臣下で少しずつ、
出世していくだけだが、
いじめられた方の女人のおん娘は、
いまは中宮という尊いみ位にのぼり、
万人に仰がれていらっしゃる」

「ほんとうにわからないものです」

「人間の将来というのは、
どんなことになるかわからない。
だから生きている間だけでも、
思うままの暮らしをしたいものだが、
もし、私が亡くなったら、
あなたはどうなるだろうかと思って。
あまりにおごった生活をすると、
私亡きあと、
あなたがひどく零落しないかと、
恐れたりするのだよ」

源氏にとって、
やはり一番の気がかりは、
最愛の紫の上のことである。

近衛府から出る、
賀茂祭の勅使は、
頭の中将(柏木)であった。

上達部たちは内大臣邸の、
勅使が出発するところに集り、
それから源氏の桟敷に来た。

藤典侍(とうのないしのすけ)も、
勅使であった。

この藤典侍を、
ご記憶であろうか?

源氏のお側去らずの供・惟光の娘で、
かの、
五節の君になった美少女である。

夕霧が雲井雁との恋を裂かれ、
悶々としていた時に、
ふとかいまみて、
心乱した娘であった。

夕霧は真面目な性格だけに、
いったん見染めた彼女を、
今も忘れず、
ほのかに思いをかけている。

夕霧は彼女が出立する所へ、
使いをやった。

藤典侍は、
夕霧がこのほど、
やんごとない姫君と、
めでたく結婚して、
身が定まったことを聞いて、
辛く思っている。

夕霧への思慕を、
人知れずはぐくんできた彼女は、
恋人の結婚に平静でいられなかった。

といって、
どうしようもないことだった。

藤典侍が、
正式に夕霧夫人になるには、
身分が違っていた・・・

それゆえ、
夕霧の手紙は、
なつかしくも憎かった。

「賀茂祭に、
頭にかざす草は何といったっけ。
いつかは、と切なくて」

とある。

祭りの日のかざしは葵である。
夕霧は「逢う日」に、
かけているのだった。

さすがに藤典侍は嬉しくて、
車に乗る間際であったが、
返事をことづける。

「かざしをお忘れになるなんて、
あなたのような物知りのお方が・・・
かざしの草より、
もっと美しい花をお身近く、
見なれていらっしゃるのですもの、
無理もありません」

夕霧はその手紙を見て、
恋心をかきたてられた。

雲井雁と結婚するまでは、
藤典侍との仲に、
深入りする気になれなかったのに、
結婚してみると、
彼女も得たいという情熱が、
実直男の夕霧の心を捉えた。

いよいよ、明石の姫君の、
入内の日が近づいた。

入内には母君が、
付き添って行かねばいけないが、
紫の上は始終の付き添いは出来ない。

源氏はこの際、
実母の明石の上を後見役にすれば、
と考えていた。

仲のよい夫婦は、
おのずと考えることも似るのか、
紫の上も同じことを源氏に言った。

「丁度いい折です。
あちらの実のお母さまに、
姫君のお世話をお願いしたら、
どうでしょう。
離れ離れになって、
辛がっていらっしゃるに違いないし、
姫君もだんだん、
ほんとうのお母さまでないと、
言えないことが出てくる年頃だと、
思います」

自分の存在が、
明石の上母子にとって、
重く感じられるのも辛いし、
さかしい紫の上は、
そういうことは源氏にはいわない。

「姫君もまだ子供っぽくいらして、
心配ですし、
お側の女房も若くて気がつきません。
乳母といっても、
心づかいは限度があります。
やはり実のお母さまのご後見なら、
安心してお任せしておけます」

「よく、言ってくれた。
実は私もそう思っていたのだよ」

源氏は喜んで、
明石の上に早速話した。

明石の上は、
平生の願いがかなったように、
喜んだが、
祖母の尼君は、

「入内なされたら、
もうお目にかかる折もあるまいねえ」

と悲しまれた。






          

(次回へ)










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