むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

29、藤裏葉 ③

2024年01月18日 09時06分36秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・夕霧は夢のような気がする。

(よくもいままで、
堪えて待ち続けたことだ)

とわれながら、
自分の忍耐心や辛抱強さを思った。

目の前の雲井雁は、
夕霧がこうもあろうかと、
思っていた以上に美しく、
匂やかな乙女になっていた。

別れたときの、
童女のおもかげを残しながら、
さすがに春の悩ましい美しさに、
なっていた。

「やっと会えたね。
何年待っただろう・・・
世間の人が面白がって、
私たちの噂をするくらい、
風変わりな恋だった。
私がどんなに苦しかったか、
わかりますか?」

雲井雁は、
今夜は夕霧が来ることを、
知らされて、女房達も、
その用意もぬかりなく、
鄭重にととのえてあった。

だから、
不意打ちの出現ではないのだが、
雲井雁はまだ心の用意が、
できていなかった。

あまりに大きな嬉しさのため、
雲井雁の心は、
まだ羞恥に閉ざされていた。

そんな雲井雁を、
夕霧は抱きしめた。

「ああ、こうしていると、
何年か前、
無理やり引き離された時のことを、
思いだす・・・」

夕霧がいうと、雲井雁も、
長いまつげをあげて夕霧を見た。

「乳母に見つけられたわね、
あのとき」

「そうだ。
そして乳母が聞こえよがしに言ったっけ。
花婿が六位の下っ端役人とは、
人聞きも悪い、と・・・」

「でも、わたくしは、
あのとき誓ってよ。
あなたはわたくしにとっては、
大臣や大将よりすてきな人だって」

二人で話しているうちに、
昔の強い思慕が、
しだいに現実の今に重なり、
二人は微笑み合うのだった。

夜が明けた。

花嫁の初床は、
重く暗く帳をたれこめて、
ひそとの音もしない。

女房たちは起こすことも出来ず、
困っていた。

雲井雁の父、内大臣は、
そう聞いて、

「したり顔に朝寝をしているな」

と嫌味をいった。

内大臣は、
こんな事態になってもなお、
自分の方が折れたことで、
一抹の屈辱感をぬぐい去ることが、
出来ないのである。

しかし、夕霧は、
すっかり明けきらぬうちに帰った。

後朝(きぬぎぬ)の文は、
以前と同じ人目を忍ぶ形で来たが、
晴れて夫婦となった今は、
却って恥ずかしくて、
雲井雁は返事が出来ない。

今まで人目を忍んで来ていた、
文の使いは、
今日は晴れて祝儀を頂き、
兄の頭の中将・柏木が、
心こめてもてなしたので、
やっと人並みな心地がした。

源氏は、
夕霧の首尾が上々だったことを、
人々から聞いて、

「おお、それはめでたかった」

と、親心に嬉しい思いをした。

そこへ夕霧が来た。

「よかったね。
長い間の苦労が報われた、
というものだ。
よくやった」

源氏は息子をほめた。

「聡明な男でも、
恋愛問題ではつまづく者が多いが、
見苦しく未練を見せたり、
焦ったりせず、
落ち着いて待ったのは、
なみの人間には出来ない。
その点はみとめるよ」

源氏はやさしくいって、

「内大臣が、
あんなに強硬になっていたのに、
自分から折れたことは、
世間の噂になるだろうな。
かといって、
お前が得意顔になってはいけない。
ましていい気になって、
浮気心など起こしてはいけないよ。
あの内大臣は、
寛大なように見えるが、
本当は男らしくないところがあって、
つきあいにくい方なのだ。
気をつけなさい」

と言い聞かせた。

源氏は、
似合いの夫婦だと、
夕霧のことを思った。

二人そろっていると、
親子というよりも、
源氏が若々しいので兄弟のよう。

今日は四月八日の、
灌仏会であった。

六條院も、
御所と同じような作法があって、
たくさんの公達が参集している。

しかし、夕霧一人、
そわそわして落ち着かない。

身だしなみをととのえ、
新妻のもとへ出かけるのである。

夕霧は、
長年の恋がみのったので、
新妻の雲井雁との仲は、
水も洩らさぬむつまじさである。

内大臣は、
親しくなればなるほど、
夕霧の立派さがわかって、
婿がかわいくなり、
鄭重にかしずき、
もてなすのであった。

自分から折れたというのは、
今でも口惜しいが、
夕霧が長の年月、
他の女性に目もくれず、
雲井雁を思い続けてくれた、
誠実さには文句のつけようがなかった。

内大臣はその点で、
夕霧に一歩も二歩もゆずって、
感謝せずにいられなかった。

雲井雁の幸福はいうまでもない。

むしろ、
長女の女御のおん有様より、
花やかに楽し気な新婚生活なので、
継母の北の方や女房たちは、
嫉妬するくらいだった。

だが、
夕霧という夫を得た雲井雁に、
いまはなんのひけめもなかった。

雲井雁の実母は、
今は按察使の北の方になっているが、
その実母も、
別れた夫の家においてきた娘が、
幸福な結婚をしたことを聞いて、
たいそう喜んでいた。

いろいろなことがあったが、
六條院の明石の姫君の入内は、
四月二十日過ぎとなった。

賀茂祭の日、
紫の上は朝早く詣り、
帰りに行列を見るため、
桟敷についた。

六條院の女君たち、
女房がそれぞれ車を連ね、
桟敷の前を占めた様子は、
壮観だった。

「あれこそ、
源氏の大臣の北の方よ」

と遠くからでもわかる、
派手やかな威勢である。






          


(次回へ)

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