・「もともと愛し合っておられたご夫婦でした。
それはそれは仲のよいご夫婦、
それに殿のほうは学問の家のお生まれで文才に長け、
歌詠みでもあられて、慈悲深く心やさしいかた、
北の方も心ざますぐれた女人でいられました。
それがどうしたことか、殿はいつからとなく、
別の若い女人を愛してしまわれました。
中年になって踏み迷う恋の闇路の煩悩は、
なかなか深うございます・・・」
語るのはお話上手の老尼である。
月に一度か二度、北山の草庵から出て来て、
都のさるお邸へうかがうが、邸の女人たちは、
世間広い老尼の物語る話を喜んで聞くのだった。
桜の花びらが御簾の外へ吹きためられて、
縁は白くなっている。
~~~
・「殿はもう、若い女のほか、誰も目に入られませぬ。
その女人は、盛りの若さが輝くばかりで、
しかもこの上なく美しく愛らしかったと申します。
北の方の嫉妬は日ごとに深くなってゆきますが、
殿はそれさえ、お心にとめられません・・・」
この男は宮仕えしていましたが、
やがて三河守に任ぜられ、
任国へ下向しなければいけなくなり、
男は愛人を連れて行きたいと思った。
「あの女を連れて行くのですか?」
男の妻は屈辱感にうちひしがれた。
「あの女と私を一緒に連れて行くとおっしゃるの?」
「すまん。あの女とは別れられない」
男は本心から妻にすまないと思いつつ、
「お前が許せないと思う気持ちは分かるが、
こればかりはどうにもならない。こらえてくれ」
「あの女と一緒に行くくらいなら、私は都に残ります」
妻は悲しみと嫉妬に心荒れて叫んだ。
「もうお別れだわ、別れましょう、私たち」
「お前、そう簡単にいうが、
夫婦というものはそんな浅い契りではないはずだよ。
おれたちの間には子供もいることだし、
お前に対する気持ちは変っていない。
長い目で見てほしいのだよ」
「変っていないのなら、どうしてあの女と別れられないの、
もし心変りしていないというなら、その証拠に、
今すぐあの女を放りだして下さい!」
「それが出来るならこんな苦しみはしない。
お前も大切に思っている、しかし、正直なところ、
あの女とも別れられない・・・」
夫の率直さは妻をよけい傷つけた。
妻は苦しみ、夫も苦しみ、
その苦しみは二人を結びつけることにはならず、
却って二人の心を離れさせてしまう不毛の苦しみだった。
妻は自分の未練を自分で断ち切るように夫と別れた。
夫は若い愛人を妻として、任国へ下っていった。
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・妻のそれからの歳月は地獄の苦しみだった。
嫉妬と怨嗟にあけくれ、
幾度、夢の中で別れた夫と愛人を呪い殺したことだろう。
嫉妬が女の毎日の仕事になった。
そのうち、不思議なうわさが聞こえてきた。
あの女は任国に着いてしばらくして重い病にかかり、
死んでしまったというのだ。
妻は陰湿な喜びをおぼえて、思わず暗い笑みを洩らした。
いい気味だ、と思った。
嫉妬の念が届いて、女をとり殺したにちがいない、
そう思ってもうしろめたくはなかった。
ところがそのあとのうわさを聞いて妻は衝撃を受けた。
男は世の無常を感じて出家したというのだ。
そこまだあの女を愛していたのか。
世を捨てるまで思いこんだのか。
妻の嫉妬はいよいよ物狂おしく深まった。
夫は任地の館を出奔し、京へ上って僧になったと。
名も寂照(じゃくしょう)とあらため、
修行にいそしんでいるそうな。
妻はそれを聞いて、いよいよ男が憎かった。
男はもともとまじめいちずな人間であるのを、
妻はよく知っていた。
そのいちずな男をそこまで思いつめさせた女も憎ければ、
女のために道心をおこした男はなお憎かった。
(次回へ)