<み吉野の 山の秋風 さ夜ふけて
ふるさと寒く 衣うつなり>
(吉野の山の 秋風よ
ふけゆく夜の 静寂に
砧の音が
寒々ときこえる
旧都のこの地に
もの思えというがごとく・・・)
・『新古今集』巻五の秋の部に、
「とう衣のこころを」として出ている。
これには本歌があって、
『古今集』巻六の坂上是則の歌、
<み吉野の 山の白雪 つもるらし
ふるさと寒く なりまさるなり>
ただ本歌は冬の歌であるが、
雅経の歌は秋の淋しさを詠んでいる。
砧(きぬた)は秋の情感になる。
砧は衣板(きぬいた)、
木や石の台に衣をのせ、
木槌で打ってやわらかくしたり、
艶を出したりする。
その音は昔から、
人々に物思わせるものとして、
詩人の多感な心を動かしたのである。
『源氏物語』にも、
まだ若い頃の光源氏が夕顔の家へ泊まり、
この砧の音を聞くくだりがある。
大体、砧というのは庶民のする手わざで、
賤が伏屋から聞かれる物音である。
権門のお坊ちゃんである光源氏には、
耳なれぬ音なのだ。
さて、作者の雅経(まさつね)、
この人は藤原雅経というのが本名だが、
蹴鞠の名人で、「飛鳥井流」を開いたので、
飛鳥井雅経というほうがとおりが早い。
(1170~1221)
後鳥羽・土御門(つちみかど)・順徳の、
三代に仕えた。
参議従三位に至っている。
和歌を俊成に学び、
『新古今集』の撰者になった。
鞠と歌と。
この二つの道で雅経は朝廷に仕えた。
後鳥羽院は、
雅経を蹴鞠の師匠とされた。
蹴鞠は中国から伝わった遊びであるが、
源流はもっと西方らしい。
十世紀のころから、
朝廷や貴族のあそびとして盛んになったが、
雅経の時代から勝負を争うゲームというより、
むしろ、典雅な儀礼となって、
いろいろ決まり事もできた。
『源氏物語』の「若菜」の上の巻に、
蹴鞠の描写がある。
らんまんの桜のもと、
若い貴公子たちは羽目をはずして興じる。
優雅な物腰の美青年たちであるが、
鞠に夢中になると、
冠の額ぎわもゆるみ、
指貫を引きあげ、
花吹雪をあびて鞠にいどむ。
この時、蹴鞠の名手として活躍する柏木は、
御簾のうちから、源氏の若い妻・女三の宮を、
かいま見て恋に落ちる。
柏木の悲恋がこの巻からはじまる。
蹴鞠といえば、我々世代は、
中大兄皇子と鎌足が蹴鞠をして、
中大兄のお靴を鎌足が捧げている、
そういう絵が戦前の歴史の本に載っていた。
蹴鞠をきっかけに両者は接近し、
互いに手をたずさえて、
蘇我氏打倒のはかりごとを練る。
『日本書紀』を読むと、
「打毬(だきゅう)」となっている。
野趣たけだけしいこの時代は、
なおのこと荒っぽいスポーツだったかもしれない。
(次回へ)