<おほけなく 憂き世の民に おほふかな
わが立つ杣に すみぞめの袖>
(身のほど知らずのことであるが
わが墨染の袖を 私は
うき世の民に
おおいかけるのだ
すべての人にあまねく
みほとけの冥加あらせたまえ
比叡の開祖・伝教大師の
みこころを慕うて)
・僧職にある人にふさわしい、
堂々たる気概の歌である。
宗教家の信念や抱負が、
凛として示されているが、
この歌の背後には、
伝教大師・最澄の歌があり、
それが借景となって、
歌の姿がいっそう巨きくなり、
格調高くなっている。
伝教大師の歌というのは
「あのくたら さんみゃくさんぼだいの仏たち、
わが立つ杣に 冥加あらせたまへ」
というもの。
「あのくたらさんみゃくさんぼだい」
というのは梵語で、
最高の真理知恵ということだそうである。
大師は比叡山延暦寺の根本中道を建立するとき、
この歌を詠んだ。
大師は中堂を建立しようとして、
材木を伐りだす山に立ち、
仏の加護を念じた。
力強い情熱のみなぎる、
意志的な歌である。
慈円はそれをふまえて、
衆生を救おうという理想に燃えた。
慈円(1155~1225)
この人もまた乱世に生きた人であった。
関白、藤原忠通(76番の「わたの原」の作者)の、
晩年の子で、十歳の時父と死別、
十一歳で仏門に入った。
この歌はまだ若い頃、三十代の作。
『千載集』巻十七に「法印慈円」として見える。
彼の一族の九条家の人々は、
歌をよくする。
慈円もまた『新古今集』の代表的歌人の一人。
若い頃、西行に私淑したが、
西行は慈円に、
「密教を学ばれるなら、和歌をお習いなさい」
とさとした。
のちに大僧正となり、
天台座主の座にのぼったが、
政変に巻き込まれて辞し、
のちまた復座し、四たび座主になった。
九条家は親幕派だったので、
討幕の意志のあった後鳥羽院のもとで、
当主、兼実は失脚する。
しかし、後鳥羽院は慈円の歌才と人柄を愛された。
慈円もまた、後鳥羽院にまことを捧げた。
院の無謀な討幕の志を知って慈円は、
どんなに心を痛めたことであろう。
鎌倉幕府の情報が豊富に入手しやすく、
かつ、独自の史観と見識を持っていた慈円は、
世の流れ、人の心の動きから将来を見据え、
皇室のあるべき姿を『愚管抄』にまとめた。
その書はそれとなく、
後鳥羽院の叡覧に入れ、
討幕の企てを放棄して頂きたい、
という慈円の熱意から書かれたものであった。
慈円は源平の騒乱で、
三種の神器も安徳帝とともに、
壇の浦の海底に沈んだこと、
神鏡、神勾玉はのちに拾いあげられたが、
神剣はついに入手できなかったことを明快にしるす。
なぜ天(運命)は剣を皇室に返さなかったか、
いま武士が武力で国を治めるようになった時代、
天皇は武を放棄して文で治められるべき、
時世のまわりあわせ、
「今は宝剣も無益になりぬるなり」
剣は武の象徴であれば。
慈円は源頼朝とも親しく、
歌を贈答している。
頼朝はなかなかの歌人であったから、
実朝に歌才が伝わったのも当然であるし、
頼朝はさすが都育ちの男だったのだ。
(次回へ)