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・書斎は足を踏み入れられないので、
取ってかえして寝室から廊下へ出る。
逃げ道を確保しなければと殊勝なことを考えたのであるが、
廊下の書類棚から何十冊のスクラップブックがなだれ落ちて、
腰まで埋まりそう、左手の本棚、
重い本を積んだまま、これも滑走していた。
応接間の飾り棚二つ、
これは観音開きなのでみごとにどちらも開いて、
内部のガラス製品や器が滑り落ち、
その前の床はガラスの山だった。
木っ端みじん、というけれど、
薄いガラス器だから、あたり一面キラキラ光るばかり。
好きで蒐めたアンティークのガラス製品だが、
このときも惜しいとか悔しいとかいう執着心や煩悩は失せている。
われながら平常心ではないと思ったが、
震災後十カ月たった今でも、
それは変化していないところをみると、
よっぽど(ずっど~~ん)に毒気を抜かれ、
(げぼ~~っ)に、私の裡の何かのからくりを、
破壊されてしまったのであろうか。
それよりリビングの小鳥二羽、
白い文鳥の番(つがい)がショック死しないかと心配だった。
ウチにいるイキモノといえば夫と文鳥だけである。
文鳥たちは小さいわりに案外したたかで、
すぐ巣箱から出てきてさえずり始めた。
このリビングにも戸棚が二つ、
ワイングラスやティカップのコレクションなどがある。
一つは人形やぬいぐるみだが、
こちらは戸は開いたがモノは落ちていない。
われもののほうは、
棚を滑って落ちたらしく、見事に破片の山。
奥のキッチンも同様、
このぶんでは使える食器はないかもしれない。
だいぶんショックが薄れてきたのか、
(お~お~、やってくれるじゃん)という感じだった。
それより水の心配が先にきた。
急いでキッチンの割れ物を踏み越え、
水を出すと、まだこの時は細いながら水は出た。
ステンレスの洗い桶、ボウルに至るまで水を張った。
あとで生活用水と防火のため、
浴槽に水を張ろうとしたら、
もうとぎれとぎれで、
そのうち赤水が出だしたので止めた。
玄関のドアは開いた。
まず逃げ道は大丈夫である。
私はロウソクをふりかざし、外へ出てみた。
冬の朝の六時はまだ暗い。
ご町内をうかがうと、
あたりはし~んとして、
玄関ドアはどこもかたく閉じられている。
庶民の私としては、
お隣さんもお向かいさんも、
みな飛び出して来られるはず、
と思いこんでいたのだ。
あるいは足袋はだし、
パジャマで寒さに歯の根も合わずに震えながら、
<怖かったですねえ・・・>
<本当に。おたく、大丈夫でしたか>
などと昂奮さめやらず言い合う、
という図を想像していたのである。
こんな衝撃は六十年生きてはじめて、
未知の、未曽有の体験に関する驚きと恐怖を、
共有したいと思ったのだが、
ついに人の姿を見かけることはなかった。
誰一人外を覗く人もなく、
通行人もいない。
まだ町は深夜である。
極端にいうと、、
町内の家々はどこも倒壊、または損傷してはいないが、
住民は家の中でショック死して、
死に絶えた町のように思われた。
ただ車がヘッドライトを煌々と点じて、
狂ったように西から東へ走ってきた。
どこへ行くのか、別の車が反対に走ってゆく。
生きてる人がいた!という感じだった。
ほっとしてあったかい気持ちになった。
車の走り方もただごとではなく、
動転しているようであった。
それでこそ、人間の住む町だ。
あんなに大きな地震があったのに、
誰一人出て来ないなんて、
どうかしちゃっている。
・・・そういうことを思うのは、
私が空襲を経験した古い人間だからであろう。
空襲のときは敵機が去って、
警報解除になるが早いか、
人々は防空壕から飛び出した。
家が無事かどうか、
近隣の顔なじみの数はそろっているか、
安否を気遣い、たしかめあい、声をかけあったものだ。
戦争中は生と死が雑居していたから、
無事を確かめあうという濃密な時間を共有しなければ、
日常生活に戻れなかった。
そういう肌と肌のふれあうような、
生死を共有する気分が、
今は不意のことでもあり、生まれにくい。
突然、非日常の世界に突き落とされて、
呆然としているのかもしれない。
現代の人間関係は家族間だけで完結して、
地域まで広がらないのかしらん。
もっともそれも家の倒壊などということが、
なかったからであろう。
といって、私の住むあたり、
そんなに大きいお邸町というのでもなく、
回覧板を勝手口から届けたり、
宅配荷物も預かったり預かってもらったりして、
面倒も見合い、顔が会えば挨拶もするのだけれど。
ともかく人っ子一人出てこない町、
というのもこれはこれで不気味だった。
情報の交換、励まし合いは必要ないのかしら、
これでは人間の住む町らしくないと淋しい気がした。
それでも玄関のドアが開く、
というのだけは確かめたのでちょっと安心して、
あいかわらずロウソクをたよりに洗面した。
もちろん湯にならないが、
洗面所の水はちょろちょろ出てくれるだけでも心強い。
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(次回へ)