・ついに見た「突入せよ!『あさま山荘』事件」
ウチの近くの映画館、
三十人ほど入るとぱらっといっぱいになるという、
心安い場所。
行ってまず感慨を催したは、
観客のほとんどが男女六、七十代の年ごろ。
茶髪の若いカップルもいたが。
そうか。
<あさま山荘>へたてこもった犯人の親の世代なんだ。
その人たちが、あれはどういうことだったのか、
と今なお、晴れやらぬ胸の鬱懐のままに、
観にきたのだ。
“連合赤軍”を知っている人はいま、
どれくらいいるだろう。
尖鋭的左翼集団で、
キューバのチェ・ゲバラに心酔して、
銃の力で世界同時革命の達成を妄信していた。
唯銃主義とか。
それに爆弾テロも加わる。
妄執のたどりつく先は排他性と猜疑心で、
<総括>と称して意見の合わぬ仲間を、
リンチで殺す。
十四人の仲間の殺害が発覚して、
幹部の永田洋子らは逮捕されたが、
グループの一部は、なお人質をとって、
山荘へたてこもったという次第。
すでにもう凶悪犯である。
その何日かの犯人と警察の攻防を、
映画はリアルに描く。
原作はそのときの警視庁の偉いさんで、
現場の指揮をとられた佐々敦行さんのご本、
(『連合赤軍「あさま山荘」事件』)であるが、
佐々さんを演ずるのは役所広司さんである。
ほか、藤田まことさんや宇崎竜童さん、
伊武雅刀さんといったベテランの役者さんたちで、
緊迫感に富み、面白い。
命をと賭けて人質を無事取り戻し、
犯人を逮捕した警官たちの奮闘を、
“面白い”といっては申し訳ないが、
まさに手に汗にぎるシーンの連続。
男たちの怒号、
鉄球で破壊される山荘、
銃声、
暮れなずむ雪山。
やがて勇敢な警官たちが山荘へなだれ入り、
人質は無事救出され、犯人たちは捕らえられる。
不幸にも警官に数人の犠牲者が出たのは、
身のひきしまる思い。
三十年前の事件だ。
現代も変わりはないと信ずるが、
昔の警官は根性が座って、たのもしかった。
しかし映画にはないが、
実はこの時、民間人が自殺した。
犯人の一人、坂東国男のお父さんである。
<世間を騒がせたことを死んでお詫びします>
と首を吊った。
それというのもこのときの、
赤軍派の息子・娘らの親に対する世間の弾劾は、
すさまじかった。
親たちは畳に手をついて詫びている写真を新聞に載せられ、
評論家たちは<親の顔が見たい>と石を投げた。
家庭のしつけ、
親の育て方が悪い、と、
犯人への憎しみは<親>への攻撃にすりかえられた。
世論は沸騰して<親>を責めたのである。
「あさま山荘」に籠った犯人たちを説得するため、
母親たちが連れてこられた。
必死にマイクで息子に呼びかける母親に向かっても、
銃声で応える若者たち。
その時点ですでにリンチで同志十四人を殺戮している彼らは、
尋常な理性も、人間らしい情感も取り落としていたのだった。
<親の顔が見たい>という世の評論家の罵詈雑言に、
マスコミも同調して煽る。
片や、あたまに血がのぼった息子・娘らが、
なんで親のいうままになろうか。
親の説得も泣訴哀願も一蹴して、
唯銃主義の血まみれの夢を追う若者たち、
それに追従する、ちまたの、小型の坂東国男や永田洋子、
重信房子らのコピーたち。
<だまれ、家族帝国主義!>
と親を棄て去り、親は世間・評論家から責められる。
坂東国男のお父さんは追い詰められたのである。
親はどないしたらええのや。
その子ら、今なにしてるのや。
家のローンがどうの、
子供が登校拒否で、などと、
泣き言を言うてるのと違いますか。
そのかみ、どれだけ親を苦しめたか忘れ果て、
繁栄日本の恩恵にどっぷり浴して、
<若いときはあばれたもんや>
なんて嬉し気に回想し、
<唐牛健太郎?
六十年安保闘争の全学連委員長か。
なつかしい名ぁや>
なんて感傷にふける。
親の方は、唐牛健太郎委員長が、
右翼の田中清玄から資金援助を受けていたというニュースに、
一驚したことを思いだす。
親はいま、子も世間も棄ててしまってるだろう。
子や世間の中身を見たから。
「赤軍のいづれも老いて悲しかる重信房子いかがあるらむ」
(前川佐重郎)
平成十三年の角川書店さんの「短歌手帳」にあった歌である。
坂東国男はその後一九七五年の、
日本赤軍のクアラルンプール事件で、
超法規的措置で出国した。
あさま山荘に籠った犯人五人のうち、
坂口弘は永田洋子と共に死刑判決。
(次回へ)