むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

17、薄雲 ②

2023年11月03日 08時31分52秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・明石の君は、
ちい姫を手放す辛さが消えたわけではない。

けれども、それがちい姫のためだと、
必死に堪えているのだった。

「あなたとも別れなければいけないわね」

明石の君は乳母にいった。

「明け暮れの物思わしさも、
あなたと語り合ってなぐさめてきたのに、
あなたとまで別れることになろうとは・・・」

乳母もそれを聞いて涙をこぼした。

「ほんとうに、
不思議なご縁で、お目にかかってから、
長いことご親切にして頂きました。
お心づかいは忘れません。
またおそばで暮らさせて頂く日が、
きっと参りましょう。
でもしばらくは、
はなればなれになって、
知らない人のあいだに交じるのが、
不安でございます」

などといいつつするうち、
十二月になった。

雪、あられの降る日が多い。

明石の君は心細さまさって、
わが身を嘆いた。

やがて間もなく、
わが手から連れ去られるわが子、
と思うと、いとしくて、
ちい姫をひしと抱き、
髪をくしけずったり、
着物を着せたりした。

「離れていっても、
お便りは下さいね」

明石の君は乳母にいった。

源氏が訪れた。

ちい姫を迎えに来たのだった。

いつもは嬉しい源氏の訪れが、
今日は恨めしかった。

ちい姫を手放すことは、
最終的には明石の君の決断であった。

もし自分が拒否したら、
決して源氏は無理に奪い去りは、
しなかったであろう。

(なんで承知したのかしら)

いまさらのように明石の君は悔やんだが、
強いて心をしっかり持った。

姫君はもう慣れた様子で、

「お父ちゃま」

と源氏の前に坐った。

この春からのばしているちい姫の髪は、
肩のあたりでゆらゆらと、美しい。

ぱっちりした黒い瞳、
ふっくらとした頬、
目もとの愛らしさ、
この姫君をもうけた明石の君との、
宿縁の深さが源氏には思われる。

こんな可愛い子を手放す明石の君の、
悲哀と辛さが思いやられて、
源氏は心苦しい。

ちい姫は、無心に、
牛車に乗りたいとせかせていた。

車のところまで、
明石の君はみずから抱いて連れて出た。

「お母ちゃまも一緒、一緒ね?」

とふり仰ぐので、
明石の君は目もくらむ思いがした。

(こんどはいつ会えるのかしら?)

明石の君は声を放って泣くのであった。
源氏は心痛んだ。

姫君のお供には、
乳母と少将という上品な女房だけが、
お守りの剣や人形などを持って乗った。

道すがら源氏は、
あとへ残った明石の君を思いやって、

(なんという、
罪深いことをしたものか・・・
それもこれも、自分が蒔いた種なのだ)

と考え沈んでいた。

人を愛することが、
人を傷つけることになってゆく自分の宿命を、
源氏は呆然と思い返す。

暗くなって二條院へ着いた。

華やかな雰囲気で、
大堰の山里とは様子がまるで違う。

姫君のために西面の部屋を格別にととのえ、
準備されていた。

姫君は途中で寝込んでしまっていた。
車から抱き下ろされても泣いたりしない。

紫の君の部屋でお菓子を食べていたが、
ようようまわりを見まわして、
母君の見えないのに気付き、
泣き顔になって、

「お母ちゃま・・・」

と呼ぶ。

いそいで乳母が呼ばれ、
何かとなぐさめ、
気をまぎらせた。

それを見るにつけ、
源氏は、明石の君の淋しさを、
思いやらずにいられない。

ちい姫を可愛いと思う心は、
そのまま明石の君の傷心への同情になる。

しかしまた、
愛する紫の君と、
これから二人でこの可愛いものを、
思うまま養育してゆくのだと思うと、
嬉しくもあるのだった。

(この人が姫君を抱いていると、
まさしく似合いの母子だ・・・
どうしてこの人に出来なかったのか)

源氏はさすがにそれが残念だった。






          


(次回へ)

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