・春の一日、
蹴鞠に疲れて、
夕霧と柏木は寝殿の階段に、
腰を下ろして休んだ。
女三の宮の御殿を見ていると、
そこへ、唐猫の小さいのを、
少し大きい猫が追いかけてきて、
急に御簾の端から縁に走り出た。
女房たちはびっくりして、
立ち騒ぐ。
衣ずれの音が、
外にいる柏木たちの耳にも、
かしましいほど。
猫は人になついていないらしく、
長い紐がつけてあるが、
物に引っかけて体にまといついた。
逃げようと引っぱる拍子に、
御簾の端が引っかかり、
さっと上がってしまった。
女房たちは猫に気を取られて、
御簾を下ろそうとする人もない。
そして柏木衛門督は、
見てしまった・・・
御簾の内なるひとを。
几帳から少し奥に入った所に、
普段着で立っている女人がいた。
柏木が腰を下ろしている、
寝殿正面の階段から、
西へ二つ柱を隔てた、
東のはずれなので、
何の障害もなくはっきり見られた。
その女人のうちぎは、
紅梅襲。
紅の濃いのから薄いのへ、
次々たくさん着重ねていられる、
色合いが華やかで、
まるで色紙を綴じた草子のよう。
その上に着ていられるのは、
桜の細長。
御髪は裾までけざやかで、
絹糸を縒ったように、
しっとりと重くながれ、
裾は切りそろえられてある。
なんと見事な御髪で、
身丈より七、八寸ばかり長い。
小柄な方で、
お召し物にうずもれるばかりの、
ほっそりと華奢なからだつき。
夕暮の光のもとなので、
はっきり見えず、
柏木は残念でならない。
女房たちは、
蹴鞠の青年たちが、
花を散らして技を競い合うのに、
熱中して見とれていた。
まさか猫の綱で、
御簾が巻きあげられ、
宮のお姿があらわになっている、
とは知るよしもない。
猫がしきりに啼くので、
宮はふり返られる。
(何と愛くるしいかただろう!)
柏木は魂が飛びそうに思えた。
実は、
夕霧も気づいていた。
(これは、
丸見えになっている)
と自分の方が、
きまり悪く思ったが、
それとなく気づかせようと、
咳払いをした。
果たして宮は、
そっと奥へ入ってしまわれた。
夕霧自身も、
宮をもっと拝見したい心地、
であるが、
その時はすでに御簾は、
元通り下りてしまっている。
かねて思い焦がれていた、
柏木は胸がいっぱいになって、
目もくらむばかり。
(あの方だ!
まちがいはない。
あの美しいお姿、
まさに宮だった)
強いて何気ない風でいるのだが、
夕霧にはわかった。
(彼も見たのだな)
と思うと夕霧は、
宮のために気の毒に思った。
柏木はやるせない思いに、
胸もふたがり、
紐のついていない猫まで、
なつかしくて抱き上げると、
宮の移り香がする。
可愛らしい声で鳴くので、
青年はまるで宮であるかのように、
抱きしめるのも、
物狂おしいことだった。
源氏は、
休んでいる夕霧たちを見て、
対の屋の南おもての間へ呼んだ。
人々はそちらへ移った。
下位の殿上人たちは、
簀子に円座を敷いて、
椿餅、梨、柑子などを食べた。
椿餅は、
蹴鞠のおりに供される食べもの。
こちらの殿上人のほうは、
干物を肴に盃がめぐった。
柏木一人、
沈みこんでいる。
夕霧は事情を知っているので、
(御簾のうちをかいま見た、
まぼろしの姿にあこがれて、
いるんだろうなあ・・・)
と想像した。
しかし、
深窓の貴婦人は、
かりにも端近に立って、
夫でもない男に顔を見られる、
なんてことはしないものだ。
それを、
あの宮はご身分柄にしては、
なんと心稚く、
軽率ではあるまいか。
(次回へ)