「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

30、若菜(上) ㉕

2024年02月15日 08時49分44秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・春の一日、
蹴鞠に疲れて、
夕霧と柏木は寝殿の階段に、
腰を下ろして休んだ。

女三の宮の御殿を見ていると、
そこへ、唐猫の小さいのを、
少し大きい猫が追いかけてきて、
急に御簾の端から縁に走り出た。

女房たちはびっくりして、
立ち騒ぐ。

衣ずれの音が、
外にいる柏木たちの耳にも、
かしましいほど。

猫は人になついていないらしく、
長い紐がつけてあるが、
物に引っかけて体にまといついた。

逃げようと引っぱる拍子に、
御簾の端が引っかかり、
さっと上がってしまった。

女房たちは猫に気を取られて、
御簾を下ろそうとする人もない。

そして柏木衛門督は、
見てしまった・・・

御簾の内なるひとを。

几帳から少し奥に入った所に、
普段着で立っている女人がいた。

柏木が腰を下ろしている、
寝殿正面の階段から、
西へ二つ柱を隔てた、
東のはずれなので、
何の障害もなくはっきり見られた。

その女人のうちぎは、
紅梅襲。

紅の濃いのから薄いのへ、
次々たくさん着重ねていられる、
色合いが華やかで、 
まるで色紙を綴じた草子のよう。

その上に着ていられるのは、
桜の細長。

御髪は裾までけざやかで、
絹糸を縒ったように、
しっとりと重くながれ、
裾は切りそろえられてある。

なんと見事な御髪で、
身丈より七、八寸ばかり長い。

小柄な方で、
お召し物にうずもれるばかりの、
ほっそりと華奢なからだつき。

夕暮の光のもとなので、
はっきり見えず、
柏木は残念でならない。

女房たちは、
蹴鞠の青年たちが、
花を散らして技を競い合うのに、
熱中して見とれていた。

まさか猫の綱で、
御簾が巻きあげられ、
宮のお姿があらわになっている、
とは知るよしもない。

猫がしきりに啼くので、
宮はふり返られる。

(何と愛くるしいかただろう!)

柏木は魂が飛びそうに思えた。

実は、
夕霧も気づいていた。

(これは、
丸見えになっている)

と自分の方が、
きまり悪く思ったが、
それとなく気づかせようと、
咳払いをした。

果たして宮は、
そっと奥へ入ってしまわれた。

夕霧自身も、
宮をもっと拝見したい心地、
であるが、
その時はすでに御簾は、
元通り下りてしまっている。

かねて思い焦がれていた、
柏木は胸がいっぱいになって、
目もくらむばかり。

(あの方だ!
まちがいはない。
あの美しいお姿、
まさに宮だった)

強いて何気ない風でいるのだが、
夕霧にはわかった。

(彼も見たのだな)

と思うと夕霧は、
宮のために気の毒に思った。

柏木はやるせない思いに、
胸もふたがり、
紐のついていない猫まで、
なつかしくて抱き上げると、
宮の移り香がする。

可愛らしい声で鳴くので、
青年はまるで宮であるかのように、
抱きしめるのも、
物狂おしいことだった。

源氏は、
休んでいる夕霧たちを見て、
対の屋の南おもての間へ呼んだ。

人々はそちらへ移った。

下位の殿上人たちは、
簀子に円座を敷いて、
椿餅、梨、柑子などを食べた。

椿餅は、
蹴鞠のおりに供される食べもの。

こちらの殿上人のほうは、
干物を肴に盃がめぐった。

柏木一人、
沈みこんでいる。

夕霧は事情を知っているので、

(御簾のうちをかいま見た、
まぼろしの姿にあこがれて、
いるんだろうなあ・・・)

と想像した。

しかし、
深窓の貴婦人は、
かりにも端近に立って、
夫でもない男に顔を見られる、
なんてことはしないものだ。

それを、
あの宮はご身分柄にしては、
なんと心稚く、
軽率ではあるまいか。






          


(次回へ)

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