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・遺体は増えつづけ、
とどまるところを知らない。
コンクリートジャングルに生き埋めになるというのも、
新しい災厄で、
阪神大震災がその最初の例ではなかろうか。
もし早くから削岩機、鉄線鋏、チェーンソー、
大型ジャッキ、ハンマー、バール、ショベル、つるはし、
そんなものがうんと揃い、
人海戦術であとからあとから人員が補充できれば、
救える人がもっとふえたかもしれない。
このとき、海上自衛隊は県の出動要請を待っていた。
船乗りを陸へ上げて人命救助を、と思った。
しかし県は、海上自衛隊のことは思いつかなかった、
といわれる。
やっとのことで船乗りは陸へ上がったが、
彼ら海自の隊員は陸上自衛隊より更に丸腰だった。
素手でコンクリート塊に挑んだ。
陸上自衛隊は救出に道具が必要なことを知り、
それを県に求めた。
費用は県負担だった。
しかし知事の決裁には五十か所ほど廻らないといけない。
結局資材が届くまで四、五日かかってしまった。
(『阪神大震災』 読売新聞社刊)
とじこめられ応答のあった人も、
半日、一日たつうちに声がしなくなってゆく。
足が挟まれて動けない妻は火の手が迫ったとき、
<逃げて!>と夫にいい、
閉じ込められた祖母は幼い孫に、
<はよ逃げなさい>といったという。
<皆に可愛がられるんやで>
七十余念前の関東大震災にも、
そんな話は伝えられていた。
私の忘れられないのは、
俳人・大曲駒村(おおまがりくそん)の『東京灰燼記』
にある話である。
親友の大学生同士、
神田三崎町の下宿で地震にあった。
<僕>は外へ抛りだされて助かったが、
友人は埋まってしまった。
<僕>は二本の梁に押された友人の体を、
引っぱり出そうとするが、力が及ばない。
人は危ないから逃げろという。
隣家が傾いて、いつこちらへ落ちてくるかわからぬ。
しかし<僕>は友人を助けたさに何十分かわからぬが、
夢中で瓦を剥ぎ、屋根板をむしった。
そのうち火がきた。
万事休すと<僕>は声をあげて泣きだした。
そのときには着物は火の粉で焼けていた。
友人は握っていた手を静かに<僕>から離した、
というのである。
<僕>は友人を見殺しにして逃げた。
<僕>は友人の最後に握った手のぬくみを忘れない。
という話である。
私たちはみずから手を離した友人の、
<人間の尊厳性>を忘れないであろう。
人間は何と悲しいことをくりかえし、
生きているのだろう。
災害は手に負えないほど膨張しつづけていった。
遺体はふえにふえ、
お寺の本堂、学校の体育館、病院の廊下にあふれた。
検死の医師も警官も不眠不休だった。
棺が不足した。
葬儀場は処理不能で、
ずいぶん遠くまで頼まねばならなかった。
霊柩車も全国から動員されてきた。
そういうときに<動物が危ない>と、
動き出した人がいた。
<人が埋まっているのに>と白い目で見られながら、
被災ペットを集めて収容する。
ペットの救援本部は数か所作られた。
飼い主からはぐれた犬は四千匹、
猫は四千八百匹といわれる。
負傷した犬や病む猫も収容された。
獣医さんもボランティアで手当てをした。
新聞の震災記時にはペットの話もよく出た。
十九日ぶりに救出された、
東灘区のゴールデンリトリバー「デュック」
母と娘二人の世帯に飼われていた。
長女は震災で亡くなったが、
遺品さがしで母と妹が瓦礫の山を掘っていたとき、
犬の鳴き声を母は聞いた。
地震の時いくら呼んでも返事しなかったのに。
消防署員や大阪府警機動隊員ら、
三十四人がかけつけ、
二方向から掘り進んでくれた。
投光機が照らす中を、消防士が指示する。
<犬の名を呼んで元気づけてやって!>
母娘は代わる代わる呼んだ。
デュックは小さい声で鳴きつづけていた。
四時間かかって消防士が瓦礫の中から救い出し、
毛布に横たえた。
母娘がデュックにほおずりすると、
寒風の中、見守っていた近所の人たちから拍手が起った。
(1995・2・6 神戸)
写真ではおとなしそうな、
気の弱そうな犬だ。
四十四日間閉じ込められて助けられたのは、
東灘区のハッピー。
地震で倒壊した家を三月二日、
取り壊すことになって、
鉄の爪が板や梁をつかみあげ、めくった。
<おやあ、犬がおるで>
の叫びに飼い主はてっきり死骸だと思い、
ビニール袋を持って飛んできたが、
少しは痩せていたものの、
柴犬と紀州犬の血のまじった白い雌犬ハッピーは、
わりに元気に出てきた。
飼い主(63)はいじらしさと可愛さに、
顔がクシャクシャになってしまった。
地震のあとすぐ、幾度も名を呼び、
倒壊した家の中を捜したのだが見つからず、
あきらめていたのだった。
どこからか流れる水を飲んで生きのびたらしい。
(『大震災日記』 夕刊フジ編集局)
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(次回へ)
写真は、26日(水)雪の降った日、
小二の孫(男児)が作った雪だるま。
だるまの体をなしていませんが・・・