・上方弁(大阪弁)を国会で使えば、
国会の乱闘は起きないであろう、とはよく言われる。
野党に突っ込まれた首相、
「あんさんの言わはる通りだす。
ワテらも出来るだけ早う結論出して、あんばいしよう思て、
今、せえだい(精出して)検討しとりますねやけど、
あっちゃこっちゃスカタンだらけで、
何し、こういうことは時間かけなあきませんよってに、
そないすぐに言わはったかて、無理でおます」
などと答弁していたら、
代議士はしびれを切らしてみな帰ってしまうであろう。
笑い話に、昔の京都では馬子が馬を引くのに、
「しっかりおしんか、おみあしが曲がってまっせ」
馬の方もみやびやかで、
「そうどっせな、かんにんどっせ」と答えたという。
尤も京のケンカは丁々発止というのはなく、
しんねりむっつり、だんまりのうちにやりあう。
京都人の気質、
<ああうれし 隣の倉が売られゆく>
大阪人気質、
<エライことできましてんと 泣きもせず>
こういう考え方では白熱したケンカになりようがない。
しかしながら、大阪でも罵詈讒謗の言葉はあり、
ケンカの時に相手をののしる語としては、
「おんどれ」
「われ」
「ガキ」
などがあり、相手が若い時は、
「小便(しょんべん)タレ」などと言う。
女の子を指すときもあり、そういう時は「小便臭い」という。
まだおしめの取れていないガキという意味である。
何でも「ド」をつけると罵倒用語が侮辱用語になり、
女をののしる時は「ドスベタ、ドタフク」などと言う。
ドタフクはお多福を強めたもので、
「ドアホ」と言うと、やわらかみは全く失われる。
「ド」というのは、はなはだ品格のない言葉、
仮にも教養と見識ある紳士淑女は使ってはならない。
だから「ド根性」などというのは、言ってはいけない。
「根性」というのも、元来の意味は「根性が悪い」などと使い、
「性根がある」といった意味ではなかった。
・図体、体格のことを「カラ」という。
むやみに大きな体格のことを「ドンガラ」という。
「カラ」に「ド」がつき、はねたのである。
「あんだらめ」というのがあり、
早口でやられるとスペイン語のようであるが、
「あほんだらめ」が詰ったものである。
あほんだら、は「阿保太郎」と擬人化したもの。
大阪弁の罵詈讒謗は語尾変化に特徴がある。
「・・・くさる」
「・・・さらす」
「・・・けつかる」
「・・・こます」などがある。
「なに吠たえくさって、このあま」
などと男に一喝されると、女はちぢみあがる。
「くさる」も「さらす」も動詞連用形につくもので、
「何さらしけつかるねん」などと卑語が二つくっつく場合があり、
大阪弁はケンカの時さえ冗長である。
命令形になると、「さらせ」「くされ」などと言う。
夫婦喧嘩、「出て行きさらせ」男は言い、
女が荷物をまとめて出ようとする。
「このドアホ、どこへ行きさらす」と引きとめ、
女はマゴマゴし、男はさらに、
「何をボヤボヤしくさる、さっさとメシでも炊きやがれ」
などと言う。私はこんな男と女の関係が好きである。
「こます」は自分の動作につける言葉。
「言うてこましたった」などと使う。
「こます」も古い言葉で「どついてこました」などとある。
近松門左衛門の「女殺油地獄」にも、
「あんだらめには こぶし一つあてず」とある。
このあんだらめは、不良青年、河内屋代兵衛である。
度重なる非行に母親さえののしる。
「こます」も「あんだらめ」も「さらす」も古語であるが、
日常語に昇格することはない。
言葉は日々変貌するものながら、
ケンカ用語は二百年経ってもケンカ用語である。
「いてこましたった」と言えば、
相手をノックダウンさせる、再起不能にさせるという意味の他に、
「してやったり」という勝利感も含まれる。