むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

29、オトナのたのしみ

2022年04月02日 08時15分43秒 | 田辺聖子・エッセー集










・風の冷たい町へ出ていって、私はどっさり、
ヴァレンタインデーの義理チョコを買ってきた。

この頃は趣向をこらしたチョコレートが多いので、
あちこちへ配るのが面白い。

禁煙している男の人がウチへ来ると、
マイルドセブンやピースの入れものに似せた、
中身はチョコレートというのを、あげる。

本物そっくりに作ってあるから、
「いや~~、実は僕は、半年保っているところなんで、
悪いですが」なんて真顔で断る人もあり、
「まあ、そういわずに、一本だけ・・・」
なんて押しつけて、悪習をそそのかすと見せるのは、
愉快なものである。

しまいに自分で袋をつくって、
「血の道の妙薬」「産後肥立ちの妙薬」なんて書いて、
中にチョコレートを入れたりし、
こういうのを若い男の子にやって笑わせてやる。

中年男は、ヴァレンタインチョコなんかもらっても、
うれしくないみたいね。

「中年男はそういうの、好きまへん」

カモカのおっちゃんはいう。

「そういうのはおもろないのです」

「じゃ、何が面白いんですか」

「男は、オトナの男は、何もおもろいもんがない」

「じゃ、生きてて、つまんないでしょ」

「これが男のさだめです」

おっちゃんは思わせぶりに瞑目する。

「仕事が生きがいというのは、
言い古されているから、ちょっとおいて、
美食とか美酒とか、ありません?」

私は聞く。

「そうそう、そういえば美煙というのがありますなあ。
この頃みたいに禁煙キャンペーンが強うなると、
世論に抗って喫むタバコのうまいこと。
まわりをすばやく見まわし、うるさそうなオバハン居らぬ、
とみるとサッと喫う、そのはじめの旨さ、
まさに美煙ですな」

「あたしはあまり気にしないのですが、
パッシブスモーカーの攻撃は日に日に強いですね。
本人は体に悪うても自業自得ですが、
まわりで巻き添えになったらかなわん、
というところでしょう」

「青少年や妊婦の人はあきまへんで、
しやけど、ええオトナが美煙や思うて吸うとるもんまで、
ほっといてくれ、といいたい」

「国民の体位向上のためです」

「煙害撲滅論者の口調がだんだんヒステリーじみてきた。
戦時中の愛国婦人会思い出しまんねん。
隠れ切支丹を指さして摘発するみたいや。
毎日踏絵ふまされてる思い」

「しかしお医者さんの忠告や統計でみれば・・・」

「医者も人の子、統計も数のお遊び、
何が頼りになりまっかいな。
人のいうこと鵜呑みに信じとったら、
いまにお上のいうままに鼻づらとって引き回されまっせ。
あんまり、ひとつことにムキに打ちこまんほうがよろし。
世間の流れに抗して、美煙にふけるのが、
オトナの男の楽しみ、といえんこともないのやが・・・」

おっちゃんの特徴は、
途中でなんぼ気炎をあげていても、
竜頭蛇尾で、最後はごにょごにょと声が小さく、
どこやら、やましげなひびき帯びるところにある。

おっちゃんは、政治家やプロの講演家にはなれない。
医者も無理だな。

親、教師、医師は語尾に力いれてハッキリ断言しないと、
子供や患者は混乱して去就にまようてしまいまっせ。






          

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