「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

31、若菜(下) ①

2024年02月17日 08時53分46秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳








・女三の宮の女房、小侍従は、
柏木に返事を書いた。

「お手紙、
何のことをおっしゃっていられるの?
あなたさまの恋は、
手の届かぬ高嶺の花、
かいなき懸想というものです。
色に出ぬようご用心あそばしませ」

柏木は読んで、
気を腐らせた。

小侍従がいうのは尤もで、
それはわかっている。

青年はこんなあしらいをされて、
満足してはいられない。

青年は頭を抱えて苦しんだ。

苦しむ心の底には、
源氏への嫉妬がある。

今まで源氏を敬愛し、
傾倒していた柏木であったが、
近ごろは源氏に悪意や、
わだかまりを持つようになった。

柏木は、
女三の宮の御殿のあたりの、
花でも見て心を慰めようと出かけた。

御所での賭弓(のりゆみ)が、
二月にあるはずだったが、
行われず、
三月は主上の御母宮(藤壺の宮)の、
御忌月だから催しごとはない。

人々は残念に思っていたので、
この六條院で賭弓が行われると聞いて、
たくさん集まった。

近衛の左大将は、
源氏の養女、玉蔓の婿君、髭黒であり、
右大将は嫡男、夕霧、
いずれも源氏に近しいので、
そろってやって来た。

弓技に自信のある殿上人たちを、
左右に分けて競射させる。

賭弓は、
品物を賭けて争う競射で、
賭物は六條院のあちこちの御殿から、
出されるので興趣をさそった。

髭黒や夕霧たちが、
射ることになったが、
ただ柏木一人、
ぼんやりと物思いにふけったさま。

事情をうすうす知っている夕霧は、
困ったな、と思っていた。

(面倒なことにならなければいいが)

柏木は良心の鬼に責められて、
源氏を見る目がまぶしかった。

柏木は、
軽佻浮薄な青年ではなかった。

真率で正直な性格であった。

ふだんから端正に身を持し、
人の非難を買うような振る舞いは、
あってはならぬと、
真面目に生きてきた。

それが今ではすっかり変った。
恋は人を狡猾にする。

(そうだ。
せめてあの時の猫を、
手に入れられないものか。
恋を語りあえなくとも、
一人寝の淋しさを慰めるのに、
なつけてみよう)

どうやって、
あの猫を盗み出そうか?

いろいろ考えたが、
むずかしい。

東宮(朱雀院の御子)の御前へ、
柏木は参上しても、
考えることは、

(ご兄妹だから、
きっと似ていらっしゃる)

あけてもくれても、
そして見るもの聞くもの、
ことごとく女三の宮につながる。

恐れ多いことながら、
東宮を拝見して、
三の宮のおんおもざしに、
似通っていられるところを、
さがしたいのであった。

御所には猫が多く飼われている。

そのさまを見て、
青年の胸に計画が浮かんだ。

「六條院の女三の宮さまの、
ところで飼っていられる猫は、
このあたりでは見ない、
可愛いお顔をしております。
ちらと見ただけですが」

と申しあげると、
宮の兄君である東宮は、
猫がお好きなので、
膝を乗り出された。

果たして東宮は、
明石の女御を通して、
女三の宮の猫をご所望になった。

女三の宮はさっそく、
兄君に差しあげられた。

「ほんとうに可愛らしい猫!」

と人々は興じて、
珍重する。

柏木は、
もう猫が東宮御殿へ来ただろうな、
というころを見計らって、
参上した。

青年の計画は図に当たった。






          


(次回へ)

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