むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

31、来世

2022年04月04日 09時12分55秒 | 田辺聖子・エッセー集










・表に植えた蝋梅がさかりになっている。
これはとてもいい匂いなので、ポプリにならないかしらんと、
私は花を摘んで集めていた。

そこへ、
「聖書のお話をさせて頂きたいのですが」
と女の人がやってくる。

雪花の舞っている寒い日なのに、
小学校低学年かと思える男の子の手をひいて、
パンフレットを持っている。

男の子は寒さにかじかんだ顔をして上目使いに私を見ている。

「聖書をご一緒に読みたいのですが」

「私、読んだこと、あります」

私は若い頃の愛読書は聖書だったのを思い出す。

「いえ、読み方が間違っていると、何にもなりません。
正しくその意味を分かっていないといけませんから」

女の人は熱心にいう。
男の子は水洟をすすりあげ、貧乏震いをしている。
寒いぼの出ている小さい頬。

「聖書を間違って解釈していると、天国へ行けませんしね」

女の人は脅すようにいう。

私は来世を信じているが、そこは超党派的というか、
宗教の種類によって区別されるところと思えないので、

「天国は・・・ま、よろしねん」

と端切れ悪く言ってしまった。

「よろしねん、とおっしゃいますと」

女の人は追及する。

「行かんかて、よろしねん。べつに。
ソコソコのトコで結構です」

ソコソコの人間である私は、
来世もどうせソコソコのものであろうと思っている。

「行かんかてよろしい、とは何ですか」

女の人に叱られてしまった。
とにかく寒い日であった。

私は震えあがって、
「また暖かい(ぬくい)日に来て下さい」
と家の中へ逃げ込んでしまった。

女の人は子供の手を引き、
またお隣の呼び鈴を押してるみたいである。

私はその女の人より、
子供に何か熱いものを飲ませてやりたくなった。

連れ歩くことも宗教教育のうちなのかもしれないが、
「あれも人の子樽拾い」
親の宗教につきあわされるのも大変である。

時として、親の宗教のおかげで、
輸血もしてもらえず、命を落とすこともある。

もっとも私は、
宗教は大人になって自覚してから入信するのがよいとも、
限らないと思っている。

小さい時からの習慣で入ってゆくのも、
中々よいものである。

それはそうと、世の中を見まわすと、
この頃はずいぶん、とりどりの新しい宗教が増え、
しかも女性たちはそれをファッションのように心得ているようである。

男の人たちは知ってるのかしら、
奥さんたちが、いろんなお宗旨を味見して楽しんでいるのを。

私の友人たちも、働いてる女、専業主婦を問わず、
何かに入ったり、かけもちしたり、
どれに決めようか迷ってる、そういう人が多い。

「〇〇宗って建物がきれいよ、なんたって。
エリートがたくさん行くっていうの、わかるわあ。
金持ちのムードぷんぷん、というところがいい」

「でも遠いでしょ、そこへくると、××宗は市内やし、手軽よ。
いつ出て、いつ入ってもええし」

「あ、▽▽観音は託児所もあるので楽よ、
その点、▽▽さんは女に理解あるわあ。
私、ご講話は十分ぐらいだけ聞いて、
ちょっと近くのデパートへ買い物にいくねん。
子供預かって見てもらえるし、安心やわあ」

「うわ、そんなことしたら観音さん怒らはるしい」

「÷÷会は、観音さんもキリストさんも関係ないけど、エエ、思うわ。
お酒飲んでもエエ、着るもんは派手なもん着なさい、
夫婦仲ようしなさい、財産使いなさい、というお宗旨よ」

「ふ~ん。使うたらまた、入るんやろか」

「使わな、入らへん。
その代わり、使うときもコツあるらしい」

などと女たちは情報を交換し合い、

「お金使うたら入る、というのは、
こんな指輪してないとあかんねんで」

「この宝石(いし)、効験(げん)がええらしい」

と教団おすすめの指輪を買ったりしている。
口から口へ、口コミというのは凄い。

それは宝石屋が教団へ売り込みにも来るが、
デパートや宝石店が御用達になることもあるようである。

デパートも、
「÷÷会予約係り」
「▽▽観音宗様特別内見会」
などと掲げ、信者はわ~~っと出かけて、
効験がええ、といわれる指輪を、
それぞれのふところ具合に応じて買う、
そういうこともある。

と思うと、

「〇〇会は、何たって、家族的よね。
顔を合わせると、兄弟姉妹、という感じで、
いっぺんに親しくなれるし、
こんにちは、いらっしゃいの代わりに、
お帰りなさい、ただいま、と挨拶し合うし、
それに、あそこも派手よね」

「そ。あたし、あれが好きで、あそこに決めてんの。
何しろ、着るもんは花柄、蝶柄なんかがいい、というんだもの。
会場は花が咲いたみたいよ、明るくて好き」

と、新しい宗教は、まるで女性のファッションショーである。

「その日その日の気分で違うお宗旨へ行く」

という豪の者もおり、

「一つだけ、なんて淋しいやないの、
それぞれ、エエこというてはんねんし」

とうそぶく女もいる。

各お宗旨の教会というか道場というか、寺院というか、
それら集会所は、今や一大社交場の如く、
さぞその裏では流れ動くお金や思惑もあるのであろうが、
ともかく女の人はすごい、
寒風吹きすさぶ中を伝道にくる人もあれば、
四つ五つかけもちでお宗旨を楽しむ人もいる。

もうカルチャーセンターも古いんだそうである。

この分ではカモカのおっちゃんも教祖になって、
カモカ教というのが出来るかもしれない。

しかしおっちゃんは、ひと言、言い捨てる。

「来世なんかおまへん。この世だけ」






          



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