2012.04.11~2023/11/20 更新
リンヱ【輪廻】
萩原義雄識
0224-46「輪廻(リンヱ)」(069-2012.04.11)⇒「廻文歌」(069-2000.084.09)
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「利」部に、
輪廻(リンエ) 。〔元亀二年本・利部七一5〕
輪廻(リンエ) 。〔静嘉堂本・利部八六6〕
輪廽( ヱ) 。〔天正十七年本・利部上四三オ1〕
輪廽 。〔西來寺(天正十五年)本一三〇頁1〕
とあって、標記語「輪廻」の語を収載し、訓みは上記の如く諸本それぞれやや異なっているが訓みを「リンヱ」とし、その語注記は未記載にする。
古写本『庭訓徃來』二月廿四日返状に、
和歌者雖仰人丸赤人古風未究長歌短哥旋頭混本折句沓冠風情輪廻傍題打越落題之躰詩聯句者乍汲菅家江家之舊流忘序表賦題傍絶韻聲質如猿猴之似人。〔至徳三年本〕
和哥者雖仰人丸赤人之古風未究長哥短哥旋頭混本折句沓冠風情輪廻傍題打越落題之躰。詩聯句者乍汲菅家江家之舊流更忘序表賦題傍絶韻聲之資([質])。頗如猿猴之似人。〔宝徳三年本〕
和歌者雖仰人丸赤人古風未究長歌短哥旋頭混本折句沓冠之風情輪廻傍題打越落題之躰。詩聯句者乍汲菅家江家之旧流更忘序表賦題傍絶韻聲之質。頗如猿猴之似人。〔建部傳内本〕
倭歌者(ハ)雖レ仰クト二人丸赤人之(ノ)古風ヲ一未タスレ究二長歌短哥旋頭混本折句沓冠之(ノ)風情輪廻傍題打越落題之(ノ)躰ヲ一詩聯句者(ハ)乍ラレ汲二菅家江家之(ノ)舊流ヲ一更ニ忘ル二序表賦題傍絶韻聲之(ノ)質(スカタ)ヲ一。頗ル如ク二猿猴(エンコウ)ノ似タルガレ人ニ。〔山田俊雄藏本〕
和歌者(ハ)雖モレ仰グト二人丸赤人之古風ヲ一未レ究メ長歌短歌旋頭混本折句沓冠風情輪廻傍題打越落題之躰ヲ一詩聯句者(ハ)乍ラレ汲ミ二菅家江家之旧流ヲ一更ニ忘ル二序表賦題傍絶韵聲之質(スカタ)ヲ一。頗ル如シ二猿猴ノ似タルガレ人ニ。〔経覺筆本〕
和歌(ワカ)者(ハ)雖(イヘトモ)レ仰(アヲク)ト二人丸(ヒトマル)赤人(アカヒト)之(ノ)古風(コフウ)ニ一未(イマタ)スレ究(キワメ)二長歌(チヤウカ)短哥(タンカ)旋頭(せントウ)混本(コンホン)折句(ヲリク)沓(クツカムリ)冠(カンムリ)之(ノ)風情(フせイ)輪廻(リンエ)傍題(ハウタイ)打越(ウチコシ)落題(ラクタイ)之(ノ)躰(テイ)ヲ一詩(シ)聯(レン)句(ク)者(ハ)乍(ナカラ)レ汲(クミ)二菅家(カンケ)江家(カウケ)之(ノ)旧流(キウリウ)ヲ一更(サラ)ニ忘(ワス)ル二序表(シヨヘヨウ)賦題(フタイ)傍絶(ハウせツ)韻聲(インシヤウ)ノ質(スカタ)ヲ一。頗(スコフ)ル如(コト)シ二猿猴(エンコウ)之(ノ)似(ニタル)カ一乍(ナカラ)レ人(ヒト)ニ。〔文明十四年本〕
と見え、標記語「輪廻」に、訓みは文明十四年本に「輪廻(リンエ)」と記載する。
古辞書では、院政時代の三卷本『色葉字類抄』(一一七七-八一年)・鎌倉時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「輪廻」の語を未収載にする。仏教語「輪廻」の語としての所載は、降って室町時代以降を俟たねばならない。次に示す。
古辞書、『下學集』〔(一四四四年成立・元和三年(一六一七年)版)〕に、
輪回(リンエ)〔元和本疊字門一五九頁1〕
とあって、「輪廻」の語を収載する。
増刊『下學集』(文明頃、飛鳥井榮雅編)に、
輪廽(リンエ) 。〔利部・言語門十九ウ6〕
とあって、「輪廻」の語を収載する。
広本『節用集』(一四七六(文明六)年頃成立)には、
輪(リン)廽(ヱ)[平軽・○]マワス、クワイ・メグル 。〔利部・態藝門一九八頁6〕
とあって、標記語「輪廻」の語を収載し、訓みは「リンヱ」と記載する。
印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・堯空本・両足院本『節用集』に、
輪廽(リンエ) 。〔弘治二年本・五八3〕
輪廽(リンエ) 。〔永祿二年本・五九2〕
輪廽 。〔堯空二年本・五三7〕
輪廽(リンヱ) 。〔両足院本・六一8〕
とあって、標記語「輪廽」「輪廻」の語を収載する。
次に易林本『節用集』に、
輪轉(リンテン) 。輪廻( ヱ) 。輪番(バン) 。〔利部・言語門五七5〕
とあって、標記語「輪廻」の語を収載する。
饅頭屋本『節用集』に、
輪廽(リンエ) 。〔利部・雜用門九ウ4〕
とあって、標記語「輪廽」の語を収載する。
江戸時代の『書言字考節用集』に、
輪囘(リンエ) 生―。死―。〔平楽寺板六八九頁7・10-51-5〕
とあって、標記語「輪囘」の語を収載し、訓みを「リンエ」とし、語注記には「生―。死―」とだけ記載して仏教語本意の注記内容と見て取れる。
このように上記、当代(室町時代)の古辞書においては、『下學集』、広本『節用集』、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・堯空本『節用集』、易林本『節用集』『運歩色葉集』には、標記語「輪廻」の語を収載する。だが、語注記の内容としては、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見える「輪廻」の註記文の内容は引用哥の表記と末部「此ノ躰ノ事也」と「杜若を句の上に置き讀み給ふなり」とあって、連歌俳諧の専門用語に用いる特異な注記内容として記述することがあるに過ぎない。此れが上記、古辞書類の標記語の訓みだけを記載する内容と果たして合意するものかは明らかにできない。そして、江戸時代の『書言字考節用集』の注記は、仏教語の本意に繋がる「生―。死―。」にのみ伝えてるという意義のギャップを此を以て知らねばなるまい。
真名本『庭訓徃來註』二月廿四日返状に、
069 輪廻 哥ニ云、長キ夜ノ十ノ眠(ネムリ)ノ皆目醒波乗リ舟ノ音トノ善哉。此ノ哥ハ順逆ニ読哥也。云々。〔謙堂文庫藏十一右2〕
※静嘉堂文庫蔵『庭訓徃來抄』には、「輪廽(クワイ)」とし、その頭冠書込みには「△輪廽ノ哥ニ云ク、キシヒコソマツカミキワニコトノネノトコニハキミカツマソコヒシキ」と記載し、尾沓書込みには「●輪廻/おしめどもついにいつもと行春ハくゆともついにいつもとめじをいふこと也」と記載する。
とあって、標記語「輪廻」とし、訓みは漢音「リンクワイ」、語注記は「哥に云く、長き夜の十の眠(ネムリ)の皆目醒め波乗り舟の音(おと)の善き哉。此の哥は順逆に読む哥なり。云々」と記載する。
古版『庭訓徃来註』では、
輪廻(リンエ)ハ前ニ有事也。〔上8オ五〕
とあって、標記語「輪廻」の語を収載し、訓みは「リンエ」と記載し、語注記は「前に有る事なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年〔一八〇〇〕版)に、
未(いま)だ長歌(ちやうか)短哥(たんか)旋頭(せんどう)混本(こんぼん)折句(をりく)沓冠(くつかむり)之(の)風情(ふぜい)輪廻(りんゑ)傍題(ほうだい)打越(うちこし)落題(らくだい)之(の)躰(てい)を究(きわ)め未(ず)/未タレ究長歌。短歌。旋頭。混本。折句。沓冠。之風情。輪廻。傍題。打越。落題。之躰。是は皆和歌乃よみ方ときすとなり。風情と云躰と云ミなそのすかたなり。〔9ウ四~七〕
とあって、この標記語「輪廻」の語を収載し、訓みを「りんゑ」とし、語注記は未記載にする。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
和哥(わか)者(ハ)、雖仰人丸(ひとまる)赤人(あかひと)之(の)古風(こふう)を仰(あふ)ぐと雖(いへども)、長歌(ちやうか)短哥(たんか)旋頭(せんどう)混本(こんぼん)折句(をりく)沓冠(くつかむり)之(の)風情(ふぜい)輪廻(りんゑ)傍題(ほうだい)打越(うちこし)落題(らくだい)之(の)體(てい)を/和哥者。雖レ仰人丸。赤人。之古風。長歌。短歌。旋頭。混本。折句。沓冠。之風情。輪廻。傍題。打越。落題之躰。▲輪廻ハ廻文(くわいぶん)ともいふさかさまによみても同(おなじ)き哥なり。√仁和帝(にんわてい)の合薫(あハせたきもの)すといふことを詠み給ふ御哥√あふさかも(六)は(二)てハゆきゝのせきもいず(八)た(四)つねてとひし(九)き(五)みハかへさじ(十)。
とあって、標記語「輪廻」の語を収載し、訓みを「りんゑ」とし、語注記は、「輪廻ハ廻文(くわいぶん)ともいふさかさまによみても同(おなじ)き哥なり。√仁和帝(にんわてい)の合薫(あハせたきもの)すといふことを詠み給ふ御哥√あふさかも(六)は(二)てハゆきゝのせきもいず(八)た(四)つねてとひし(九)き(五)みハかへさじ(十)。」と記載していて、連歌俳諧の「廻文」との聯関性について記述する。『庭訓往来』での「輪廻」に関わる注解では、凡て仏教語本来の意義とはかけ離れた連歌俳諧の用語説明が主流とし、仏教語「輪廻」とは異なるものへと展開してきている。
こうしたなか、『日葡辞書』(一六〇三-〇四年成立)には、
Rinye.リンエ(輪廻)Vauo meguru.(輪を廻る)すなわち、Mayo>.(迷ふ)さまざまな転生や変身の一続きの輪をたどりつつ、霊の救われる道を迷い歩く。ただし普通には、人がすでに忘れていなければならなかった事とかについて、繰り返し同じ事を言う意。例、Rinye xita cotouo yu<.(輪廻した事を言ふ)他人の感情を害したりしないためにだまっていなければならなかった事を、再び繰り返して言う。〔邦訳五三四頁l〕
とあって、標記語「りんゑ【輪廻】」の語を収載し意味は「(輪を廻る)すなわち、Mayo>.(迷ふ)さまざまな転生や変身の一続きの輪をたどりつつ、霊の救われる道を迷い歩く。ただし普通には、人がすでに忘れていなければならなかった事とかについて、繰り返し同じ事を言う意」とあって、本来の仏教語として意味を伝え記載し、連歌俳諧用語としての「輪廻」については一切触れずじまいにある。彼らが本邦の『庭訓往来』ついて読み解くことを避けてきたとは到底思えないのだが、この語への取扱いについては、稍その編纂姿勢が違い、通俗語性を重視していて、「(輪廻した事を言ふ)他人の感情を害したりしないためにだまっていなければならなかった事を、再び繰り返して言う」とし、置換語でいえば、「愚痴(グチ)」となる語意を記載する。
明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
りん-ゑリンネ〔名〕【輪廻】(一)衆生の、無始以來、六道の生死に旋轉すること、車輪の轉じて、窮りなきが如きを云ふ。るてんりんゑ(流轉輪廻)の條を見よ。法華經、方便品「以二諸欲因縁一、墜二階三惡道一、輪二廻六趣中一、備受二諸苦毒一」榮花物語三十、鶴林「天上の樂しみも、五衰早く來り、乃至、有頂も輪廻期なし」雜體(二)未練がましきこと。執着心の深きこと。薩摩歌(元禄、近松作)中「過にしことを輪廻深く、言ふ氣はさらさら無いものを、云云」(三)和歌のくヮいぶん(廻文)に同じ。庭訓徃來、二月「輪廻、傍題、打越、落題之體」〔4-819-2〕
とあって、標記語「りん-ゑ【輪廻】」の語を収載する。
現代の『日本国語大辞典』第二版に、
りん-え[:ヱ]【輪廻】〔名〕→りんね(輪廻)
りん-ね[:ヱ]【輪廻】〔名〕({梵}sam.sa-raの訳語「りんえ」の連声)①仏語。回転する車輪が何度でも同じ場所に戻るように、衆生が三界六道の迷いの世界に生死を繰り返すこと。*文華秀麗集〔八一八〕中・答澄公奉献詩〈嵯峨天皇〉「頼有護持力、定知絶輪廻」*観智院本三宝絵詞〔九八四〕下「その子ひじりにあらず、神通なければ輪廻すらむをも見ずしてゆくべき事かたし」*宇津保物語〔九七〇~九九九頃〕俊蔭「輪廻しつる一人がはらに八生やどり、二千人がはらにおのおの五八生やどるべし」*苔の衣〔一二七一頃〕三「いづることなく、りんゑのきづなにまとはれて」*浮世草子・諸国心中女〔一六八六〕三・四「男女婬楽互(たかひに)抱臭骸(くさきかばねをいだく)と囀(さべ)りをきてきたなき物の最上とす。子をまうけて愛心を動かし親と成てはむつかしと嫌はれ旅途に出ては古郷を案じ戦場にして妻子に輪廻(リンエ)し」*心地観経ー三「有情輪廻、生二六道一、猶三如車輪無二終始一」②同じことを繰り返すこと。*日葡辞書〔一六〇三~〇四〕「Rinye(リンエ)シタ コトヲ ユウ〈訳〉口にしてはならなかった、人の心を傷つけるようなことをくりかえし言う」③執念深くすること。執着心の強いこと。未練がましいこと。*浄瑠璃・出世景清〔一六八五〕二「十蔵たもとをふりきって、ゑゑりんゑしたる女かな。そこのけとつきのけて」*浄瑠璃・艷容女舞衣(三勝半七)〔一七七二〕下「お気に入らぬとしりながら、未練な私が輪廻(リンヱ)ゆへ」④連歌・俳諧の付合で、三句目に同意・同想の語や意味を繰り返すこと。去嫌(さりきらい)の一つで、数句隔てて反復する遠輪廻とともに、変化を尊ぶ文芸として忌み嫌われる。*異制庭訓往来〔一四C中〕「連歌者如二漢聯句一〈略〉号二花下新式一、定二輪回傍題韵字一」*連理秘抄〔一三四九〕「一、輪廻、薫物といふ句にこがると付きて、又紅葉を付くべからず。舟にてはこれを付くべし。こがると云ふ字かはる故なり」⑤一八九九年、アメリカの自然地理学者デービスの提唱した地形の変化についての概念。侵食輪廻や堆積輪廻など、地学現象が一定の順序で繰り返すという。【発音】〈標ア〉於[リ]〈京ア〉[リ]【辞書】下学・文明・伊京・明応・天正・饅頭・黒本・易林・日葡・書言・ヘボン・言海【表記】【輪廽】文明・伊京・明応・天正・饅頭・黒本【輪囘】下学・書言【輪廻】易林【輪回】ヘボン
とあって、標記語「りん-え【輪廻】」の語を収載し、見出し語「りんえ(ゑ)【輪廻】」の単独立項用例とはせずに此の「りんね【輪廻】」に統括するものとなっている。また、『庭訓徃來』の語用例も『異制庭訓往来』『連理秘抄』に譲り、収載を見ないものとしている。慥かに、④の意での説明はあるが、国語辞典の意味説明として読み理会するには稍高尚の説明となりすぎていると吾人は考える。むしろ、大槻文彦編『大言海』の(三)「和歌のくヮいぶん(廻文)に同じ」とする意味説明の方が惑わずにその意義に到達できるのではと考えている。
まとめ
いま、此の室町時代全般に亘って、連歌俳諧の語研究として、此の「輪廻」について見定めていかねばならないとき、当代の往来物資料で、仮に、⑴過去の「輪廻」、⑵現在の「輪廻」、⑶未来の「輪廻」として時代の軸を室町時代に設定し、此の語を見定めようとしたとき、⑴は、当然仏教語本来の意味を云うことになり、「生と死」の観点からそのことを理会し得てこそ、⑵室町時代に連歌俳諧の「輪廻」という轉想が具現化されはじめ、室町時代の古辞書『下學集』『節用集』へ標記語と訓み「リンヱ」だけを記載することで、⑴と⑵の意味を共に認知できる知己者集団が誕生していたとみたい。そのなかにあって、印度本系の一種『和漢通用集』(標記語漢字、付訓ひらがなで表記)を引くことがその展開を繙くカギとなる。
○輪廻(りんゑ) 愚痴(ぐち) 〔一〇一頁7上〕
とあって、上記に示してきた古辞書類とは異なる語注記「愚痴(ぐち)」と記載している点にある。此語ももとは仏教語であるものの、此の時代「愚痴」は、小学館『日国』第二版の「(2)言っても仕方のないことをくどくどと嘆くこと。言ってもかえらぬこと、益のないことを言うこと。泣き言。*仮名草子・小さかづき〔一六七二(寛文一二)〕四・六「貪瞋痴の三毒といふは、是地獄のたねの第一也〈略〉痴は愚痴とて、かへらざる事をくやみ叶はざる事をおもふ事也」」とある意としている。こうした通俗語解釈があって、そうしたなかで、『庭訓往来』二月二四日に返状や『異制庭訓往来』『連理秘抄』の「輪廻」の語が意義派生していると推定される。同じ頃の末に、キリシタン資料『日葡辞書』が⑴にのみ言及していたことも注意せねばなるまいが、今は深く言及しない。むしろ、往来物資料の寺子屋教科書として普及を見る『庭訓往来』そのものに焦点をおいてみてきたことへの研究結果報告に基づいてまとめておくことになる。 「風情」と「輪廻」との間
⑴国会図書館所蔵甲本『庭訓往来』二月廿四日に返状
連歌者雖レ學二無常寂忍之舊徹ヲ一未弁下
※十二字を記載保有する。
⑵静嘉堂松井文庫所蔵(小宮山氏旧蔵)松井甲本
此本二月返事ノ内ニ折句沓冠之風情ト輪廻傍題トノ間ニ連歌者雖學無常寂忍之舊徹トイフ十二字アリ。諸本ニ曾テミサル所ナリ。二月文章ニ連歌宗匠和歌達者一両輩可有御誘引トアレハ其答アルヘク且輪廻傍題打越落題ハ連歌ノ事ナレハコノ十二字ナクテハ義キコエカタシ。必諸本ニ落タルナリエリ云云
とあって、その上欄小宮山氏書込み注記として、
文藝類纂ニ此句ノ考證アリ。轍ノ字䖝ノ字皆訛リ又徹ノ下不讀不弁ナトノ二字アリシナラント云リ。とする。
⑶国会図書館所蔵乙本『庭訓往来』二月廿四日に返状
芳野自筆書込み
芳野按ニ今本此條ヲ脱せリ。徹ハ誤冩ニテ轍ナルヘシ。且輪字ノ上例ニ據レハ不曉トカ不辨トカアルヘシ。如此珍本他ニ校スヘキナシ。惜シムヘシ。とある。
⑷国会図書館所蔵丙本『庭訓往来』二月廿四日に返状
連歌者䖝((雖))學無常寂忍之舊徹 とある。
⑸内閣文庫本は、⑴に同じ。
「未弁ト」は小書きにする。
という諸本記載書込み部分にも及ぶ。
斯く「輪廻」の語を読解してきたのだが、『庭訓往来』は、仏教語が離れ、通俗語としての「他人の感情を害したりしないためにだまっていなければならなかった事を、再びくどくどと何遍も繰り返して言う」意へと転じていて、此の内容を習學理会していくなかで、どうけじめづけてきたのかを改めて見つめ直す機会にもなった。
リンヱ【輪廻】
萩原義雄識
0224-46「輪廻(リンヱ)」(069-2012.04.11)⇒「廻文歌」(069-2000.084.09)
室町時代の古辞書『運歩色葉集』の「利」部に、
輪廻(リンエ) 。〔元亀二年本・利部七一5〕
輪廻(リンエ) 。〔静嘉堂本・利部八六6〕
輪廽( ヱ) 。〔天正十七年本・利部上四三オ1〕
輪廽 。〔西來寺(天正十五年)本一三〇頁1〕
とあって、標記語「輪廻」の語を収載し、訓みは上記の如く諸本それぞれやや異なっているが訓みを「リンヱ」とし、その語注記は未記載にする。
古写本『庭訓徃來』二月廿四日返状に、
和歌者雖仰人丸赤人古風未究長歌短哥旋頭混本折句沓冠風情輪廻傍題打越落題之躰詩聯句者乍汲菅家江家之舊流忘序表賦題傍絶韻聲質如猿猴之似人。〔至徳三年本〕
和哥者雖仰人丸赤人之古風未究長哥短哥旋頭混本折句沓冠風情輪廻傍題打越落題之躰。詩聯句者乍汲菅家江家之舊流更忘序表賦題傍絶韻聲之資([質])。頗如猿猴之似人。〔宝徳三年本〕
和歌者雖仰人丸赤人古風未究長歌短哥旋頭混本折句沓冠之風情輪廻傍題打越落題之躰。詩聯句者乍汲菅家江家之旧流更忘序表賦題傍絶韻聲之質。頗如猿猴之似人。〔建部傳内本〕
倭歌者(ハ)雖レ仰クト二人丸赤人之(ノ)古風ヲ一未タスレ究二長歌短哥旋頭混本折句沓冠之(ノ)風情輪廻傍題打越落題之(ノ)躰ヲ一詩聯句者(ハ)乍ラレ汲二菅家江家之(ノ)舊流ヲ一更ニ忘ル二序表賦題傍絶韻聲之(ノ)質(スカタ)ヲ一。頗ル如ク二猿猴(エンコウ)ノ似タルガレ人ニ。〔山田俊雄藏本〕
和歌者(ハ)雖モレ仰グト二人丸赤人之古風ヲ一未レ究メ長歌短歌旋頭混本折句沓冠風情輪廻傍題打越落題之躰ヲ一詩聯句者(ハ)乍ラレ汲ミ二菅家江家之旧流ヲ一更ニ忘ル二序表賦題傍絶韵聲之質(スカタ)ヲ一。頗ル如シ二猿猴ノ似タルガレ人ニ。〔経覺筆本〕
和歌(ワカ)者(ハ)雖(イヘトモ)レ仰(アヲク)ト二人丸(ヒトマル)赤人(アカヒト)之(ノ)古風(コフウ)ニ一未(イマタ)スレ究(キワメ)二長歌(チヤウカ)短哥(タンカ)旋頭(せントウ)混本(コンホン)折句(ヲリク)沓(クツカムリ)冠(カンムリ)之(ノ)風情(フせイ)輪廻(リンエ)傍題(ハウタイ)打越(ウチコシ)落題(ラクタイ)之(ノ)躰(テイ)ヲ一詩(シ)聯(レン)句(ク)者(ハ)乍(ナカラ)レ汲(クミ)二菅家(カンケ)江家(カウケ)之(ノ)旧流(キウリウ)ヲ一更(サラ)ニ忘(ワス)ル二序表(シヨヘヨウ)賦題(フタイ)傍絶(ハウせツ)韻聲(インシヤウ)ノ質(スカタ)ヲ一。頗(スコフ)ル如(コト)シ二猿猴(エンコウ)之(ノ)似(ニタル)カ一乍(ナカラ)レ人(ヒト)ニ。〔文明十四年本〕
と見え、標記語「輪廻」に、訓みは文明十四年本に「輪廻(リンエ)」と記載する。
古辞書では、院政時代の三卷本『色葉字類抄』(一一七七-八一年)・鎌倉時代の十巻本『伊呂波字類抄』には、標記語「輪廻」の語を未収載にする。仏教語「輪廻」の語としての所載は、降って室町時代以降を俟たねばならない。次に示す。
古辞書、『下學集』〔(一四四四年成立・元和三年(一六一七年)版)〕に、
輪回(リンエ)〔元和本疊字門一五九頁1〕
とあって、「輪廻」の語を収載する。
増刊『下學集』(文明頃、飛鳥井榮雅編)に、
輪廽(リンエ) 。〔利部・言語門十九ウ6〕
とあって、「輪廻」の語を収載する。
広本『節用集』(一四七六(文明六)年頃成立)には、
輪(リン)廽(ヱ)[平軽・○]マワス、クワイ・メグル 。〔利部・態藝門一九八頁6〕
とあって、標記語「輪廻」の語を収載し、訓みは「リンヱ」と記載する。
印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・堯空本・両足院本『節用集』に、
輪廽(リンエ) 。〔弘治二年本・五八3〕
輪廽(リンエ) 。〔永祿二年本・五九2〕
輪廽 。〔堯空二年本・五三7〕
輪廽(リンヱ) 。〔両足院本・六一8〕
とあって、標記語「輪廽」「輪廻」の語を収載する。
次に易林本『節用集』に、
輪轉(リンテン) 。輪廻( ヱ) 。輪番(バン) 。〔利部・言語門五七5〕
とあって、標記語「輪廻」の語を収載する。
饅頭屋本『節用集』に、
輪廽(リンエ) 。〔利部・雜用門九ウ4〕
とあって、標記語「輪廽」の語を収載する。
江戸時代の『書言字考節用集』に、
輪囘(リンエ) 生―。死―。〔平楽寺板六八九頁7・10-51-5〕
とあって、標記語「輪囘」の語を収載し、訓みを「リンエ」とし、語注記には「生―。死―」とだけ記載して仏教語本意の注記内容と見て取れる。
このように上記、当代(室町時代)の古辞書においては、『下學集』、広本『節用集』、印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・堯空本『節用集』、易林本『節用集』『運歩色葉集』には、標記語「輪廻」の語を収載する。だが、語注記の内容としては、古写本『庭訓徃來』及び下記真字本に見える「輪廻」の註記文の内容は引用哥の表記と末部「此ノ躰ノ事也」と「杜若を句の上に置き讀み給ふなり」とあって、連歌俳諧の専門用語に用いる特異な注記内容として記述することがあるに過ぎない。此れが上記、古辞書類の標記語の訓みだけを記載する内容と果たして合意するものかは明らかにできない。そして、江戸時代の『書言字考節用集』の注記は、仏教語の本意に繋がる「生―。死―。」にのみ伝えてるという意義のギャップを此を以て知らねばなるまい。
真名本『庭訓徃來註』二月廿四日返状に、
069 輪廻 哥ニ云、長キ夜ノ十ノ眠(ネムリ)ノ皆目醒波乗リ舟ノ音トノ善哉。此ノ哥ハ順逆ニ読哥也。云々。〔謙堂文庫藏十一右2〕
※静嘉堂文庫蔵『庭訓徃來抄』には、「輪廽(クワイ)」とし、その頭冠書込みには「△輪廽ノ哥ニ云ク、キシヒコソマツカミキワニコトノネノトコニハキミカツマソコヒシキ」と記載し、尾沓書込みには「●輪廻/おしめどもついにいつもと行春ハくゆともついにいつもとめじをいふこと也」と記載する。
とあって、標記語「輪廻」とし、訓みは漢音「リンクワイ」、語注記は「哥に云く、長き夜の十の眠(ネムリ)の皆目醒め波乗り舟の音(おと)の善き哉。此の哥は順逆に読む哥なり。云々」と記載する。
古版『庭訓徃来註』では、
輪廻(リンエ)ハ前ニ有事也。〔上8オ五〕
とあって、標記語「輪廻」の語を収載し、訓みは「リンエ」と記載し、語注記は「前に有る事なり」と記載する。時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年〔一八〇〇〕版)に、
未(いま)だ長歌(ちやうか)短哥(たんか)旋頭(せんどう)混本(こんぼん)折句(をりく)沓冠(くつかむり)之(の)風情(ふぜい)輪廻(りんゑ)傍題(ほうだい)打越(うちこし)落題(らくだい)之(の)躰(てい)を究(きわ)め未(ず)/未タレ究長歌。短歌。旋頭。混本。折句。沓冠。之風情。輪廻。傍題。打越。落題。之躰。是は皆和歌乃よみ方ときすとなり。風情と云躰と云ミなそのすかたなり。〔9ウ四~七〕
とあって、この標記語「輪廻」の語を収載し、訓みを「りんゑ」とし、語注記は未記載にする。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
和哥(わか)者(ハ)、雖仰人丸(ひとまる)赤人(あかひと)之(の)古風(こふう)を仰(あふ)ぐと雖(いへども)、長歌(ちやうか)短哥(たんか)旋頭(せんどう)混本(こんぼん)折句(をりく)沓冠(くつかむり)之(の)風情(ふぜい)輪廻(りんゑ)傍題(ほうだい)打越(うちこし)落題(らくだい)之(の)體(てい)を/和哥者。雖レ仰人丸。赤人。之古風。長歌。短歌。旋頭。混本。折句。沓冠。之風情。輪廻。傍題。打越。落題之躰。▲輪廻ハ廻文(くわいぶん)ともいふさかさまによみても同(おなじ)き哥なり。√仁和帝(にんわてい)の合薫(あハせたきもの)すといふことを詠み給ふ御哥√あふさかも(六)は(二)てハゆきゝのせきもいず(八)た(四)つねてとひし(九)き(五)みハかへさじ(十)。
とあって、標記語「輪廻」の語を収載し、訓みを「りんゑ」とし、語注記は、「輪廻ハ廻文(くわいぶん)ともいふさかさまによみても同(おなじ)き哥なり。√仁和帝(にんわてい)の合薫(あハせたきもの)すといふことを詠み給ふ御哥√あふさかも(六)は(二)てハゆきゝのせきもいず(八)た(四)つねてとひし(九)き(五)みハかへさじ(十)。」と記載していて、連歌俳諧の「廻文」との聯関性について記述する。『庭訓往来』での「輪廻」に関わる注解では、凡て仏教語本来の意義とはかけ離れた連歌俳諧の用語説明が主流とし、仏教語「輪廻」とは異なるものへと展開してきている。
こうしたなか、『日葡辞書』(一六〇三-〇四年成立)には、
Rinye.リンエ(輪廻)Vauo meguru.(輪を廻る)すなわち、Mayo>.(迷ふ)さまざまな転生や変身の一続きの輪をたどりつつ、霊の救われる道を迷い歩く。ただし普通には、人がすでに忘れていなければならなかった事とかについて、繰り返し同じ事を言う意。例、Rinye xita cotouo yu<.(輪廻した事を言ふ)他人の感情を害したりしないためにだまっていなければならなかった事を、再び繰り返して言う。〔邦訳五三四頁l〕
とあって、標記語「りんゑ【輪廻】」の語を収載し意味は「(輪を廻る)すなわち、Mayo>.(迷ふ)さまざまな転生や変身の一続きの輪をたどりつつ、霊の救われる道を迷い歩く。ただし普通には、人がすでに忘れていなければならなかった事とかについて、繰り返し同じ事を言う意」とあって、本来の仏教語として意味を伝え記載し、連歌俳諧用語としての「輪廻」については一切触れずじまいにある。彼らが本邦の『庭訓往来』ついて読み解くことを避けてきたとは到底思えないのだが、この語への取扱いについては、稍その編纂姿勢が違い、通俗語性を重視していて、「(輪廻した事を言ふ)他人の感情を害したりしないためにだまっていなければならなかった事を、再び繰り返して言う」とし、置換語でいえば、「愚痴(グチ)」となる語意を記載する。
明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
りん-ゑリンネ〔名〕【輪廻】(一)衆生の、無始以來、六道の生死に旋轉すること、車輪の轉じて、窮りなきが如きを云ふ。るてんりんゑ(流轉輪廻)の條を見よ。法華經、方便品「以二諸欲因縁一、墜二階三惡道一、輪二廻六趣中一、備受二諸苦毒一」榮花物語三十、鶴林「天上の樂しみも、五衰早く來り、乃至、有頂も輪廻期なし」雜體(二)未練がましきこと。執着心の深きこと。薩摩歌(元禄、近松作)中「過にしことを輪廻深く、言ふ氣はさらさら無いものを、云云」(三)和歌のくヮいぶん(廻文)に同じ。庭訓徃來、二月「輪廻、傍題、打越、落題之體」〔4-819-2〕
とあって、標記語「りん-ゑ【輪廻】」の語を収載する。
現代の『日本国語大辞典』第二版に、
りん-え[:ヱ]【輪廻】〔名〕→りんね(輪廻)
りん-ね[:ヱ]【輪廻】〔名〕({梵}sam.sa-raの訳語「りんえ」の連声)①仏語。回転する車輪が何度でも同じ場所に戻るように、衆生が三界六道の迷いの世界に生死を繰り返すこと。*文華秀麗集〔八一八〕中・答澄公奉献詩〈嵯峨天皇〉「頼有護持力、定知絶輪廻」*観智院本三宝絵詞〔九八四〕下「その子ひじりにあらず、神通なければ輪廻すらむをも見ずしてゆくべき事かたし」*宇津保物語〔九七〇~九九九頃〕俊蔭「輪廻しつる一人がはらに八生やどり、二千人がはらにおのおの五八生やどるべし」*苔の衣〔一二七一頃〕三「いづることなく、りんゑのきづなにまとはれて」*浮世草子・諸国心中女〔一六八六〕三・四「男女婬楽互(たかひに)抱臭骸(くさきかばねをいだく)と囀(さべ)りをきてきたなき物の最上とす。子をまうけて愛心を動かし親と成てはむつかしと嫌はれ旅途に出ては古郷を案じ戦場にして妻子に輪廻(リンエ)し」*心地観経ー三「有情輪廻、生二六道一、猶三如車輪無二終始一」②同じことを繰り返すこと。*日葡辞書〔一六〇三~〇四〕「Rinye(リンエ)シタ コトヲ ユウ〈訳〉口にしてはならなかった、人の心を傷つけるようなことをくりかえし言う」③執念深くすること。執着心の強いこと。未練がましいこと。*浄瑠璃・出世景清〔一六八五〕二「十蔵たもとをふりきって、ゑゑりんゑしたる女かな。そこのけとつきのけて」*浄瑠璃・艷容女舞衣(三勝半七)〔一七七二〕下「お気に入らぬとしりながら、未練な私が輪廻(リンヱ)ゆへ」④連歌・俳諧の付合で、三句目に同意・同想の語や意味を繰り返すこと。去嫌(さりきらい)の一つで、数句隔てて反復する遠輪廻とともに、変化を尊ぶ文芸として忌み嫌われる。*異制庭訓往来〔一四C中〕「連歌者如二漢聯句一〈略〉号二花下新式一、定二輪回傍題韵字一」*連理秘抄〔一三四九〕「一、輪廻、薫物といふ句にこがると付きて、又紅葉を付くべからず。舟にてはこれを付くべし。こがると云ふ字かはる故なり」⑤一八九九年、アメリカの自然地理学者デービスの提唱した地形の変化についての概念。侵食輪廻や堆積輪廻など、地学現象が一定の順序で繰り返すという。【発音】〈標ア〉於[リ]〈京ア〉[リ]【辞書】下学・文明・伊京・明応・天正・饅頭・黒本・易林・日葡・書言・ヘボン・言海【表記】【輪廽】文明・伊京・明応・天正・饅頭・黒本【輪囘】下学・書言【輪廻】易林【輪回】ヘボン
とあって、標記語「りん-え【輪廻】」の語を収載し、見出し語「りんえ(ゑ)【輪廻】」の単独立項用例とはせずに此の「りんね【輪廻】」に統括するものとなっている。また、『庭訓徃來』の語用例も『異制庭訓往来』『連理秘抄』に譲り、収載を見ないものとしている。慥かに、④の意での説明はあるが、国語辞典の意味説明として読み理会するには稍高尚の説明となりすぎていると吾人は考える。むしろ、大槻文彦編『大言海』の(三)「和歌のくヮいぶん(廻文)に同じ」とする意味説明の方が惑わずにその意義に到達できるのではと考えている。
まとめ
いま、此の室町時代全般に亘って、連歌俳諧の語研究として、此の「輪廻」について見定めていかねばならないとき、当代の往来物資料で、仮に、⑴過去の「輪廻」、⑵現在の「輪廻」、⑶未来の「輪廻」として時代の軸を室町時代に設定し、此の語を見定めようとしたとき、⑴は、当然仏教語本来の意味を云うことになり、「生と死」の観点からそのことを理会し得てこそ、⑵室町時代に連歌俳諧の「輪廻」という轉想が具現化されはじめ、室町時代の古辞書『下學集』『節用集』へ標記語と訓み「リンヱ」だけを記載することで、⑴と⑵の意味を共に認知できる知己者集団が誕生していたとみたい。そのなかにあって、印度本系の一種『和漢通用集』(標記語漢字、付訓ひらがなで表記)を引くことがその展開を繙くカギとなる。
○輪廻(りんゑ) 愚痴(ぐち) 〔一〇一頁7上〕
とあって、上記に示してきた古辞書類とは異なる語注記「愚痴(ぐち)」と記載している点にある。此語ももとは仏教語であるものの、此の時代「愚痴」は、小学館『日国』第二版の「(2)言っても仕方のないことをくどくどと嘆くこと。言ってもかえらぬこと、益のないことを言うこと。泣き言。*仮名草子・小さかづき〔一六七二(寛文一二)〕四・六「貪瞋痴の三毒といふは、是地獄のたねの第一也〈略〉痴は愚痴とて、かへらざる事をくやみ叶はざる事をおもふ事也」」とある意としている。こうした通俗語解釈があって、そうしたなかで、『庭訓往来』二月二四日に返状や『異制庭訓往来』『連理秘抄』の「輪廻」の語が意義派生していると推定される。同じ頃の末に、キリシタン資料『日葡辞書』が⑴にのみ言及していたことも注意せねばなるまいが、今は深く言及しない。むしろ、往来物資料の寺子屋教科書として普及を見る『庭訓往来』そのものに焦点をおいてみてきたことへの研究結果報告に基づいてまとめておくことになる。 「風情」と「輪廻」との間
⑴国会図書館所蔵甲本『庭訓往来』二月廿四日に返状
連歌者雖レ學二無常寂忍之舊徹ヲ一未弁下
※十二字を記載保有する。
⑵静嘉堂松井文庫所蔵(小宮山氏旧蔵)松井甲本
此本二月返事ノ内ニ折句沓冠之風情ト輪廻傍題トノ間ニ連歌者雖學無常寂忍之舊徹トイフ十二字アリ。諸本ニ曾テミサル所ナリ。二月文章ニ連歌宗匠和歌達者一両輩可有御誘引トアレハ其答アルヘク且輪廻傍題打越落題ハ連歌ノ事ナレハコノ十二字ナクテハ義キコエカタシ。必諸本ニ落タルナリエリ云云
とあって、その上欄小宮山氏書込み注記として、
文藝類纂ニ此句ノ考證アリ。轍ノ字䖝ノ字皆訛リ又徹ノ下不讀不弁ナトノ二字アリシナラント云リ。とする。
⑶国会図書館所蔵乙本『庭訓往来』二月廿四日に返状
芳野自筆書込み
芳野按ニ今本此條ヲ脱せリ。徹ハ誤冩ニテ轍ナルヘシ。且輪字ノ上例ニ據レハ不曉トカ不辨トカアルヘシ。如此珍本他ニ校スヘキナシ。惜シムヘシ。とある。
⑷国会図書館所蔵丙本『庭訓往来』二月廿四日に返状
連歌者䖝((雖))學無常寂忍之舊徹 とある。
⑸内閣文庫本は、⑴に同じ。
「未弁ト」は小書きにする。
という諸本記載書込み部分にも及ぶ。
斯く「輪廻」の語を読解してきたのだが、『庭訓往来』は、仏教語が離れ、通俗語としての「他人の感情を害したりしないためにだまっていなければならなかった事を、再びくどくどと何遍も繰り返して言う」意へと転じていて、此の内容を習學理会していくなかで、どうけじめづけてきたのかを改めて見つめ直す機会にもなった。
いま、手塚治虫漫画作品『ブツダ』、『火の鳥』に描かれる「輪廻」は仏教語「輪廻転生」としていて、此の室町時代の文藝創作に関わった連歌俳諧との接点は、AIの技術を活用するなかで改めて新たな方向へ動き出すことになろうとしていることに近似た営みになろうとしている。
【羨者淨法也。非者染心也。淨法能出於輪廻深為利本染法返沉於苦海實可傷嗟諸佛出興大意為此。】
【羨者淨法也。非者染心也。淨法能出於輪廻深為利本染法返沉於苦海實可傷嗟諸佛出興大意為此。】
リンネ【輪廻】の語集
手塚治虫漫画『火の鳥』ヤマト編
萩原義雄識
○我王「良弁(りようべん)僧正さま おれが役に立つとは思えねえ おれはこのとおり化目片腕で」「そのうえふた目と見られぬみにくい顔がかえって上人さまの足手まといになりまさア・・・・・・」〔七六頁〕
○良弁僧正「わしはおまえさんしか供につれて行かんつもりだ わしのいっさいの世話はおまえさんにさせる」
○我王「もしおれがとちゅうでにげたら・・・・・・?」
○良弁僧正「おまえさんはぜったいににげはせん!!」
○我王「へへ・・・・・・そんなことわかりますかい・・・・・・?」
○良弁僧正「おまえさんはいま心の中で善悪がはげしくたたじゃっとるわな」
○良弁僧正「あの雪の日おまえさんが殺した速魚とかいう女のこと・・・・・・」
○我王「速魚のことを口に出すのはやめてくれッ!」
○良弁僧正「その女が消えて虫けら一ぴきになったことがおまえさんに生命(いのち)のともしびの重大さを目ざめさせたのじゃ」
○良弁僧正「おまえさんは人間を何人も殺した だが人間も虫も生命の重さにおいてはおなじ・・・・・・その真理に おまえさんは気がついたのじゃ なぜひとを殺して虫をたすけたのかとな・・・・・・・・・」
○我王「うるせえやっ くどくどぬかすないっ」
○我王「ケッ おれはな! 僧正さまにいのちを たすけられたなんてこたア これっぽちも恩に感じてねえぜ これからも おれは自由にふるまうし 殺してえ ときにはだれだって殺すさ」〔七七頁〕
○我王「おれをそういう男に生んだ親がわるいのよ! おれにひとを殺させる 世の中がわるいんだよう!」
○良弁僧正「そのとおりじゃよ 我王 おまえさんは ちっともわるくない」
○良弁僧正「わるいのは輪廻(りんね)というやつでな」
○我王「なんだよ そのリンネとかいうのァ・・・・・・」
○良弁僧正「輪廻か・・・ ・・・・・・・・・・・・」〔七八頁〕
○良弁僧正「まあ たとえばおまえさんが前世ではなんだったか 来世ではなんだろうかということさ」
○我王「あァ?」
車のまわるのを見るがよい くるくるとおなじところをいつまでも際限なくまわりつづけるじゃろう
人間のいのちもそれとおなじでな 人間が死んでも それはべつの生きものに生まれかわって・・・・・・・・・
つぎつぎに生まれかわっては死に また生まれかわって・・・・・・いつはてるともなく永久につづくのじゃ・・・・・・
おまえさんも生まれるまえはべつの生きものだったんじゃ べつのな・・・・・・
○我王「へッ! おれはそんな気がしねえ」〔八〇頁〕
○良弁僧正「そりゃあ 自分ではわからんしおぼえておらん」
○良弁僧正「前世で死ぬとき なにもかも すっかりわすれてしまうんじゃ また おまえさんが 今生(こんじよう)死ぬとき・・・・・・」
○良弁僧正「なんの思い出のかけらものこさず わすれてしまうだろうて」
{牛や馬に生まれかわるのもおる 虫けらにかわえうものもある!}
なんになるかはだれもきめられん・・・
ただいえることは前世でどんな生きかたをしたかのむくいが来世にかかわるのじゃ そして 人間になるか 虫魚禽獣(きんじゆう)に生まれるかがきまるのじゃ
そしてその運命はえんえんとつづいていく・・・・・・
輪廻絵画(見開き一枚二頁)
○我王「おれがもとけだものだったって? 死んでからけだものになる? ふん わらわせるない」〔八四頁〕
○良弁僧正「人間だったことがあるかもしれんな」
○良弁僧正「いまから何百年も昔・・・・・・いや何千年ものちに人間に生まれているかもしれん」
○良弁僧正「おまえさんがひとを殺(あや)めなければ生きられないことも・・・・・・ ・・・・・・・・・ そのむごたらしい鼻の病もみんな前世からのかかわりかもしれん」
○良弁僧正「それを仏のおしえでは因果応報というておる」
○我王「じゃあ あの速魚という女にであったのも? あの女が虫けらにかわってしまったことも?」
○我王「あの虫けらがまえには人間だったかもわからないっていうんですかい?」
○我王「信じられねぇな・・・・・・・・・・・・
虫けらに生まれかわったってつまらないじゃねぇか
かげろうという虫は たった三日しか生きておられぬ
その三日のいのちが・・・・・・やはり前世の因果応報なのかもわからぬ
〈ブ~ン〉
〈ピシャリ〉
〈絵図1〉
〈絵図2〉〔八六頁〕
◇我王「僧正さま これ 見てくだせえ」〔八六頁〕
○我王「いま おれが殺したんだ!」
○我王「こいつも・・・・・・どっかでなにかに生まれかわるかね?」
○我王「人間にかね?えらい人間に生まれるかね?」
○良弁僧正「かもしれぬな」
○我王「たのむ もっと話してくれ 僧正さま」
○我王「おれは死んだらおれはなにになるか知りてえんだ!!」
〈絵図3〉
〈絵図4〉
〈絵図5〉
○我王 うわアーアーア
◆我王「いやだ おれは 人間のままでいたい けだものや虫はごめんだ おれは人間なんだーッ」
〈絵図6〉寺院鳥瞰図