1.新式里弄住宅
1928年から1933年まで丁玲は7号4階の2号室に住んでいました。
2.昆山路
四川北路から昆山路に入るとすぐ右手に上海優秀歴史建築の碑があります。
3.上海優秀歴史建築の碑
この建物と昆山花園路1号-10号が優秀歴史建築に指定されており、「1932年かつて昆山花園路7号に作家丁玲が住んだ」と記されています。
昆山花園路はこの碑のちょうど裏側(南側)になりますので、一旦四川北路に戻ります。
4.四川北路から見た昆山花園路
昆山花園路は昆山路のすぐ南の細い路地です。
5.路地と長屋
レンガ造りの4階建ての長屋が並んで建っています。
6.7号住宅
道路側には説明版のようなものは何も見当たりません。
7.市級建築保護単位
7号入り口を入ると左手壁に「市級建築保護単位」の碑がありましたが、丁玲のことは記されていません。
8.7号4階2号室
階段を上がってみましたが、やはり丁玲を説明するような書き物は見つけられませんでした。
9.応修人烈士殉難処
1933年5月14日丁玲はこの場所で国民党特務に逮捕されますが、その時、丁玲宅に連絡に来ていた共産党江蘇省委秘書の応修人は国民党特務と格闘の末、部屋の北側の窓から転落し死亡します。
10.外観は当時のまま
建物外観は丁玲が住んでいた当時のままだそうです。
1922年丁玲は18歳で故郷湖南省を出て上海の「上海平民女子学校」に入学します。
「上海平民女子学校」は1921年に共産党が女子幹部を養成するために設立した学校で、地方の才女が20名ほど昼間は学習、夜は縫い物などのアルバイトをしながら過ごしました。
彼女らの教師は共産党設立メンバーの一人で初代総書記の陳独秀も務めました。学校跡は今でも延安中路に復元保存されています。
1925年丁玲は北京大学の聴講生になりますが、そこで知り合った作家胡也頻と結婚します。
1928年に夫とともに上海へ戻り、昆山花園路に住みます。
1930年に当時地下組織だった「中国左翼作家連盟」に加盟しますが、翌年夫の胡也頻が国民党により射殺されます。
一大決心をした彼女は生後間もない4か月の我が子を故郷の母に預け、共産党中央に参加することを希望しますが、党は彼女を中国左翼作家連盟の書記に任命します。
1932年彼女は正式に共産党員となり作家活動を続けますが、1933年に国民党に逮捕され1936年まで南京に投獄されます。
1949年に蒋介石は国民党を引き連れ台湾へ逃亡し、共産党により新中国「中華人民共和国」が成立します。
1950年代は作家として文学賞を受賞したり、中央の委員として海外の会議に出席するなど彼女がもっとも輝いた時代でしたが、
1958年「文化大革命」前夜、毛沢東より「反党集団の頭目」と批判され、党籍をはく奪され、黒竜江省の農場へ下放されます。
当初は労働の合間に「掃盲教員:文字の読み書きができない人を教育する係り」などで過ごしますが、1966年に「文化大革命」が勃発し農場の様相も一変します。
造反派が農場の実権を握り、彼女を「農場の地下司令」と名指し、日常的に暴行や懲罰を加え彼女の自尊心を打ち砕こうとします。
極寒の地で過酷な労働やリンチに耐えましたが、1970年今度は人民解放軍により北京の監獄に5年間投獄されます。
文革が終了した1979年、やっと「名誉回復」がなされ復党し「中国作家協会」副主席など中央の役職を歴任し、1988年北京で病没します。享年満81歳。
中国の近現代史は戦争と騒乱の連続です。
1840年の英国とのアヘン戦争、1860年の太平天国の内乱、1894年の甲午战争 (日清戦争)による台湾の割譲。
20世紀に入り1912年の辛亥革命と孫文死去後の国内混乱、1932年日本との第一次上海事変から始まった満州国建国や日中戦争、太平洋戦争への拡大。
終戦後も国民党と共産党による内戦。1949年中華人民共和国成立後も経済的な混乱や文化大革命、天安門事件などの国内騒乱。
国が平和でなければ常に国民が大きな犠牲を支払わなければならず、経済が繁栄しても心に受けた傷は容易には治癒しません。
撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4 L IS
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