今から約420年前、豊臣秀吉は朝鮮半島侵略の出兵基地として佐賀県東松浦半島先端に壮大な名護屋城を築きました。
当時は大阪城に次ぐ規模(17万m2)で、2度にわたる戦いの兵力動員数も関ヶ原の戦いに匹敵する158,000人と141,500人規模であったそうです。
1.大手口から見る三の丸の石垣
城の玄関口です。発掘調査や危険個所の修復が施されているようですが、400年以上前の石垣がほぼ完全な形で残っています。
2.名護屋城跡と文禄/慶長の役の説明
九州は外国との距離も近いので、古代の伯村江の戦いから元寇、朝鮮戦争など歴史上多くの国際紛争の前線となっています。
3.名護屋城の全貌
現存する屏風に描かれている絵図の下絵で、1593年5月頃沖の加部島山頂からの情景を描いたものだそうです。
明国からの講和使節団の隊列も描かれています。
4.大手口から本丸への坂道
意外と広い坂道ですが、春には桜の名所にもなります。
5.本丸跡
最頂部の高台は広く、その規模の大きさが推測できます。
6.天守台跡
北東方向に加部島と呼子大橋が見えます。
7.本丸跡から見降ろす陣屋跡
城郭の周辺には全国から参集した大名の陣屋跡が130カ所確認できます。
今でも約60個所の土塁や石塁の遺構が良好に残っており、内23が国の特別史跡に指定されています。
島津、黒田、徳川家など有力大名の陣地跡は内部の見学も可能なそうで、各陣地の散策見学ルートも整備されています。
8.本丸跡から望む北方の壱岐・対馬(いき・つしま)方面
晴天の日には遥か壱岐・対馬まで見渡せるようです。
撮影:CANON EOS M5 + EF-M15-45mm
当時は大阪城に次ぐ規模(17万m2)で、2度にわたる戦いの兵力動員数も関ヶ原の戦いに匹敵する158,000人と141,500人規模であったそうです。
1.大手口から見る三の丸の石垣
城の玄関口です。発掘調査や危険個所の修復が施されているようですが、400年以上前の石垣がほぼ完全な形で残っています。
2.名護屋城跡と文禄/慶長の役の説明
九州は外国との距離も近いので、古代の伯村江の戦いから元寇、朝鮮戦争など歴史上多くの国際紛争の前線となっています。
3.名護屋城の全貌
現存する屏風に描かれている絵図の下絵で、1593年5月頃沖の加部島山頂からの情景を描いたものだそうです。
明国からの講和使節団の隊列も描かれています。
4.大手口から本丸への坂道
意外と広い坂道ですが、春には桜の名所にもなります。
5.本丸跡
最頂部の高台は広く、その規模の大きさが推測できます。
6.天守台跡
北東方向に加部島と呼子大橋が見えます。
7.本丸跡から見降ろす陣屋跡
城郭の周辺には全国から参集した大名の陣屋跡が130カ所確認できます。
今でも約60個所の土塁や石塁の遺構が良好に残っており、内23が国の特別史跡に指定されています。
島津、黒田、徳川家など有力大名の陣地跡は内部の見学も可能なそうで、各陣地の散策見学ルートも整備されています。
8.本丸跡から望む北方の壱岐・対馬(いき・つしま)方面
晴天の日には遥か壱岐・対馬まで見渡せるようです。
撮影:CANON EOS M5 + EF-M15-45mm
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