実は私、数日前に居住地域の自治体役場に自治会の事で問合せしたばかりである。問合せ内容は町内で良くある話であるがその時自治体の職員から”今回の震災でも自治会が大いに役立ったと聞いています”と訊かされた。
しかしこの記事を見ると集落80人のうち残っているのは5人だけ。果たして自治会が機能しているのだろうか?。区長自身もさじを投げているかの様に書かれているが・・・・・・・、我が地元の自治体職員の発言の根拠はどこから来たのだろうか?。
もしも地元の自治会がまとまらないからと言った様な理由で現実と違う嘘をついてまで統率しようとする自治体職員ならとんでもない輩である。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110519-00000113-san-soci
石巻・大谷川浜 住民散り散り、集落「解散」 「元には戻れねえ」
産経新聞 5月19日(木)7時55分配信
東日本大震災で住民が散り散りになり、「解散」同然の集落がある。津波で全戸の家が流された牡鹿(おしか)半島の大谷川(おおやがわ)浜(宮城県石巻市)。住民約80人は全員無事だったが、仮の解散式後には仙台市の親族宅やアパートに引っ越し、残ったのは5人だけだった。「もう元には戻れない」。三陸沿岸には、そんな消えかかっている集落がたくさんある。(荒船清太)
【フォト】仙石線 上り下りで分かれた「生と死」
◆残ったのは5人
住民らの避難場所となっているのは旧大原中学校の校舎だ。「若い人は戻ってこねえだろうなあ」。釣り船業、阿部政悦さん(52)は寝ころびながらそうつぶやいた。
大谷川浜では集落26戸全戸が津波で流され、公民館を捨てて山に逃げるなどして約80人全員が逃げ延びた。一時は校舎の3階まで被災者が入っていたが、大半が石巻市中心部に移り住んでいた親族の家や仙台市内のアパートなどに移った。今では1階に3世帯5人が暮らすだけとなった。
阿部さんと一緒に暮らしていた母親(80)は山形県の親族の家に、長男(24)は70キロ以上離れた宮城県大河原町に移った。実家で営んでいたホヤ種の養殖や釣り船に興味を示し、後継ぎ含みで仕事を習っていた次男(22)も、土建業の働き先を見つけて石巻市の中心部に引っ越した。
大谷川浜は、ホタテなどの養殖業を営む世帯はいるが、大半は兼業の会社員。買い物も市外のスーパーでしていたことから、住民の流出が続いた。「息子が嫁もらっても、孫ができても、一緒に住める大きい家だったんだが、元には戻れねえ」。阿部さんは嘆く。
仮の解散式は旧大原中で開かれた。3月末のことだ。「年寄りも多いし、ここにずっといることはできない。1回外に出て、この集落をどうしていくか、みんなじっくり考えてください」。行政区長の木村幸七(こうしち)さん(68)は厳しい表情であいさつした。
90代の高齢者や障害を持った被災者もおり、健康状態は日に日に悪化。数十人分の薬を取りに山を越えて病院に毎週通わなければならないなど、集団生活は限界に来ていた。あいさつに、住民は黙ってうなずいた。「いつか戻ってくる」。木村さんはそう信じて、住民の移転先すべてをメモ帳に書き留めた。
◆29日に正式決定
だが、「あの決断がよかったのか悪かったのか」。今になって木村さんは悩んでいる。「いったん離れると、生活の基盤もできてきて、浜には戻りづらくなる」。木村さん自身、妻と一緒に牡鹿半島を離れ、石巻市の市街地の長女宅に避難し、孫3人と暮らせることに喜びを感じてもいる。
それでも、木村さんは大谷川浜に家を建てるつもりだ。「このまま、浜がなくなることだけは避けたい。私たちが踏ん張れば、また戻ってくる人も出てくるかもしれない」
阿部さんも大谷川浜に戻るため、親族の誘いも断って旧大原中で避難生活を続ける。「同じ釣り場でも秋と春で取れる岸辺が変わる。こんな居心地いい場所は離れられない」。大谷川浜は祖父から3代を育んでくれた。阿部さんは「大工やってたから家は自分で建てられる。船の修理もやってたから釣り船は直せる。大谷川に残る」と話す。
集落を解散するのか、それとも残って再建するのか。29日の住民集会でもう一度正式に決めるという。