伊江島土地を守る会 阿波根昌鴻
『歴史地理教育』 臨時増刊号 №199
沖縄県伊江島のたたかい
歴史教育者協議会編集
一部加筆 山梨県歴史文学館
伊江島は、沖縄本島の北端にある人口八千人、一千五百戸という小さな島です。それでも、一戸平均一町歩(沖縄では平均一戸当り六反歩といわれる)の土地をもち、農作物は、米以外なら、落花生、イモ、野菜、サトーキビ(砂糖黍)など、なんでもとれる豊かな島で、昔から自給自足ができたものでした。
この豊かな、美しい伊江島に、土足でふみこんだ米軍は島の六三%にあたる土地を奪って軍用地とし、三ヵ所に米軍の飛行場をつくり、二亘戸近くの農家と土地をとりあげてしまったのです。
■ いつわりのサイン
一九五四年七月。米軍の宣撫班のようなものが伊江島にやってきて、四軒の農家に「立ちのいてくれないか」と親しげに話しかけてきました。当時農民たちは、アメリカはリンカーンの国、民主主義の国として信頼しきっていました。移転後の保障はする、心配はいらないという言葉を信用して、こころよくこれに協力して立ち退きました。
すると、こんどは七軒の農家に、測量に協力してほしいといってきました。このときもみんなこころよくひきうけましたが、仕事が終って帰ろうとすると、「あなたたちの働いた日当を支払うのに、確かに働いたという証明が必要だから、サインを」といって、米兵から英文の用紙をだされ、日当までくれるなら、といって署名しました。
ところがあとでわかったのですが、それは「立ちのき承諾書」だったのです。
「だまされた“」と気がついたときはもう遅かった。
さらにまたこれに追いうちをかけるようにして、同じ年の 十月頃になると、こんどは百五十二軒の農家に強引な立ちのきを要求してきたのです。
たびかさなる卑劣なだましうちに村民の怒りは爆発しました。こうして伊江島八千の農民の十二年にわたるたたかいが始まりました。
私たちは「土地をとられたら生きていけない」といっては何度も陳情にいきました。すると、米軍と琉球政府は、「いや立ちのかなくてもいいし、農耕もそのままつづけてよろしい」とこたえて村民を喜ばせておき、一ヵ月ぐらいたつとまた立ちのけといってきました。また抗議にいくと、「いや立ちのかなくてもよろしい」とこたえる。こんなことが一九五四年暮から翌年春までくりかえされました。
彼らは、陳情をあきらめるのを待っていたのです。だが私たちはひるみませんでした。ついに米軍のたてた「米軍人以外の者立入禁止」の立札のすぐそばに、「土地は農民のものだ、地主以外の立入禁止」という立札をたて、米軍が金網を張ればそれを取り払い、遂に米軍の基地だという所に二百戸の家を建てました。村民の命をかけたこの戦いは、今もなお守りぬかれています。
■これが!!強盗の論理!!だ
一九五五年三月のことです。
突如三百人以上の完全武装をした米兵がピストルや催涙ガスをちらつかせ、ブルドーザーやジープ、救急車まで動員して、伊江島の海岸に、上陸してきました。びっくりした村民は、「第三次大戦でも始まったのか?」と、一時は半信半疑でしたが、じつはこの工作部隊は、武力で私たちの土地をとりあげにきたのです。
それを知った村民は鐘を乱打して集まり、米兵たちの前に土下座して」「土地をとりあげてくれるな」「土地をとりあげるとママもベビーも飢え死にしてしまう」と嘆願しました。
このとき工作隊の隊長ガイディア中佐は「アメリカ合衆国軍隊は平和的軍隊にして、かつ友好的軍隊である。アメリカ軍に協力するものは多大な利益が与えられる。もし反対したものは、その利益を失ったうえに、大きい不幸のくることを承知しなければいけない」と通告文を読みあげ、「この島はアメリカがぶんどった島であるから、アメリカの自由である」と、イエスでもノーでも立ちのけといい放ち、そしてちょうど畑に土下座して手まね、足まねで必死に嘆願していた
並里清二さん(当時六十歳で、村民からは最も勇気ある人と尊敬されていた)にいきなり米兵たちがとびかかり、皆の前でなぐるけるの暴行を加え、半殺しにしたうえ、荒縄でくくり、毛布でくるんで、用意してきた金アミのオリにぶちこんでしまいました。そのとき、他の農民も散人、私もふくめて逮捕され暴行されたうえ、土下座して訴えた私たちに、煽動、暴行、公務執行妨害という三つの罪をきせたのです。
こうして「平和的軍隊」は、農家に火をつけて焼きはらい家をつぶし、ブルドーザーで作物や防風林をひきつぶし、土をかぶせて焼けあとをつぶし、百五十坪の土地に鉄条網や金アミをはるという影参加かぎりをつくしたのです。
そのときいらい、琉球政府や警察は手をひいてしまいました。
私たちの代表が、このことを訴えに、当時のジョソソン主席民政客と会見したときです。彼はこういいました。
「今の話は聞くにたえません。あなた方は可愛想です。なんとかして助けてあげたいが、不幸にして沖縄には、あなた方を助ける方法がない。土地をとりあげるという法はあるが、土地をとられた人びとの保障をするという方法がない。その予算がない。また保障したという例もない。だから助けることはできない。しかしアメリカは、沖縄で多くの土地はとりあげたが、一人も死んだということをきいたことがない。だからあなた方も、死にはしないかと心配することはない」と、強盗の理論をひれきしたものでした。
■娘を売って恥ずかしくないか
また四年前です。本土からきたある国会議員が、私たちに向って「あなた方はウソはいわない方がいい。常識でも考えられないことだ。アメリカ人は文明人だ、そんな野蛮人ではない」というのです。そこで私たちはいいました。
「あなたは、私たちがアメリカ軍隊から苦しめられているという考え方をおもちか。そうではない。じつはあなた方が弱いために、日本の政府が無責任のために、私たちはアメリカ軍に苦しめられているのであって、あなた方が苦しめているのと同じなのだ。
今日本は″沖縄はドルのかせぎ場″とか、″日本は工業国だ″″日本は独立国だ″といって威張っているが私たち農民の考えからすれば、それは無責任な考え方だ。それは彩でが美しい沖縄という娘を赤線地帯に売り、その金できれいな家や、りっぱな服をつくっているのと同じではないか。これで独立したといえるだろうか。これは同じ日本人としても、また世界にたいしても、最も恥ずきことではないか」と。
また、昨年沖縄にきた佐藤首相にも陳情したし、沖縄全島にも訴えてまいりました。その間、島では、土地を奪われた農民たちは、食うため生きるために、弾丸の降ってくるなかを、鉄条網や金網を切り、軍用犬や米兵のピストルに追い回されながら、奪われた畑から芋や落花生とってきては飢えをしのぐ生活がっづきました。
そのために多くの犠牲者もだしてきました。土地を奪われたショックやすい弱で婦人二人、青年四人が死亡し、米軍の不発弾の解体中に爆死した二人、さらに草刈りしていた 二十歳の青年が米軍に射殺されています。その他、右腕をもぎとられ、太腿部の貫通銃創など重軽傷者三十数人、逮捕投獄されたものは百人をこえています。
これほどの大きな犠牲をだしながらも私たちは実力で土地をうばいかえして農耕を続けるかたわら、各方面への訴えを続けていきました。
■痛感した学習不足
陳情書を書き、プテカードーつ書くにも、字や法律を知っている学校の先生や、役所の人たちに協力してもらっていました。ところが、これを知った米軍や琉球政府は、この人たちに圧力をかけ、先生方が農民に協力するなら、学校を建ててやらないとか、役人がこれに協力するなら、銀行から金の援助をさせないとかいって、さまざまな害を加えてきました。
私たちは、あらゆる手段をつかって勝たなければなりません。このような弾圧と妨害のなかで、私たち自身が学習しななりました。
学習の必要を痛感したわけはもう一つあります。
私たちが陳情にいって島を空けておくと、米軍や役人たちが村民を買収したり、分裂させようと策動するので、すぐまた島に帰るといった弱さがありました。
あるいは新聞に私たちのたたかいをのせると、アメリカはその反対の記事をのせます。例えば、軍用地の使用料は十八万二百円なのに、新聞は九百万円も払っているとウソを報道します。よくしらべてみたら、今まで伊江島に投じたアメリカの費用が九百万円だったというふうに、どっちが真実か、わからないようにしてしまうのです。あるいは、彼らは農民には「十五時間の農耕時間を与えている」と宣伝しています。ところがこの十五時間とは、演習の終る夕方五時から翌朝八時までのことなのす。
私たちは、こうしたゴマカシや圧迫をはねのけ、宣伝をひめるために、自らの力で学習をはじめました。
当時立法院議員であった前川守仁という人が、東京の中央労働学院を出たことがわかり、さっそく「人材養成有志会」をつくり、皆の苦しい生活の中から金をだしあって、中央労働学院に毎年代表を送り、今では六人の卒業生を生むことができました。
最初に卒業した浦辺正良さんは、すぐ村会議員に当選しましました。当時の村会では、科学といえば湯川博士がやるもの、哲学といえば、自殺することだくらいにしか考えていませんでした。この村会に浦辺さんが、「あなた方は科学を否定するものだ」とか、「ものの見方が形而上学だ」とか「観念論」だとかいう専門語を使いはじめたので、村長以下、何のことやら意味がわからず、これや勉強しないと天変だということになり、国民百科辞典を買って、はじめて議会でも週一回学習するようになりました。今では沖縄の市町村会議員が定期的に開く研修会には、伊江島の議員が講師になるくらいになりました。
■先頭に立つ六人の卒業生
米軍が伊江島を奪うまでは、農民たちは、とくに学習を必要としませんでした。ただ牛を飼い、野菜をつくり、肥料の使い方さえ知っておればよかったのです。だが米軍との戦い、日本政府の白々しい裏切りの数かずの中で、私たちが土地を守り、そして生きていくためには、野蛮人のようなアメリカ人を説得できるくらいの学習と、また戦い抜けるりっぱな人間になることだといって、死にものぐるいになって勉強をはじめたのです。
昨年のことです。米軍は、この島にミサイルの基地をつくろうとして、とつぜん三菱の舟艇に器材をつみ、請負い人夫までのせて上陸してきました。このとき、ついに一本の器材も降させずに追いかえしたことがありますが、その先頭に立ったのは、この六人の青年たちでした。
「あなた方は、誰の許可をうけてここへきたのか。ここは私たちの島、目本の島、日本の国土です。あなた方の国はアメリカではないか。自分の国があるなら帰りなさい。ここは狭い国です。あなた方は、こんなところまでこなくてもメシが食えるだろうが、私たちが土地を失うと生きていけないのだ。もしあなた方が食っていけないというのなら、喜んで土地を分けてあげましょう。私たちにはミサイルなんかいらない。二度と戦争はしたくない。
私たちのいうことをきけば、アメリカは永久に栄えるんだ。もしウソだと思うなら、もっと勉強しなさい。自分の国の歴史を勉強しなさい。自分の国と他の国と見さかいがつかないようではアメリカ人として恥ずかしいことではないか。
かつて日本を占領した司令官マッカサーは、日本人の精神年令は十二歳だといったが、今のあなた方は、私たちからくらべれば○歳だよ」と、アメリカ兵をさとし、堂々と教育をはじめたのです。米兵たちは、これになんの反論もできませんでした。
■身につけた二つの学習方法
このことだけでもわかるように、私たちの学習は二つの方法をとりていました。一つは、沖縄には昔から、儒教の影響が根深く残っていますが、この昔からのいいつたえの教えをつかっての説得です。例えば儒教のことばに「非理法権天」というのがあります。悪いことは良いことに負け、良いことでも法に負ける。その法も権力には負けるが、権力も天の教えにはかなわない。この天こそ私たち農民であり、私たちをうちまかすものはいないということです。
今一つは、ペトナム人民が、アメリカ兵から奪った兵器で自らを武装し、侵略者を打破っているように、私たちも、アメリカの歴史、独立戦争やリンカーソなどの教えを学び、アメリカの民主主義の伝統をアメリカ兵に教育してきました。
あるいはアメリカがハワイ島を植民地として奪いとった歴史を研究し、アメリカの土地とりあげのしかたを学びました。
そしてたたかい方としては、あくまで味方の中に敵をつくらないで統一し、団結すること、遂に敵の中に味方をつくっていくのです。ですから琉球政府や警察がきても、「お前たちは関係ない、よけいな手出しはしないで帰りなさい」といって帰してしまい、米軍当局とは徹底的にたたかいます。
今では、アメリカ兵の方で私たちの「話しあい」を恐れて逃げまわるしまつです。
■私は笑うことができる
私は、いま中央労働学院を卒業するにあたって、学習の大切さを骨のズイまで感じとっています。
私は今まで良心さえあれば、神の力でよくすることができると考えていました。しかし、この学校にきて、ヒューマニズムにも二つあること。資本家と労働者という二つの相対立する階級のあること。アメリカは帝国主義国であること。帝国主義の下では、労働者や農民は永久に自由になれないこと。労働者階級の立場に立ってはじめて社会を変え、アメリカ帝国主義や独占資本もうちたおすことができる。労働者階級とともにたちあがってはじめて、沖縄を真に解放することができるということを学びました。
また、私は若いときから、ときにはキューバや。ペルー、ハワイなどにもいき、学習と金をためるために苦しい労働をしてきましたが、その苦しみのなかで、笑うことを忘れた人間になっていました。しかし動物は泣くことはできても笑うことはできません。私は動物と同じ一生を歩んでいたことにきずきました。今、私は大いに笑うことができます。
『学習の友』一九六七年五月号より転載
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