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浪曲 『哀調馬八物語』浪曲家二葉百合子

2020年12月13日 12時49分39秒 | 白州町見て聞いて

浪曲 『哀調馬八物語』浪曲家二葉百合子

 これは韮崎市文化協会が、女流浪曲家二葉百合子に頼んで、昭和三十八年十月十一日、市制九週年記念祝賀行事の一つとして、口演して貰ったもので、浪曲の台本は房前友光という、その道の専門家が、平田作「馬八物語」を参考にして書いたものだから、内容に

大した変りはないが、出てくる人の名前が変っていることと、前者が、悲恋であるのに反して、こちらは、ハッピーエンドに終っている。なかなかの名調子で。

 さしのぼる朝日は山の端に出て、夕べの月は松のかげ…中略…

見わたすかぎり弊の、八ヶ岳と駒ヶ岳、山と山とに囲まれて、

水清らかな甲州の、北巨摩郡駒城在、無心に遊ぶ里の子の、

お国訛りのなつかしや 

とはじまって。

 「オーイ、みんな来い、よって来い。ヤイ馬八、お前は向え行け

お前えなんかと誰も遊ぶもんか、馬八の泣虫毛虫…」と、

ここで近所の悪童どもの、馬八いじめを演出している。

 馬八が泣く泣く家に帰って、祖父の清右衛門に、

 「お祖父、俺りゃ本当に親なしっ子け?」と、すがりついて泣く馬

八に、祖父の清右衛門は、

 「馬鹿こけ、親が無くて何で子供が出来る。お前が大きくなったら話してやろうと思ってたが、実はな、お前の親は立派な侍だ」

と云って、父親の黒田八右衛門が、清右衛門の家に来るまでの経過を、浪花節はこんなふうに語っている。

時は天正十年の呑まだ浅き如月の、戦国時代の名将と世に謳われた武田家も、時制あらず勝頼は、新府の城も緒と切れて天目山の朝露と、はかなく消えたある日暮、無惨な傷を全身に受けてのがれきて、雨戸を叩いた武士一人 

 その雨戸を抑いで、救けを乞うたのが黒田八右衛門だった。当時俺は娘の「おあき」と二人きりの暮しだったので、刀傷を負った武士など匿うことはできぬと言ったが、武田の武士というので断りきれずにおいてやった。

 八右衛門は、春の終りごろになると傷もなおって、再び立派な武士となって、「おあき」を迎えにくると云って、小刀を証拠として残して去った。その時、すでにおあきは八右衛門の子を宿していた。

月みちて「おあき」に男の子が生れた、それが馬八お前だ。だからお前は武田武士の血をうけついだ男の子だと、馬八を納得させた。

 おあきは馬八を生んで三日目に病気で死んだ。お乳欲しがる嬰児(みどりご)のお前を抱いて、俺あ泣くような毎日だったと。

 二葉百合子は、この泣き場をうまく演出して聴衆の涙を誘った。

  武田は滅びても、戦国時代のつねならば、再び立派な武士になって、

    いつかは必ず戻ろうと、心待ちする祖父と孫に、十幾年の歳月が流れ、

今現在の馬八は、韮崎通いの馬子衆だったと語って来て、

  オーヤレヨー 韮崎よいとこ どこの馬鹿

    西も川東も川の瀬にたつ

 

ここで馬八節を朗々とうたって、宿場の喝釆を博した。

 

馬八には、幼友達の「おきぬ」という庄屋の娘があって、成長するにつれて恋仲になり、末は夫婦と固い約束を交していたが、身分の違いから結ばれずにいた。

或日の暮れがた、馬八が韮崎からの帰り道を、おきぬは待っていて、どうしてもこの世で一緒になれないのなら、いっそ死んであの世で仲よく暮らしませうと、抱きあって大武川の淵に、あわや飛び込もうという矢先、一人の旅僧が現われて二人を抱きとめてしまった。

旅僧は、二人から色々の事情を聞いたうえ、庄屋を説得して夫婦になれるよう取図った。この旅僧こそなにあろう。実は馬八の父親である、黒田八右衛門の変りはてた姿であった。ここで、

 オーヤレヨ一馬八や馬鹿とおしゃれども  

馬八の唄きくやつはなお馬鹿し

と、馬八節が入って、

 「今は似合の夫婦雛、これも仏の導きか、かっては武田の忠臣で、その名も黒田八右衛門、姿は変る旅姿、同じ親子と知らず今は二人の生雛に、哀調おびた馬八の唄もろともに釜無の、川が伝える物語。川が伝える物語と」、

浪曲哀調馬八物語りは結んである。


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