- 『峡北新報』
最近、『峡北新報』に伝説として、また馬八物語が連載きれている。
それによると、天正年間の始め、武田家の家中に黒田八右衛門という人があった。この人が巨摩郡大坊村の代官として赴任してきた。
黒田代官は赴任後約一年足らずで、この在所を去ったが、この村の吉右衛門の娘お定に手をつけて妊娠きせてしまった。そして出た子が馬八であるとしてあるが、「田作馬八物語り」は武田浪人になっているが、ここでは黒田代官ということになっている。人物の名前が多少違っているだけで、内容はあまり変っていない。
地元の武川村や、白州町の人達の間では、黒田代官が生ませた子供であるという人が多く、八右衛門を、八左衛門とも云い、八左衛門の八と、駒ヶ岳の駒は馬を意味するので、馬八と名付けたとも云っている。
****年代の相違
これ等の馬八物語は、何れも年代が天正年間ということになっており、馬八は武田の家臣、或は代官、黒田八右衛門、又は八左衛門子供となっている。
伝説であり、民話であるから、あまり年代のことを、とやかく言ぅことは大人気ないが、天正年間と云えば、大半は武田勝頼時代であって、この時代は、韮崎から信州境迄、釜無川の右岸は武川衆と云う。一条忠頼からの郎党が割居していた処で。柳沢村には柳沢兵部函信俊(柳沢吉保祖父)が、山高村には山高越後守信之等が居を構えておったので、ここに武田が代官を赴任させるわけがない。
また、その時代、馬八が韮崎通いをしたというけれど、天正年間の韮崎は七里岩の鼻先で、釜無川と塩川の合流点であったらしい。
『韮崎町制六十年誌』によると、
「武田勝頼が新府城を営むにあたり、七里岩突端地新府に出丸を設け、新府城の防衛陣地として築城の縄張りに計画されたが、僅か三ケ月で亡びたので、その築城を見るに至らずして廃城となった。
当時の韮崎町は、恐らく氾濫の中に点在して居った一小にすぎなかったであろう」としてある。
韮崎が、甲州道中の宿駅となったのは、慶長年間の後期のことで文化文政の頃から繁栄がはじまり、最も賑いを極めたのは天保六年(一八三五)、富士川水運に舟山河岸が設けられてから、明治三十六年中央線開通までの間の事で、天正年間とでは約二百五十年くらい年代の相違がある。こう考えると、馬八は架空の人物であったかと云うことになる。
****馬八供養碑建立
甲府市中央一丁目、風月堂の溝口家の祖先は、代々山高村にあって、山高越後守信之を祖とする山高家の縁者でもあり、家老職をつとめた程の名家である。代々六兵衛を名乗っており、現在も山高に六兵衛屋敷の跡がある。
故溝口豊氏の話によると、何代か前の六兵衛義憐の時代に馬八を雇ったということである。義憐は、文久元年(一八六一)七月一日五十六才で死んでいるので、逆算すると文化二年頃の生れではないかと推定される。
昨年(昭和五四年)十二月十三日、NHKが放映した「白州町おらが村の馬八節」が縁になって、豊氏未亡人寿子刀自が、菩提寺の鳳凰山高竜寺の境内に、馬八供養之碑を建立することになった。
これは、寿子刀自の善寿の祝をかねて、馬八の供養をするためであって、撰文並に書は、高竜寺住職清水球道師によるものである。
****馬八供養之碑 碑文
馬八節の主人公馬八は、巨摩郡大坊村の生れで、見廻りに来た時の代官黒
田八右南門と、村娘お定との間に生れた子である。母は早世し、祖父庄右衛門に育てられ、長じて山高村の郷土溝口六兵衛政方の家に馬子として奉公した。天性美声であり、農作業中や、韮崎通いの途中でうたう歌声は、近郷近在の人にもてはやされた。それが馬八節の源流である。
馬八には、お政という恋人があったが、政敵の助定の嫉みの刃に倒された。
これを知ったお政も大武川の淵に、身を投げて死ぬという悲恋の結果となった。これは今を去る二百年以前の江戸時代の物語だが、往年の主家である溝口家の子孫、甲府風月堂の溝口寿子刀自が喜寿を記念して、馬八供養のためこの碑を建立した。
維時昭和五十五年庚申歳仲秋吉祥日
鳳凰山高竜禅寺 二十八世 守塔琢道撰並書
としてあるが、施主の都合で来春に建てることになった。
供養碑の中にある六兵衛政方は、義憐の子供であって、馬八と大体同じ年頃と考えられるから、政方かたに、馬子として奉公したと、清水球道師は語っていた。
馬八と、政方が同年輩だとすると、義憐が二十才前後で緯婚したと考えて、馬八の出生は文政の終りから、天保年間にかけてではないかと思う。すると馬八もその頃生まれたのではないかと推定される。
従って、馬八が韮崎へ馬を追って通ったという頃は、弘化から、嘉永、安政年間と考えてよいと。
その頃の韮崎は、
「韮崎の四ツ前ではあるまいし馬すぎる」と云はれたくらい、諸所から馬が出てきて繁栄を極めていた。馬すぎて、どうにもならないで、時には馬の交通整理に、ご陣屋から役人が出動したというくらいだから、その雑踏ぶりが察しられる。
その雑麟の中に、馬八も馬を追ってきていたのではないか、若しそうだとしたら韮崎の何処かに、また街道筋にも、彼を語る何かが残っていそうなものなのに、何も残っていないし、古老から何も語りつたえられてもいない。
僅か百二三十年そこそこの昔である、何かが残っていてもよさそうなものなのに不思議でならない。
こう考えると、馬八は矢張り伝説や物語りの中だけに生きていた人に思えて、実在の人物と判断するのも六ケ敷(むずかし)くなる。
参考資料 植松逸聖氏著『中央線』第19号 終わり
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