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白州人物史 古屋徳兵衛氏(東京松屋創始者 特売日の創始者)

2020年12月19日 07時28分16秒 | 白州町見て聞いて

白州人物史 古屋徳兵衛氏(東京松屋創始者 特売日の創始者)
 (「白州町誌」昭和61年)
白州町上教来石、古屋長吉の長男として嘉永二年四月十日に生まれ、幼名を徳太郎という。
東京松屋デパートの前身である呉服反物商鶴屋の創始者である。
氏は文久元年、十三歳で江戸に出て日本橋本石町一丁目にある豊島屋五兵衛という薪炭仲買人の家に身を寄せた。
時あたかも明治維新の大変革に遭遇し、主家が倒産したので郷里に帰る。その後家産所持品などを売却して金に代え、再び横浜に出て呉服の仲買商を始めた。
慶応四年二十歳の時江戸・横浜問を往復しながら横浜緑町に呉服商を開業した。
明治二年横浜の石川口に鶴屋呉服店を開業し徳兵衛と改名する。誠実と勤勉で商にあたったので店は大いに発展した。
明治二十三年、東京神田今川橋の松屋呉服店が経営不振になつているのを買収して立て直し、松屋と名のった。
明治三十六年代には横浜貿易銀行・横浜実業銀行などの取締役に耽任し、また東小呉服、反物協会頭取として繊物税問題で奔走するなど業界において大活躍した。
また氏は商道に徹し、華客であるとして客人を大切にしたり、店員を優遇し当時は年期奉公が普通であつたが給料を与えて、積み立てさせて株金として配当をつけてやるなど気を配り事業を拡大していったが、その陰には夫人満寿が和裁などを教えて店員教育に心がけたり、端切れ布の小売りや、それを利用した紐、袋もの、よだれ掛けを作って客に提供するなど、今日のバーゲンセールに相当する特売日の創始者として努力したことも松屋デパートの繁米につながっている。
一方氏は郷土愛に燃えており、鳳来小学校の子弟のために多額の金銭や物品など数十回にわたって寄付している。鳳来小学校跡地(現熊本ジユースエ場敷地内)にはその業績をたたえて顕徳碑が立てられて永くその功績を伝えている。明治四十四年七月六十二歳で残した。
 (「白州町誌」昭和61年)
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説.
古屋徳兵衛(3代) ふるや-とくべえ 
 1911-1992昭和時代の経営者。
明治44年1月1日生まれ。名古屋地裁の判事をへて,父の2代目徳兵衛の死去にともない,昭和13年家業の松屋呉服店(現松屋)社長となる。戦後,アメリカ軍に接収されていた銀座本店,横浜店の再開復興につとめる。51年横浜店を売却し,伊勢丹から山中鏆(かん)を副社長にむかえ,経営を立て直した。47年日本百貨店協会会長。平成4年11月7日死去。81歳。神奈川県出身。東北帝大卒。幼名は祐次郎。
松屋 (百貨店) – Wikipedia
概要
1869年に横浜で創業された呉服店、鶴屋の流れを汲む百貨店。拡大路線をひた走ったが、1970年代のオイルショック以降に経営難になり、銀座店と浅草店の2極体制になる。経営再建には東武百貨店と伊勢丹が関わった。仕入れ関係は、松屋と伊勢丹主導で結成した全日本デパートメントストアーズ開発機構(ADO)に加盟し現在に至る。
高級ブランド、ラグジュアリーファッションやアクセサリー、豪華絢爛な店舗の内・外装で、根強い女性ファンが多い。銀座を代表する百貨店である。
伊勢丹との提携伊勢丹(現・三越伊勢丹)とは1971年の「業務提携に関する覚書」、「商品券の相互利用に関する契約書」の締結や、1973年のADOの設立などで幅広い提携強化を図ってきた。2002年11月には更なる提携強化を目指して伊勢丹の株式を買い増し、副社長も同社から迎えた[1]。しかし、2007年に三越と伊勢丹の経営統合が発表されると、両社間にすきま風が吹き始める。伊勢丹が統合する三越の銀座店は、松屋の競合相手のためである。2007年秋のADO会議において、同機構の総合幹事店である松屋は欠席した。
伊勢丹は今も大株主に名を連ねている。
沿革
1869年12月5日(明治2年11月3日)- 初代古屋徳兵衛により横浜石川町にて「鶴屋呉服店」を創業したのが始まり。
1899年(明治32年) - 東京神田今川橋の松屋呉服店(1776年(安永5年)創業)を買収し、東京へ進出。当時は「松屋呉服店」「鶴屋呉服店」の屋号を並行して使用していた。
1978年(昭和53年)まで使用されていた紋章は「松」と「鶴」を形取っていた。
1903年(明治36年) - 合名会社松屋呉服店となる。
1908年(明治41年) - 呉服以外に雑貨、洋品の販売を始め、化粧品、帽子の一部を海外より直接輸入して販売するようになり発展した。
その後、銀座、新宿、浅草、横浜関内の吉田橋際や伊勢佐木町に店舗を構えるなど、事業を拡張。
1970年代 - 70年代前半のオイルショック後、経営が傾き、現行の東京銀座と浅草の2店舗体制となる。再建の過程で東武百貨店や伊勢丹との関係を強化。

店舗 
東武鉄道浅草駅ビルにある松屋浅草店日本国内店舗銀座本店
1925年(大正14年)5月1日に開店。翌年に本店となり、今に続く。地下1階、地上8階の豪華な建造物であったが、太平洋戦争後の一時期は、連合軍のPXとして接収されていた。昭和20年代後半に接収が解除された後は、豪華絢爛であった外装、内装が改装によって廃された。
開店当初は贅を尽くした内装で耳目を集め、圧巻は正面玄関入ってすぐの中央ホールであった。天井のステンドグラスはローザリーの華やかなもので、ホールの内側の柱はモザイク模様を取り付け、1階のホールの四方はサラセン風の漆喰模様で飾られていた。7階のホール周りはサラセン風の柱廊となっていた。現在でも残っているが、エスカレータ脇の鉄板が張られている吹き抜けは、当時、地上7階まで吹き抜けであった中央ホールの名残でありファッションショーも開催されていた。1964年(昭和39年)、東京オリンピックの開催に合わせて大改装を行い、現在の形となり、また、現在の外装は4代目となる。あまりに大幅な改装が行われているため、建築当時の面影は皆無に等しい。竣工当時のエレベーターはオーチス製。当初は客用正面に6台、ホール周りに2台、他に社員用、荷物用、料理用などがあった。それでもビルの裏へ回ると、いくつかの窓が見られる。

銀座松屋と鶴屋呉服店
銀座松屋の創業時代のエピソードをネットで調べてみました。
松屋の前身は鶴屋呉服店という名前でしたが、松屋呉服店を買収して現在の松屋に至っています。さて、「買収」という言葉を聞くとどんなイメージですか?
マスコミで話題になったニュースからですと、お金の力で他の会社を乗っ取るような、ダーティーなイメージが強いようです。しかし、企業の生存競争と事業拡大のために「買収」は盛んに行なわれています。
松屋が鶴屋呉服店に買収されるようになったエピソードを紹介します。
 『横浜の鶴屋呉服店は明治2年の創業と日は浅いが、横浜が新興都市として成長するのに応じて大きくなった。明治22年のこと、取引先の塚本商店から東京・神田今川橋の松屋という呉服店を買わないかと持ち込まれた。問屋としては売掛債権の確保のためだろう。
 鶴屋の古屋徳兵衛は「他人の不幸につけこむようなことはしたくない」と、いったんは断ったが、東京進出というのは魅力がある。さらに詳しく聞けば松屋は老舗ではあるが、神田の大火災で大きな被害を受け、跡継ぎの長男が稼業を顧みないなどで、適当な買い手を探していることがわかった。
そこで古屋は言い値の 13,000円で、従業員18名もそのまま引き取った。当初80,000円程度の売上げが、30年には20万円に伸びている。後に創業の横浜の鶴屋の名を松屋と改名して今日に至っている。最近の銀行が3階建ての名称にしたりしているのに比べると、さっぱりしたものである。』
「鶴亭雑話-M&Aへの備え」より
松屋は鶴屋に買収されることによって経営危機を助けられたのですね。さらに、松屋とかかわりのある取引先や松屋の従業員にとっても助けになったのでした。
「他人の不幸に付けこむことはしたくない」という言葉は、後に銀座の松屋として本店を銀座に出すだけの人徳を感じますね。


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