寒さのなか、春を感じるうれしさ
東京新聞、3月1日の「時代を読む」立教大学大学院教授で哲学者の内山節氏のコラム、良い内容でした。
私は、このコラムで内山節という方を初めて知りましたが、内山氏の書かれることはとても共感でき、励まされ、勉強になり、これだけでも東京新聞を読む価値があるなと思います。(もちろん、東京新聞の価値は、このコラムだけではありませんが)
「自己主張だけの農業政策」内山節
寒さの中にも、春の日差しを感じるようになってきた。春は確実に近づいてきているのだろう。
春が訪れると、かつて人々は「春が還ってきた」と表現した。1年前に私たちの前から去っていった春が、再び還ってきたのである。
4月に入ると、私の暮らす群馬県上野村では集落ごとに春祭りが始まる。それは還ってきた春への感謝の祭りであり、今年の豊作を自然にお願いする祭りでもある。
春は人間の力ではつくりだしえないものだしえないものだ。大いなる自然も人間にはつくれない。人はただ感謝し、自然の無事を願うことしかできない。春や自然が「主」であり、人間は知恵を使って従う。人間が万物の中心ではない。だから自然という他者にすがり、その無事を願い、支えられて生きるしかない。環境問題とは人間がこの原点を再確認する営みでもある。
そして自然という他者に大いなる力を感じていた間は、人間たちは、自然の声を聴き、その動きを読み取ろうとしたのと同じように、さまざまな他者の声に耳を傾け、他者を知ろうと努力しながら、自分は何をしたらよいのかと考えてきた。他者があっての自己だったのである。この関係を失ったとき、人間は傲慢になった。自分の主張を押し通そうとするばかりの動物に、成り下がったのである。そして、残念なことに、それが現代世界でもある。そしてそういう時代だからこそ、自然が「主」であり、自然という他者の声を読み取りながら生きようとした日本の伝統的な生命観に関心をもつ人々が、国境を超えてふえてきている。それが現代の一面でもある。
そういえば現在の日本の総理大臣が、自然について語るのを聞いた記憶がない。たとえばいまの政権が語る農業とは、農業の生産力や競争力のことだけで、農業が自然と人間の共同作業であるという視点は持ち合わせないようだ。農業、農村を守ることが、自然を守ることにつながっているという発想はこの政権にはないらしい。
自然と人間の世界に放射能がどんな影響を与えていくのかということに思いを寄せることもなく、オリンピックを招致するために、原発事故による放射性物質は完全に管理されていると言いきることに、ためらいがないのがいまの総理大臣である。
一番の問題は、他者への思いが抜けていることである。かつて私たちは「お百姓さんのおかげでご飯が食べられる」と教わった。自然に感謝しながら生きたように、日本の農業を支え続けてくれた農民に感謝しながら食卓を囲んだ。そういう思いを欠いた自己主張だけの農業政策は殺伐とした社会をつくりだすだけだ。
いまの日本は他者のことを考えない、自分の意思だけで生きていこうとする社会になってしまっている。いわば、自分のやりたいことをやるというだけの社会だ。だから劣化した社会を感じさせるような事件も起きるし、雇用の面では格差社会を平然と放置している。自分のやりたいことをやるという雰囲気が政治から社会までを覆い、それが強さだというような社会ができてしまったのである。そういう時代の奥底に、自然という他者の声を読み取ろうしなくなった時代があるとするなら、私たちはいまこそ大いなる自然と人間の関係を語らなければならないはずである。
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たしかに、安倍総理には、自然に対する畏敬の念が一切、感じられない。1000年に一度の、国家的危機であった大震災も、
デマをばらまき、政局に利用しただけ。
今こそ、列島の地面の下で起きている変化を、危機感を持って受け止められる政治家でないと、この国の舵取りを誤るだろう。
愛のない為政者に加え、自己主張だけで、他者をないがしろにする人々が、社会でも、ことさら目立っています。
しかしだからこそ、その反動なのか、内山氏の書かれた「
日本の伝統的な生命観に関心をもつ人々が国境を超えてふえてきている」という一行。
長いコラムのたった一行ではありますが、私はそこに、希望を見出した思いです。