今年の緑のカーテン
あまりの猛暑に、ゴーヤも、成長をたじろいだのか、
今頃になって、やっとあちこち、実がなりだしました。
自分自身の心に素直になろうとすればするほど、オリンピックに少しも心が弾まない。
でも、もしかしたら、この閉塞感の時代にあって今の若い人たちには、こういう夢っぽいものが必要なのだろうか。政治家には、希望を語ってもらいたいとは思ってはいたが・・。
でも今の自民党のやり方は、相変わらず経済中心、成長こそが正しい、という従来型の視点からまったく抜け切れていない。
ゴミ問題、資源問題、数々の環境汚染、なにもかも、お金に変えて消費するという従来の経済中心の資本主義を続けていれば、2030年には地球が二つ必要であるとの計算もでている。
どこに地球がもう一つありますか?
そういう思いが、どうしたって根っこにあるので、アスリートの方たちには、申し訳ないと思うんだけど、原発事故を収束できないまま、再稼働だの輸出だの言い続ける現政権や「オリンピック開催を勝ち取った快挙」的な報道に、お腹にたまった違和感が、膨らみすぎてドヨンとした気分になってしまうのだ。
もうオリンピックオリンピック言うなっ!・・・って、テレビに向かって言いつつ、自分も書いているが。
今、最も着目すべきは、脱成長という視点ではないのか。
(セルジュ・ラトウーシュの問題提起 ・菅直人ブログ今日の一言より)
従来的な意味での「経済成長」が人間を幸福にするかという根源的問題。ブラック企業は企業経営としては「成功」していても、過酷な労働を人間に強い、人間を幸せにはしない。原発も究極の自然破壊をもたらし、人間を幸福にしない。
やっぱり、菅さんは、さらりと言ってほしいことを言ってくれる。だから好きさ。
こんな本を手に入れました。帯に「発売1ヶ月で10万部突破」と書いてあって、それが嬉しくて。
だって、少なくとも、こういう発想に10万人以上の人が興味を持ったということだもの。なんだかほっとする。
個人的にも参考になったり、真似できるノウハウもある。
だれでもが居場所があり、必要とされ、お金の移動ではなく、助け合いの移動がある、地域と里山の発想。
日本の資源は、今まで忘れられ、捨て置かれた里山にあったのですね。
オリンピックのような一瞬のドーパミンの発露は、その時は快楽をもたらすけど、祭りが終われば、それでおしまい。
持続可能な世界への希望は、きっと、こちらにある。
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枝野幸男氏の脱近代化と朝日新聞の書評
これからもひたすら
盛り上げようとしますでしょ。
でも、ちょっとポジティブになって
スポーツは祭典のためにあるのではない。
ほんとに。
だからこそ
スポーツの祭典から
平和の祭典に、しちゃいたい。
日本から。日本だから。日本人なら。
流されずに、どうやって?
というのが
今思いを巡らせていることです。
7年前というと、ちょうどこのブログをスタートさせたのが
2006年ですので、あんがいあっという間なんだなと思います。
ロンドン大会は、運営の仕方がギラギラしてなくて、感じの良い大会だったなと思ったのですが、
直前まであんまり盛り上がらなくて、始まってから、盛り上がったといいます。
私もロンドンっ子と同じ、盛り上がるのは始まってからにします(笑)
>平和の祭典に、しちゃいたい。
ですよね。
よくある自民党や維新の会の議員のような挑発的な発言は、ホスト国としてNGでしょうから、歯止めにはなりそうですね。
ミキコさんも注文されていたのですね!
とても共感する部分の多い内容でしたよ。
とりあえず、毎年庭の木の剪定したあとの枝の処分が問題だったのですが、ここで紹介されていたエコストーブにビビビっときました(笑)
ささやなかながら、自分の家でも一つずつ里山資本主義を取り入れてゆきたいなと思います。
1964年の時の東京オリンピックは日本にとって必要だったと思うんです。丁度、日本が伸びに伸びていた時代ですし。
カラーテレビ、冷蔵庫、エアコン、車、新築・・・欲しいと思っていたものをみんな働いて手に入れて、新しい生活のアイテムを獲得することを幸せに思っていた時代ですから。
64年の東京オリンピックは世界大戦で敗戦国となった日本が見事立直り、復興を果たしたその証だったのでしょう。
ただ、一若者として思うのは、便利なものに囲まれ、都会に居れて、一昔前とは比べ物にならない程の刺激と情報を受ける生活は・・必ずしも『幸せ』と結びつかなず、逆になぜか心が疲れてしまうものではないかと、そう感じています。
オリンピック開催という『刺激』にも、喜べず、どこか疲れたような視線を向けてしまうのは、僕達があまりに情報過多の社会で絶え間なく外部から降り注ぐ「刺激」に心底うんざりしているからかもしれません。
ある生物学者さんが仰っていましたが、人間という動物にとって今の世のかなのスピードは過剰に早すぎるらしいですね。
便利さ、快適さを求めてどんどん世界のスピードを上げた結果、社会や文明の要求してくる『速度』に人間自身が疲れストレスをためるようになってしまうのは皮肉なものです。
人間に今必要なのは、一度『立ち止まる』ことを実践する勇気なのかもしれません。
そのために、スピリチュアル、アロマ、森林浴といった一呼吸置くための余裕はこれから重要になってくるのではないでしょうか。
長文失礼しました。
何か自分が書いているのかと思うほど、頷きながら読ませていただきました。
おっしゃるように、64年のオリンピックと7年後のオリンピックは、時代背景や人々の心持ちが、違うものだと思います。
ある程度以上の年齢の方たちには、オリンピックをきっかけにして、高度経済成長へ向かっていった、成功体験の思い出があり、「夢よ、もう一度」という期待が高まっているのだと思いますが・・・
>一若者として思うのは、便利なものに囲まれ、都会に居れて、一昔前とは比べ物にならない程の刺激と情報を受ける生活は・・必ずしも『幸せ』と結びつかなず、逆になぜか心が疲れてしまうものではないかと
>オリンピック開催という『刺激』にも、喜べず、どこか疲れたような視線を向けてしまうのは、僕達があまりに情報過多の社会で絶え間なく外部から降り注ぐ「刺激」に心底うんざりしている
すごくよくわかります。
今の若者は、昔の若者より、疲れていると思います。
街中にあふれる目に見えない電磁波、これは脳内の幸福物質セロトニンの分泌を阻害することがわかっていますが、いまだ何の手も打てずにいます。
それ以外の化学薬品、化学物質、不必要で不自然な物に囲まれて、現代人は心身ともに疲れやすくなっています。
メイプルさんが言われるように、情報は、山ほどあるけれど、心を弱らせるような、虚偽の情報や、恐れ不安を増長させるようなものが、大半で。
それらに触れていればいるほど、疲れはたまってゆきます。
自民党や、経済界が望むような日本は、若者をどんどん疲弊させてゆくでしょう。
このままゆけば、いずれ体の限界値を超えてしまうかも。
そうなる前に、気づいた人から、変わってゆく。
自分が心と体が、喜んでいると感じる選択が、もうひとつ、そこにあるはずだと思います。