よりみち散歩。

日々の暮らしのなかで心に浮かぶよしなしごとを、こじんまりとつぶやいています。お役立ち情報はありません。

ブログ記事の断捨離で自分と向き合う。

2017年01月03日 | 断捨離
10月から2か月ほどブログを休止状態にした。

その時、すべての記事を下書き――つまり非表示にした。

最近、また駄文書きを始めるに当たり、下記の基準で選別を行った。


<再公開の基準>
今も興味があることや、アクセスが多い記事は公開。
ネガティブな気持ちで書いたものは表示しない。

結果、美術、旅行、神社仏閣、断捨離、書籍ネタ等が残った感がある。
再公開率、約2割。


こういう棚卸しも面白い。

自分のこころを見つめ直すことができる。

いつもプラス思考でいられるはずもなく、「王様の耳はロバの耳」的な場所でもあるので、これからも毒を吐くことはあるだろう。

そのとき、その時の気分を大事に受け止めていこうと思う。



久しぶりにブログを書き始めた時、文章の書き方を忘れている自分に気づき、慄然とした。

相田みつをさんは「筆を1日取らないと、10日感覚が戻らない」と言ったそうだが、やはり怠けるとあっという間に感覚が鈍るものだ。

読み直して、「てにをは」がおかしいと思ったりもするが、直さないでおく。

書き続けていくうちに、感覚は次第に戻ってくるだろう。継続は力なり。



明日は、仕事始めだ。

部屋やブログの断捨離も大事だが、心を洗うことはもっと重要である。

休暇中は心を調律するため、好きな本を読み漁った。


今日は星野富弘さんの詩画集をすべて読み返してみた。

少しは心が洗われただろうか。



なお、amazonで検索したら新刊が出ていたことに気づき、慌てて購入。



本日入荷分。


『たった一度の人生だから』から、特に心に残った箇所を書き留めておこうと思う。





前向きに何かを期待する気持ちがあるのなら、

心が健康だということです。

病んでいても、健康感を持つことがとても大切です。

人は、病むことや悩むことによって

感性が磨かれていきます。(日野原重明さん)



私がどんなに絶望しようが、

どんなに生きたくないと思おうが、

いのちというものが

一生懸命生きようとしている。(星野富弘さん)
                 


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神様・仏様に近づく

2017年01月03日 | 日記
本日、高幡不動尊に行くつもりで早起きしたのだが、朝、鏡を見てびっくり!

右の白目が真っ赤になっている!!
痛みはないが、他者から見て痛々しい。


…これは「三が日は混雑していて疲れるだろうから、日を改めておいで」というメッセージだろう。

一日に高幡へ参拝した方のブログを拝見したら、すごい行列で参拝に2時間近く要した、と書かれていたから。
なんて優しいお不動様だ。人混み嫌いの私にわかりやすい情報を与え、更にダメ押しで白目充血の症状までくださるとは!

お不動様のメッセージをありがたく心に刻み、繰り返し真言を唱えてお不動様に心を近づけるようにする。

混雑を避け、予定どおり初不動の1月28日にご挨拶に伺うとしよう。


昨日、高岩寺(とげぬき地蔵)に参拝したので「神仏に挨拶していない!」と慌てることもない。

過去に大怪我をした年が2回ある。
いずれも神社仏閣参りを怠ったときだったから、以来どんなことがあっても参拝は欠かさない。

別に一日参拝に拘っていない。
「元日でなければいや」という方はそうすればいい。

「混雑を避けた日にゆっくり神様・仏様と対話したい」という私は、少し日をずらす。
並ぶのも疲れるし、後ろで待っている人に気遣って早々に祈りを切り上げるのも消化不良なので、なるべく空いている日を選ぶ。



元日は「相田みつを作品集」を読み返し、2日にみつを美術館に足を運ぶ。

作品に感動し、福袋を購入。断捨離人の私にしては、極めて珍しい行動である!


福袋(2000円)の中身


さっそく部屋に飾ってみる。


やはり相田みつをさんの言葉が大好き。


この年末年始は「こころしずか」に過ごしている。
テレビは一切つけず、好きな本や好きな場所などを選択している。


                        


スペイン語の「走れメロス」の翻訳で興味深いことを知った。

原文:待ってくれ、ゼウスよ。
翻訳:!Oh,Zeus!!Espera!

スペイン語にはくだけた表現と改まった表現がある。
「待つ」の原型esperarは、espepa(待って)とespere(待ってください)の二通りの表現があるが、神様に対してはくだけたほうを用いる。

少し意外な気がしたが「神様は身内なので、よそよそしく接する対象ではない」という想いが根底にあるのだそうだ。

よく考えると、私も普段から神仏は畏敬の対象というよりも、親のような親しみをもって接しているので、非常に腑に落ちる話である。


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