森は、古くから風景画の主題となってきた
漢字に如実に表されるように、森は木立や林でなく、視野いっぱいに
木々が立ち並んで、空間が閉ざされるような風景を形づくる
落葉樹の雑木林が殆どの日本では、木々をそのように描いた絵は
あまり見当たらないが、霧に巻かれた松林を間近から眺めた、
長谷川等伯 『松林図屏風』 (16世紀末、東京国立博物館) は、
森を内側から描いたイメージに近いかもしれない
間近な木々を見上げながら、閉ざされた空間の中で行きあぐねる、
という旅人に身を変じた、見る者の胸を過る寄る辺なさは、ここでは
太古の不安の明滅する、胎動にも似た淡い光を含んでいるようにも思われる
同じ頃、ドナウ派が描いていたドイツの黒い森は、森が下草や灌木の茂みや
樹木とその梢を這う蔦や苔、幾重にも重なり合い、絡まり合った木の葉の
穹窿から成り立っていることを、改めて教えてくれる
深い森では、立ち並ぶ木々の葉叢は、一つの大きな天蓋となって空を覆い、
下枝の落ちた幹の隙間から、木洩れ日や西日が差し込んで、
荘厳な柱廊のような光景が形づくられることもある
アルブレヒト・アルトドルファー 『聖ゲオルギウスのいる落葉樹の森』 Laubwald mit dem Heiligen Georg
(1510年 ミュンヘン、アルトピナコテーク) では、森は仄暗い光の脈打つ、
繊毛に覆われた胎内のような小部屋を形づくっている
驚いている馬のほうへ首を廻らす龍と、槍を脇に垂らしたまま見下ろす
聖人の、双方のあまりに小さく、ぼんやりした様子から、両者は
淡い光の中で暫し見つめあった後、伝説のようには闘うことなく、
それぞれの道を進んで森の両端に出る、という不思議な結末も思い浮かんでくる
ジョン・クロウリー 『ナイチンゲールは夜に歌う』
(浅倉久志 訳 早川書房) NOVERTY (1989) 所収 『時の偉業』 には、
人々の全ての願望の果てにある、最後の変化を済ませ、もはや何一つ
変化するものが無くなった世界として、次のような風景が記されている
けさも海中の森の夢から目覚めた ―― 人びともなく、事件もなく、
ほかのどんなものもない夢。そこにあるのは、青白い葉むらの塊を
どこまでもひろげた巨大な模樹石と、潮流のない海だけで、その海は
明るく日のさす水面からまったく光の届かない海底へとしだいに暗さを
ましている。そこには魚の群れ、それとも葉むらに棲む鳥の群れが
いるらしく、ときたまなにかに驚いてかすかな騒ぎが起こる。
それ以外はまったくの静寂。
このような光景は、言葉でしか描けないものなのかもしれず、それでも
この森を夢に見てみたいと思い、もしも本当に見てしまったら、
次に目を開くときには、その森の一枚の葉になっているに違いない、という気もする
視線の風にそよぎ、水底より文字の音色を空へ送る、言霊、かぎろひ、言の葉となって
漢字に如実に表されるように、森は木立や林でなく、視野いっぱいに
木々が立ち並んで、空間が閉ざされるような風景を形づくる
落葉樹の雑木林が殆どの日本では、木々をそのように描いた絵は
あまり見当たらないが、霧に巻かれた松林を間近から眺めた、
長谷川等伯 『松林図屏風』 (16世紀末、東京国立博物館) は、
森を内側から描いたイメージに近いかもしれない
間近な木々を見上げながら、閉ざされた空間の中で行きあぐねる、
という旅人に身を変じた、見る者の胸を過る寄る辺なさは、ここでは
太古の不安の明滅する、胎動にも似た淡い光を含んでいるようにも思われる
同じ頃、ドナウ派が描いていたドイツの黒い森は、森が下草や灌木の茂みや
樹木とその梢を這う蔦や苔、幾重にも重なり合い、絡まり合った木の葉の
穹窿から成り立っていることを、改めて教えてくれる
深い森では、立ち並ぶ木々の葉叢は、一つの大きな天蓋となって空を覆い、
下枝の落ちた幹の隙間から、木洩れ日や西日が差し込んで、
荘厳な柱廊のような光景が形づくられることもある
アルブレヒト・アルトドルファー 『聖ゲオルギウスのいる落葉樹の森』 Laubwald mit dem Heiligen Georg
(1510年 ミュンヘン、アルトピナコテーク) では、森は仄暗い光の脈打つ、
繊毛に覆われた胎内のような小部屋を形づくっている
驚いている馬のほうへ首を廻らす龍と、槍を脇に垂らしたまま見下ろす
聖人の、双方のあまりに小さく、ぼんやりした様子から、両者は
淡い光の中で暫し見つめあった後、伝説のようには闘うことなく、
それぞれの道を進んで森の両端に出る、という不思議な結末も思い浮かんでくる
ジョン・クロウリー 『ナイチンゲールは夜に歌う』
(浅倉久志 訳 早川書房) NOVERTY (1989) 所収 『時の偉業』 には、
人々の全ての願望の果てにある、最後の変化を済ませ、もはや何一つ
変化するものが無くなった世界として、次のような風景が記されている
けさも海中の森の夢から目覚めた ―― 人びともなく、事件もなく、
ほかのどんなものもない夢。そこにあるのは、青白い葉むらの塊を
どこまでもひろげた巨大な模樹石と、潮流のない海だけで、その海は
明るく日のさす水面からまったく光の届かない海底へとしだいに暗さを
ましている。そこには魚の群れ、それとも葉むらに棲む鳥の群れが
いるらしく、ときたまなにかに驚いてかすかな騒ぎが起こる。
それ以外はまったくの静寂。
このような光景は、言葉でしか描けないものなのかもしれず、それでも
この森を夢に見てみたいと思い、もしも本当に見てしまったら、
次に目を開くときには、その森の一枚の葉になっているに違いない、という気もする
視線の風にそよぎ、水底より文字の音色を空へ送る、言霊、かぎろひ、言の葉となって
gooの方でも書きましたが
hazarさんの文章は、あまりに豊穣ですので、なかなかコメントし辛いです。
しかし、そうも言ってられませんので
部分的にコメントさせて頂きます。
森について思い出すことがあります。
ひょっとすると、gooで他に回答に使った話ですので
ご覧になったことがあるかもしれません。
以前、近江八幡の小高い丘へ
バード・ウォッチングに行きました。
登り始めの民家で、トマトを貰った時
以外は人と全く話をしない日でした。
そして、丘の頂上付近の林で休憩していると
あの蓬莱のイラストに描いたように
アマツバメが空高く飛んでいました。
それと、近くの地面にはホタルブクロが咲き
音と言えば、木と木が擦れ合う微かな音だけでした。
まぁ、自然の中を歩いていると
しょっちゅう、そういう感覚に襲われますが
あの時は、思う存分、林に包まれる快感を味わいました。
hazarさんらしい表現
「森の一枚の葉になる」
良く分かります(笑)
ではまた(笑)
いつもながら淡々と綴られる、自然の懐深く抱かれた
貴重なご経験の数々は、いつ幾度伺いましても、
新しく、また懐かしく、類稀な風景を心の裡に、
そして眼前にありありと、繰り広げてくださいます。
足下のホタルブクロと頭上のアマツバメの響き合う
人けない林の静けさは格別ですが、魚が遠く
海で跳ねるのをご覧になり、何だかんだと言っても
太陽が一番と思われつつ、ご帰宅後、辞書で
是認と瞥見を調べられた処、正にそのご経験が
文字となって眼前に現れた、というお話も幾度となく
想い起され、文字が誕生し顕現する瞬間に立ち合う
ような荘厳な光景を垣間見させていただいて居ります。
こちらの二つの絵画は、森の最も根源的な二つの顔を
捉えていると思われる、大好きな作品ですが、寸法が
全く異なり、その為、大きいほうが小さく、小さいほうが
大きく、再現されており、それはそれで面白いのですが、
記しておくべきだったかと思われました。
長谷川 等伯 《松林図屏風》 は、
紙本墨画、六曲一双の屏風画、
各 縦 156.8 cm 横 356.0 cm (本紙部分のみ)
Albrecht Altdorfer "Laubwald mit dem Heiligen Georg" は、
シナノキの板に載せられた羊皮紙に油彩、
28 cm × 22 cm
ということで、此方に詳しく解説されています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9E%97%E5%9B%B3%E5%B1%8F%E9%A2%A8
http://de.wikipedia.org/wiki/Laubwald_mit_dem_Heiligen_Georg
長谷川等伯の屏風絵は、実際に、W字形にやや折って
立てられたものを拝見すると、松が奥へ手前へ
霧が渦巻く中を現れては消え、歩みを進め視線を投ずる
度に、異なる表情を見せてくれるのは、日本の伝統
文化の為し遂げた奇蹟の一つと思われ、根津美術館
の尾形光琳の燕子花図屏風で、満開の花が黄金の
風と漣に揺らめき香るのと同様、古今東西、類稀なる
絵画の在り方かと思われ、これを拝見する幸運に
恵まれました時には、ガラス越しであろうと人ごみの
中であろうと、たちどころに全存在を鷲掴みにされ、
自然の静寂の薫香と鼓動の中に取り込まれてしまう
ような気が致します。
一方、アルトドルファーの油彩は、誕生したばかりの
この技法本来の透き通るような薄塗りで、たった今
描かれたばかりのような艶やかさを湛え、この画面の
ものよりも僅かに大きい、小さな世界ですが、木の葉が
頭上遙かに重なり合い、傾き始めた光を湛えて金色に
耀き、また翳ってゆく様は、透明な一刷け一刷けが
本当に外光を取り込み、含み且つ反射している為に、
全光で撮影した画像では、木の葉の描写の全てが
ぎらついてしまって見づらいものが多く、実物を薄暗い
自然光の照明の中で、美術館で拝見した時は、
小さい中に、甲冑と、白馬の冷や汗や白目のような
ものが微かに煌いていて、あっと驚いたものでした。
その他、智積院の障壁画は、等伯を初めて、そして
幾度も訪れて拝見したもので、早世された息子さんの
手になる桜の図も素晴らしく、後に下記等、興味深く
参照させていただきましたことも想い出されました。
http://www.kyotodeasobo.com/art/pickup/tohaku/04.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%BA%E7%A9%8D%E9%99%A2
http://www.chisan.or.jp/tohaku/store_work.html
http://www.nezu-muse.or.jp/jp/collection/detail.php?id=10301
承前と致しました次の文などもそうなのですが、
慣れないもので、後から殆ど全面的に書き直したり
書き加えたりする部分も多々あるかと存じますので、
たいへんご面倒とは存じますが、どうかまた、お越し
くださいますよう、心からお待ち申し上げて居ります。
どうもありがとうございました。