ポール・ギャリコに「猫語の教科書」という微笑ましい本がある。一応小説だろう。
物語は「編集者のまえがき」から始まっている。友人が「私」ポール・ギャリコに、タイプ打ちされた原稿の束を持ち込んできた。
彼は大手の教科書会社の編集者であった。ある早朝、彼の家の玄関のベルが鳴った。出てみると誰もいない。ほんの数秒でドアを開けたのに、全く人の姿も気配もなかった。しかし靴拭きの上にタイプ打ちした原稿の分厚い束が置いてあった。
パラパラとめくると、アルファベットや記号の、わけの分からない暗号の羅列だった。彼は戦時中に暗号解読に携わっていたギャリコの元にこれを持ってきた。それはこれまで見たどんな暗号とも異なっていた。
やがて「私」はこの暗号の束の解読法を見出した。これは暗号ではない。例えばタイプのキーのaを打とうとしてその周りのqやwやsに触れてしまったのではないか。例えば動物がその前脚でキーを打ったとしたらどうだろう。そうして「私」は解読法を見出した。するとこう読めた。
猫語の教科書
子猫、のら猫、捨て猫たちに覚えてほしいこと
××××著
「まだほんの子猫のとき、母を亡くすという不幸にあって、私は生後六週間で、この世にたったひとり放り出されてしまいました。…」
この「教科書」の著者はどうやら猫らしい。そしてどうやら牝猫が書いたものらしい。その猫は子猫のときに交通事故で母猫を亡くしたのだ。しかし、まだほんの子猫の時に母猫が教えてくれたことを思い出し、反芻しながら、たくましく、考えるだけのことを考えて、なんとか人間の家に入り込む作戦を立てたのだ。
そしてこの猫はまんまと人間の家に住むことに成功し、作戦通りその家のご夫婦を虜にし、今は溺愛されながら幸せに暮らし、夫妻や家をうまく支配しているようなのだ。
やがてその家の主人が使っているタイプライターに興味を持ち、使用法を覚えたらしい。彼女は主人夫妻がいないときを見計らい、タイプライターを打ってみた。やがて彼女は、自分と同じように親を亡くしたり、はぐれたりした子猫たちのために、「猫語」で本を書いたのだ。
「第1章 人間の家をのっとる方法」「第2章 人間ってどういう生き物?」「第3章 猫の持ち物、猫の居場所」「第4章 獣医にかかるとき」「第5章 おいしいものを食べるには」「第6章 食卓でのおすそわけ」「第7章 魅惑の表情をつくる」…
「ドアをどうする」「旅行におともするコツ」「母になるということ」「じょうずな話し方」「猫にとっての正しいマナー」「別宅を持ってしまったら」「これはしちゃダメ」「じゃまする楽しみ」「子猫のしつけと子猫の自立」…
どうやって人間をめろめろにするか等、自らの体験をもとに書かれ、子猫たちはこれを学び、人間に切ない可憐な声で鳴き、甘え、人間の足許にすりすりし、腕の中に抱かれ、頭を相手の胸にすりすりし、手を結んで開いて結んで開いて、くいくい押して…
こうして猫に無関心な人間をも籠絡するのである。
ポール・ギャリコは子猫のために書かれた「猫語の教科書」を完全に解読に成功したらしいのである。しかしこれは、猫好きのために書かれた「教科書」であろう。猫たちの作戦を知りながら、彼らの魅力の虜となって、やがて家を我が物顔に支配され、それをも楽しむ猫馬鹿な人間たちのための、思わず微笑む、楽しい教科書であろう。