芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

志士と経済

2016年03月26日 | エッセイ
                              

 古い文庫本でも読み直そうと、積み重なった上のほうから取り上げたのが服部之総の「黒船前後・志士と経済」であった。三十年ほど前に読んだはずだが、その内容を完全に失念しているので、初めて手にするに等しい。
「志士と経済」の中に「讃岐琴平の日柳燕石(これは思想家で博徒の親分だった)」という記述を見つけた。さて初めて聞く名前である。「思想家で博徒の親分」とは面白い。日柳燕石は「くさなぎえんせき」と読む。インターネットで調べると、司馬遼太郎の「世に棲む日日」にも登場するとある。この作品もかなり以前に読んでいるのだが、全く記憶に残っていなかったわけである。

 燕石は文化十四年(1817年)、讃岐国琴平、現香川県仲多度津郡琴平町の生まれである。父は加島屋惣兵衛で、おそらく当時の豪農・豪商であったろう。幼童期から「気が鋭く」、叔父の石崎近潔や医師の三井雪航らに詩文や儒学、国学や歌学、書画を学んだ。天稟豊かな人だったらしい。加島屋の家は江戸や上方から金比羅詣でのおりの訪客が多く、情報や政治に敏感になる下地があった。彼は多くの文人たちと交遊した。
 父母の死で二十一歳で家督を継いだが、仁義、信義と侠気に篤く、三十三歳頃まで仁侠の世界に身を置き、優に千人を超す郷党や浮浪の徒や博徒たちを束ねたという。大親分である。
 燕石は勤王の志に厚く、幕吏に追われる土佐や長州の志士らを匿い、庇護していた。高杉晋作を潜匿し逃亡させ、その身代わりとして四年間高松の獄に繋がれて病を得た。
 時代を下り、官軍方の越後口総督として出陣し、慶応四年(1868年)、高松獄で罹患した病がもとで、柏崎で病没した。

 かつて侠客、博徒の親分で私が興味を抱いた人物に「田代栄助」がいた。田代栄助は思想家ではなかったが、「強きをくじき弱きを助くを好む」侠気の人であった。秩父の百姓であり、侠客であった。浮浪者や借金に追われた人々を家に住まわせ、役所や債権者と掛け合い、仲裁に奔走し、裁判では困民たちの代言人を務めた。彼を慕う者、子分たちは二百人を超えた。彼はついに秩父の困民党の総理として担がれ、自由民権と困民救済のため、明治政府との戦争を指揮したのである。無論、秩父困民党の戦は数日で潰走し、彼は捉えられて刑死している。…「我ら暴徒にあらず、国事犯である」

 さて「志士と経済」は梅田雲浜(うめだうんぴん)について記述の多くを割いている。
 若くして儒学者として高名だったが、妻子を餓死病死させてしまうほどに貧しかった。当時、雲浜は学者として、尊皇攘夷の指導者として象徴的な人物だったのだ。かの吉田松陰も彼に私淑し、敬慕していた。松陰は、尊皇攘夷を建白して牢に繋がれた雲浜を奪うべく、大挙軍を率いて牢破りを企図し、そのあまりの過激さと現実離れした計画で、長州の家老らを慌てさせ、松門の弟子たちからも諫められた。もともと松陰は軽忽(きょうこつ)の人である。軽忽とは軽薄でおっちょこちょいと言うほどの意味である。
 しかし松陰はほどなく、あれほど敬慕した雲浜を唾棄するほどに痛罵している。それは、かつて妻子を養うこともできないほど貧窮していた雲浜が、やがて結構裕福な暮らしぶりに変じたからである。噂では富商たちから大金を巻き上げているというのだ。儒者・志士が金儲けに走ることに、純粋な松陰は裏切られたのであろう。
 実際、雲浜の暮らし向きはかなり裕福なものだったらしい。地方の豪農豪商と、都市部の富商たちが彼に師事し、また彼を支持したからである。金は商売から得たのである。
 梅田雲浜は、地方の生産と、都市部の消費を繋ぐ二点交易、三点交易、国内貿易を進めるべく、彼等を相互に結びつけたのである。この高名な尊皇攘夷思想のリーダーは、外国との通商によらぬ、国内交易や内需の活性化と振興を考え、実践しようとしていたのであろう。
 志士のリーダーで儒者・雲浜には、松陰が理解できぬ「経済」思想があったのである。雲浜は、後年の渋沢栄一の「論語と算盤」と同じく、儒学と経済が矛盾なく両立していたのだろう。やがて雲浜は、安政の大獄で獄に繋がれて刑死した。

 服部之総は、雲浜と松陰を比較している。二人はまるで大人と子どもである。二人は格が違うというのだ。無論雲浜が大人であり、松陰が子どもなのだ。何によらず雲浜が人物としてもずっと格上で、松陰は格下なのである。
 私にとって、歴史上偉いとされる人物で、その偉さが全く理解できない人物がいる。その双璧は吉田松陰と西郷隆盛である。以前から松陰をあまり評価していない私には、まさに我が意を得たりである。
 今、梅田雲浜を研究する人など幾人もおるまいが、たまにこんな歴史随想の名著を読み返すのも楽しいものだ。さて日柳燕石について、もう少し調べてみようか。