芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

荷風の八月十五日

2016年06月25日 | 言葉
                                                          

 八月十五日。陰りて風涼し。宿屋の朝飯、鶏卵、玉葱味噌汁、はや小魚つけ焼、茄子香の物なり。これも今の世にては八百膳の料理を食するが如き心地なり。飯後谷崎くんの寓舎に至る。鉄道乗車券は谷崎君の手にて既に訳もなく贖ひ置かれたるを見る。雑談する中汽車の時刻迫り来る。再会を約し、送られて共に裏道を歩み停車場に至り、午前十一時二十分発の車に乗る。新見に至る間隧道多し。駅ごとに応召の兵卒と見送り人小学校生徒の列をなすを見る。されど車中甚だしく雑踏せず。涼風窓より吹き入り炎暑来路に比すれば遥かに忍びやすし。新見駅にて乗替をなし、出発の際谷崎君夫人の贈られし弁当を食す。白米のむすびに昆布佃煮及牛肉を添へたり。欣喜措く能はず。食後うとうとと居眠りする中山間の小駅幾個所を過ぎ、早くも西総社また倉敷の停車場をも後にしたり。農家の庭に夾竹桃の花さき稲田の間に蓮花の開くを見る。午後二時過岡山の駅に安着す。焼跡の町の水道に顔を洗ひ汗を拭ひ、休み休み三門の寓舎にかへる。S君夫婦、今日正午ラヂオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言ふ。あたかも好し、日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ。〔欄外墨書〕正午戦争停止。
(「断腸亭日乗」)


 荷風は断腸亭主人と名乗った。牛込の断腸亭と名付けた家に暮らしていたからである。その後、築地を経て、麻布の偏奇館と名付けた木造洋館に移り、自らを偏奇館主人と称した。ここに二十六年間暮らしたが、昭和二十年三月十日の空襲で膨大な蔵書と共に焼亡した。
 東中野に移ったが、そこも罹災。偏奇館跡地に行ってみると軍人が地主に断りもなく穴を掘っていたのを憤った。
「われらは唯その復讐として日本の国家に対して冷淡無関心なる態度を取ることなり」
 彼の反軍、反官の精神はますます盛んになった。
 荷風は東京を離れ、明石、そして岡山に疎開した。岡山滞在期間に勝山の谷崎潤一郎夫妻を訪ね、歓談している。しかし岡山大空襲で三度目の罹災に遭った。
 八月十五日の終戦を知り「あたかも好し」「休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ」と妙に明るい。これでくだらない政府も軍も消えるだろう。

日本人の性向について

2016年06月24日 | エッセイ
                   

 吉田茂がGHQ民生局のチャールズ・ケーディス大佐に喧嘩を売った。
「あんたがたは日本を民主主義の国にできると思っているのかね。私はそうは思わんがね」
「やるだけやってみるさ」とケーディス大佐は応えた。
 吉田茂は傲慢なエリートの典型であった。彼は日本を民主化できる可能性はないと言い切った。理由は、日本人には本物の自治を行う能力はないからだと言うのである。
 吉田のような保守派の右派で、常に上から下を指導する立場にあった者も、あるいは突然牢から出された共産党員や労働運動指導者らの左派も、戦前、戦中から胸に体制批判とリベラルな思いを秘めていた知識人たちも、実は吉田とそう違わない思いを抱いていたようなのである。日本の民主主義や自由にものが言えることを喜びながらも、それを、突然上から与えられたものであると感じていたのだ。

 反戦平和運動をやっていた水野広徳は言った。
「極めて露骨に且つ率直に白状すれば、日本人という民族は無主義無節操のオッチョコチョイで、時の権力に阿付する事を恥としない極めて劣等な性格の持主であると思います。而も病既に膏肓に入った奴隷的人種であると思います。寧ろ米国人に依って此の機会に、厳正なる選挙と政治の標本を示して呉れん事を望みます。僕らより見れば日本人は、今後尚お数十年間は正しき立憲政治を行う能力が無いものとしか思えません。」
 日本人は奴隷的な人種で、立憲政治を行う能力はないと、痛罵したのである。

 伊丹万作も言った。
「…あんなにも雑作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己のいっさいをゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。このことは、過去の日本が、外国の力なしに封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかった事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかった事実とまったくその本質を等しくするものである。
 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。」
 彼も基本的人権さえ独力でつかみ得ない奴隷根性と痛罵した。

 若槻泰雄は二十世紀半ばの日本を、怒りを込めて自嘲した。
「人間それ自体や、自分たちの種族・民族・さらには統治者の祖先が、天界から地上にやって来たのだ、というような神話や観念は世界各地に見られることでべつにめずらしいことではない。ただ日本が世界的にみてめずらしいのは、二十世紀も半ばにかかっている時代、しかも一応相当程度の文明に達した国が、こんな幼稚な神話を信じ、あるいは国家が国民に信じることを強制した、という点にある。」

 坂口安吾は言った。
「元来日本人は最も憎悪心の少い又永続しない国民であり、昨日の敵は今日の友という楽天性が実際の偽らぬ心情であろう。昨日の敵と妥協否肝胆相照すのは日常茶飯事であり、仇敵なるが故に一そう肝胆相照し、忽ち二君に仕えたがるし、昨日の敵にも仕えたがる。生きて捕虜の恥を受けるべからず、というが、こういう規定がないと日本人を戦闘にかりたてるのは不可能なので、我々は規約に従順であるが、我々の偽らぬ心情は規約と逆なものである。」
「いまだに代議士諸公は天皇制について皇室の尊厳などと馬鹿げきったことを言い、大騒ぎをしている。天皇制というものは日本歴史を貫く一つの制度ではあったけれども、天皇の尊厳というものは常に利用者の道具にすぎず、真に実在したためしはなかった。…
 自分自らを神と称し絶対の尊厳を人民に要求することは不可能だ。だが、自分が天皇にぬかずくことによって天皇を神たらしめ、それを人民に押しつけることは可能なのである。そこで彼等は天皇の擁立を自分勝手にやりながら、天皇の前にぬかずき、自分がぬかずくことによって天皇の尊厳を人民に強要し、その尊厳を利用して号令していた。」
 さらに安吾は「続堕落論」でこう続けた。
「日本国民諸君、私は諸君に、日本人及び日本自体の堕落を叫ぶ。日本及び日本人は堕落しなければならぬと叫ぶ。天皇制が存続し、かかる歴史的カラクリが日本の観念にからみ残って作用する限り、日本に人間の、人性の正しい開花はのぞむことができないのだ。」

 さて、なぜか日本人に愛される吉田松陰はこう言った。
「本邦の帝皇、或は傑紂の虐あらんとも、億兆の民は唯だ当に首領(こうべ)を並列して、闕(けつ)に伏し号泣して、仰いで天子の感悟を祈るべきのみ。…『天下は一人の天下なり』と。…是れ則ち神州の道なり」
つまり「わが国の天皇が、たとえ暴虐で知られた夏の傑王や殷の紂王のようであろうと、民はただ首を並べて宮城の門(闕)に伏して号泣しながら、天皇が民を少しばかり苛め過ぎたと悟られるのを祈るだけです。何故ならこの天下は天皇お一人だけのものだからです」
 これが日本人の奴隷根性思想そのものなのではなかろうか?

 中井英夫が予言していた。
「己の一番嫌悪し、最も憎むのは、この枯れっ葉みたいにへらへらし、火をつければすぐあつくなる日本人民と帝国臣民という奴だ。この臣民をそのまゝ人民と名を置き換えて、明日の日本に適用させようとするのは、今日最も危険なことだ。それは翼賛議員が看板を塗り替えた位のことではない。このくすぶれる暗黒の大地からは、何度だって芽が出てくる。狂信的な愛国主義者、国家主義者、軍国主義者。そいつらの下肥えがかかった、この汚れたる土地をまず耕せ。でなければ明日の日本に花開き栄えるものは、単に軍国主義の変種にすぎないであろう」


光陰、馬のごとし 稀代の癖馬

2016年06月22日 | 競馬エッセイ
                                                        

 かつて天才エリモジョージの鞍上で、池添兼雄騎手が手綱を取っていたことがある。彼は十二回騎乗したが、調整のため出走した地味なオープン戦を一勝したのみであった。池添兼雄はエリモジョージを管理していた大久保正陽厩舎の所属騎手だったのだ。 
 この厩舎の主戦騎手は松田幸春で、数多くのエリモの馬に乗り、重賞レースで活躍した。松田もエリモジョージに何度か騎乗している。 しかしエリモジョージの天才を引き出したのは、天才と呼ばれた福永洋一騎手であった。
 鞍上に彼を迎えたシンザン記念で初重賞勝ち、古馬となって水の浮く不良馬場の天皇賞をミズスマシのようにスイスイと逃げ切った。小柄で細身の馬体に60キロの負担重量を課せられた函館記念では、大逃げを打って大差のレコードで圧勝。京都記念でも61キロを背負って再びレコードで大差の逃げ切り勝ち。その後一年間を凡走し続けたが、再びの圧巻は60キロを背負った京都記念を4馬身差、62キロ背負った鳴尾記念を大差、宝塚記念を4馬身差と、三連続の圧勝劇だった。 稀代の癖馬と言ってよい。
 彼には負担重量は関係なく、逃げのペースも関係ない。ただ気分良く走れば、異常な規格外の能力を発揮するのだった。 天才と狂気は紙一重だ。気性難の馬、癖馬とは、狂気を持った馬と言ってよい。
 以前も書いたが、もしカツラノハイセイコに騎手を恐ろしがらせた気性難や狂気がなければ、彼はダービーも天皇賞も勝てなかっただろう。またもし彼が従順で大人しい馬であったなら、有馬記念も宝塚記念も勝っていたかも知れない。あるいは凡庸な未勝利馬で終わったかも知れない。エリモジョージも癖のない大人しい馬だったら、未勝利馬で終わったのではなかろうか。もしくは、史上最強馬になっていたかも知れない。

 稀代の癖馬エリモジョージの手綱を取った池添兼雄は、二流騎手のまま引退し、調教師に転じた。彼の息子、池添謙一は騎手となった。彼は地味な父とは異なり、天性の明るさで騎乗パフォーマンスを見せて目立ち、最多勝利新人騎手にも輝いた。また坂口正大師、鶴留明雄師、角居勝彦師、池江泰寿師などの有力調教師や有力馬主に可愛がられ、社台系の有力馬に数多く騎乗する機会を得、デュラルダル、スィープトウショウ、トールポビー、ドリームジャニー等で大レースを 勝った。
 謙一は、すっかり一流騎手の仲間入りをしたのである。 そして稀代の癖馬オルフェーヴルとコンビを組んだ。オルフェーヴルは三冠を取り、謙一は史上最年少三冠騎手となった。彼らは有馬記念も勝った。 デビュー戦でオルフェーヴルはゴール後に池添騎手を振り落として放馬。圧勝した菊花賞でもゴール後に外ラチに向かって逸走。そして今年の阪神大賞典では、一度先頭に立つや、池添謙一騎手は彼の制御不能に陥いり、そのまま外ラチに向かって逸走した。からくも制御したときは急減速して、馬群の最後方に落ちていた。そこから再び追い込んだが、ギュスターヴクライの2着に敗れた。確かにバケモノじみた規格外の馬である。しかしこの逸走癖は父親のステイゴールドそっくりなのだ。

 昔、チドリジョーという牝馬がいた。チドリジョーの父はハードリドンで、英国ダービーと2000ギニーを勝った名馬だが、非常に気性の悪い血統として知られていた。彼は日本でもダービー馬ロングエースやオークス馬リニアクイン等の、能力の高い、気性難の馬を輩出した。 さてチドリジョーは、ゲートが開くとその絶対的スピードで先頭に立つものの、コーナーをうまく回りきれず外ラチに向かって逸走し、危うく激突を免れるも馬群の最後方に落ち、そこから再び先頭に並びかけて、次のコーナーで再び逸走して最後方に落ち…直線ではまたまた先頭に立ち、しかも数馬身差をつけて圧勝した。レース後は出走停止と再調教、再試験を課せられた。こんなレースを度々繰り返したため、彼女は桜花賞にもオークスにも無縁だった。しかしチドリジョーは、もしまともに走ったら当時の最強牝馬ではなかったか。彼女は規格外の異常な能力の持ち主だったのだ。 古馬になり、長期休養明けで再び競馬場に戻ってきたチドリジョーは、ふっくらとどこか女っぽくお淑やかになって、あの血走った目も凄みも影を潜めたが、もはや勝つこともなく引退した。彼女について寺山修司は「狂女チドリジョー」という好エッセイを書いている。

 ところで、かの最強馬ディープインパクトを有馬記念で負かしたのは、いつも最後方から行くという不器用な脚質のため(常に展開に左右されて)大レースでは無冠だったハーツクライだった。その子のウインバリアシオンは、オルフェーヴルにダービー、神戸新聞杯、菊花賞と2着に甘んじ続けた。よく似た親子である。 阪神大賞典で独り相撲を取った最強馬オルフェーヴルだが、彼を負かしたギュスターヴクライも、ハーツクライの子であった。そもそも私はこういう物語が好きなのである。

              (この一文は2012年4月16日に書かれたものです。)

                                                        

色川大吉さんの言葉

2016年06月21日 | 言葉
                                                        


分業的政治家が改憲だ護憲だと言っても、一般大衆レベルでは熱がない。おまかせ民主主義、間接民主主義になってしまっている。選挙で多数派をとった方に次の選挙まで運営を委託したまま。それでは本当の、憲法を活かして内閣を指揮したり統治したりというこはできない。安倍政権なんて憲法の下にある。安倍総理が法律を作っても違反したら無法です。


                                                        

光陰、馬のごとし 強い馬

2016年06月20日 | 競馬エッセイ

 勝ち負けの「競争」に於ける強さとは相対的なものである。ディープインパクトはその競走生活を圧倒的な強さを見せて終えた。その強さは、全身の柔らかさが創り出すランニングフォームの美しさと、追い出してからのスピードにある。競馬ファンの多くの目は、彼一人に注がれ、彼のライバルたちの名を記憶しない。しかし強さとは相対的なものである。ライバルたちなくして、彼の圧倒的な強さは存在しないのだ。
 ディープインパクトの競走能力は、世界的にもトップクラスに位置するだろう。ディープインパクトは凱旋門賞後、国際レースのジャパンカップに勝った。しかしそのレー スに出走した海外の馬は一流半と二流であった。

 日本の競馬史にも歴史的な傑出馬は何頭かいた。シンザン、シンボリルドルフ、ナリタブライアン等である。いずれも皐月賞、ダービー、菊花賞のクラシックレース三冠馬である。三冠馬の出る年は、相対的にレベルが低い場合もある。ミスターシービー の年はライバルたちが弱かった。三冠全て勝ち馬が代わったトウシヨウボーイ、テンポイント、グリーングラス、クライムカイザーたちの世代は最強世代と言われた。
 シンザンは19戦15勝2着4回、連対率100%である。負けたレースはオープンレースで、いわば本番前の調教代わりであった。勝つときも負ける時も鼻差、頭差、首差、半馬身差程度で、派手さはない。相手が5の力の場合、シンザンは6の力を出した。相手が9の力の場合は10の力を出した。相撲で言えば大横綱・大鵬である。大鵬と人気を二分したライバルの柏戸は、5の力の相手に対し10の力を出した。7の力の相手にも10の力を出した。常に圧倒的なスピードと破壊力を見せつけたのだ。しかし大鵬やシンザンは、相手が1の力の場合は2の力を出し、相手が11の場合は12の力を出すのである。
 シンザンはステイヤーのボアルセル系ヒンドスタンの子である。スタミナタイプで底力はあるがスピードはないと思われていた。しかしシンザンの子、スガノホマレは日本レコードを含むレコードを5回、シルバーランドも2回の日本レコードを叩き出した。シンザンは素晴らしいスピードを秘めていて、それを子に伝えたのだ。しかもサラブレッドの長寿日本一の記録を持つ、凄まじい生命力の持ち主だった。

 シンボリルドルフは憎たらしい程の強さを見せた。その強さは横綱相撲である。常に中段よりやや前、馬混みに包まれる懸念のない位置をキープし、そのレース中も全く波乱が起こる隙を見せなかった。ゴールは常に余裕を持って相手をねじ伏せた。岡部騎手は、ルドルフを実に頭の良い馬だと讃えた。15戦13勝(海外1戦0勝)。
 ナリタブライアンの強さは破格だった。後方からライバルたちをぶっこ抜いた。その追い込みの凄みは、他馬とは全く別次元のものであった。この馬は実に気性の激しい馬と見受けられた。21戦12勝。激しい気性と、後方から追い込む戦法のため、不発も多かったのである。また一度闘争心を失うと、その精神的な回復に手間取った。また古馬になってからは股関節炎に苦しんだ。引退後間もなく、胃破裂で亡くなった。
 ディーブインパクトの有馬記念について、みのもんたさんが盛んに発言していた。
「ディープはスタートで出遅れ、最後方を走り、ここから届くのかという位置から4コーナー過ぎで一気にスパートする。人生は4コーナーからだ、彼は我々中高年に勇気をくれた。全ての出遅れた人々に感動をくれた…」
「人生は4コーナーから」は、寺山修司が魔王カブトシローについて書いたことである。カブトシローは三流血統であり、ちっぽけな馬であった。気性が悪く、騎手の言うことを全く聞かなかった。出遅れ、自暴自棄の走りを見せ、離された最後方を走り、ゴール前で全てを抜き去るか、あるいは最後方のまま終わった。また暴走して大逃げをうち大差で逃げ切るか、あるいはズルズルと馬群に沈んだ。
 ディープインパクトは生まれる前から期待された超良血馬であり、期待通りの子馬として注目されていた。高額で買われ、期待通りの調教ぶりを見せた。ゲート出は下手だったが、全身が柔らかいバネで、搭載しているエンジンも違った。激しい気性は常に良い結果につながってきた。頭も良く、常に自分のレースを理解していた。

 ところで、みのもんたさんに最初に競馬を教えたのは私である。彼をある年のダービーデーのイベント司会に起用した。彼は全く競馬を知らなかった。当日の朝から、競馬場の控室で、予想紙の見方、印の見方、血統、馬の見方、馬券の種類と買い方、当日の注目馬など、90分ほどレクチャーした。彼はダービーに十万円つっこみ、的中させて百万円プラスになったと喜んで、私に抱きついてきた。彼が競馬ファンになったのは、それからのことである。

            (この一文は2009年12月26日に書かれたものです。)