芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

復古主義と新自由主義

2016年06月19日 | コラム

 自民党の改憲草案やその解説、日本会議の趣旨などに目を通していて、暗然とした。戦前の、あの愚かな政治指導者、軍事指導者、戦争指導者たちが打ち出した統治の言葉が頻出してくる。それは美辞麗句で語られるが、エーリッヒ・フロムが「自由からの逃走」で明らかにした、恐るべきファシズム特有の、統治の「偽装用語」そのものなのである。
 これらは完全な戦前回帰であり、戦前より不幸なことは、新自由主義・市場原理主義への身売りを国是としていることなのだ。

 改憲派の自民党議員たちや日本会議の連中は、1935〜45年の日本を、もっともひどい時代ではなく美しいと言うのである。ぴりっと引き締まった、凛々しい時代だったというのだ。
「明治の時代は、今のように日本は混沌としていなかった。人間は凛々しかった。社会もぴりっとしていた。ところが、戦後、アメリカが押しつけた個人主義憲法の結果、社会の絆が壊れて、親殺し、子殺しが起きて、変な事件が多い。社会に対する連帯感が失われている。一番大きな社会は国です。だから愛国心は大事。一番小さな社会は、夫婦からはじまる家族です。」
 ちなみに戦前の方が凶悪犯罪は多かったのである。また、そもそも関東大震災に際して、「十円五十銭と言ってみろ!」と、朝鮮人、中国人、沖縄出身者を大量虐殺したのである。また震災のどさくさに紛れて社会主義者、共産主義者、無政府主義者、労働組合運動家たちを殺した。特高や憲兵といった国家による凶悪犯罪である。また震災がなくとも、彼らはすぐに投獄され、激しい拷問の末、数多くの人たちが獄死した。
 この時代は天皇制を中心とし、排他的で教条的な公的イデオロギーで、言論の自由を許さなかった。文部省は「国体の本義」と「臣民の道」というテキストを編纂して発表した。
 1937年(昭和12年)日中戦争勃発の二ヶ月前の5月に「国体の本義」を、「臣民の道」は大東亜戦争勃発の五ヶ月前の1941年(昭和16年)7月に刊行された。また大日本帝國憲法公布後に出された「教育勅語」は、子どもたちを徹底的に洗脳していた。…父母に孝行せよ、兄弟、友、夫婦相和し、朋友を互いに信ぜよ、天皇陛下の御為に死ぬのが当然と教え込んだ。

 自民党の「日本国憲法改正法案」を読むと、「教育勅語」「国体の本義」「臣民の道」と重なる。
 自民党「日本国憲法改正法案」前文にこうある。
「日本国は長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって」「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、…和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。」
「我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。」「日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため…」

「国体の本義」では「よく我が国独特のものを生むに至ったことは、全く我が国特殊の偉大なる力」と日本文化の優越性を語り、「父子と等しき情によつて結ばれ」「我らは、生まれながらにして天皇に奉仕し、皇国の道を行ずるものであって、我等臣民のかかる本質を有することは、まつたく自然に出づる。」「臣民が天皇に仕え奉るのは所謂義務ではなく、又力に服することでもなく、止み難き自然の心の現われ」「即ち家は、親子関係による縦の和と、夫婦兄弟による横の和と相和したる、渾然たる一如一体の和の栄えるところである。」
「臣民の道」では天皇と臣民の間は「君臣にして、情は父子」「人たることは日本人たることであり、日本人たることは皇国の道に則り臣民の道を行ずる。」
「我が国の家に於いては決して夫婦関係が中心をなすのではなくして、親子の関係がその根本をなしている。」

 自らの民族性を尊重するが、他国の民族性も尊重するという相互性はない。日本本位の独善的な「八紘一宇」であり、祖国愛と民族主義、ナショナリズムを煽る偏狭的なファシズムである。
 自民党の第一次草案の前文に「愛国の義務」という文言が入っていた。「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る義務を共有し、」…さすがにこれは削除したらしい。
 しかし「家族」は国民を縛る規定として、まるで社会道徳の手引書のような道徳観念が書かれている。法と道徳を混同してはいけない、峻別しなければならないというのが近代法の大原則だが、自民党は世界の嗤いものになるとも知らず、国家による国民への道徳への介入を平然と書き込んでいる。(※)  

 自民党の憲法草案の前文に「経済成長」が書き込まれているのは異様としか言いようがない。復古主義と新自由主義(市場原理主義)が同居し、美しい日本をたたえながら、その社会基盤を壊すであろう経済成長を謳う。そもそも、「ウォール街を占拠せよ」「99%の反乱」、世界の経済学者が行き過ぎたグローバリズム、貧富の格差を拡大させ続ける新自由主義、市場原理主義に歯止めが必要という議論がなされているとき、新自由主義と経済成長を国是とするのか。
 少子化、人口減少、高齢化社会の中で、まだ「経済成長」を謳うのか、しかも憲法で。五木寛之の「下山の思想」、平田オリザの「下り坂をそろそろと下る」、ダグラス・ラミスの「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか」が読まれている時代に、「経済成長」を憲法に掲げるのか。
 復古主義を唱える日本会議と、破壊的な新自由主義に乗っ取られた国で、安倍は「世界でもっとも企業が活動しやすい国」を掲げているのである。こうして郵政解体、株価を上げるための大型案件の上場促進、さらに株式市場活性化と株の値上がりを狙った年金資金の投入、TPPで売国、農協・JA共済の解体、水道事業の民営化・グローバル企業系への売却、主に商社や大企業のための海外へのODAばらまき、原発メーカーや武器メーカーの露払い外交、大企業に有利な法人税減税、タックスヘイブンに逃げる富の放置。

 そもそも世襲議員や、安倍や自民党議員たちに道徳を語る資格があるのか。親の国会議員が政治資金管理団体にプールしていた金を、世襲議員はその団体の看板を自分の政治資金管理団体名の看板に掛け替えるだけで、その金には相続税もかからないのである。相続であろう。違法性はないかもしれないが庶民感情からすれば許しがたい。
 菅原一秀なる議員は、「保育園落ちた、日本死ね」が国会で取り上げられた時、平沢勝栄とともに盛んに野次を飛ばし続けていた。彼は「女は25歳過ぎたら女じゃない、子どもを産んだら女じゃない」と発言し、国会会期中に嘘の届け出で国会をズル休みし、愛人を連れてハワイに遊びに行っていた男である。こいつに道徳心があるのか。

(※)改めて読み直せば、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の強烈な匂いがする。もともと統一教会と保守的な自民党には強い親和性があったのか、あるいは統一教会に浸食され続けてきたのだろうか。おそらく自民党が世界平和統一家庭連合と手を切ることは不可能に近いだろう。

光陰、馬のごとし 「衝撃」

2016年06月18日 | 競馬エッセイ
            
       
 ディック・フランシスの小説の邦訳は、漢字二文字のものばかりだ。おそらく、訳者の菊池光と早川書房の間で、全て漢字二文字の題名にしようと取り決めたのだろう。
 彼の本を初めて読んだのは今から30年以上も前のことである。競馬好きの私は「本命」という題名に惹かれて手に取った。
 ディック・フランシスはイギリス競馬のチャンピオン・ジョッキーだったと言うことだったが、それは障害レースのチャンピオンなのであった。エリザベス女王の馬にも騎乗していたが、それは障害レースの馬なのであった。
 日本では障害レースは格が低いものという印象が強い。私も当初「なあんだ、障害レースのチャンピオンか」と少々馬鹿にしてしまった。日本では、障害レースは未勝利馬救済レースのような趣があったのである。しかしイギリスでは違う。
 障害レースの最高峰グランド・ナショナルのチャンピオンホースはダービー馬に匹敵するのだ。そして障害レースに優れた血統も重んじられている。
 ディック・フランシスの作品は、競馬の専門用語を散りばめ、イギリスの競馬界を舞台にしたサスペンス小説である。彼は多作の作家だ。これまでに何冊が訳されているだろう。「興奮」「大穴」「査問」「血統」「転倒」「重賞」…私は七、八冊は読んだであろうか。たしか「飛越」「混戦」というのもあった。

 さて凱旋門賞のディープインパクトの尿から薬物が検出されたという。フランシス流なら、さしずめ題名は「失格」か「陰謀」「謀略」だろう。あるいは主人公の馬の名から「衝撃」としておこう。
 極東の「血統の墓場」からチャンピオンホースがやって来る。さてお手並み拝見だ。フランス人をはじめ、欧州の競馬関係者はそう思ったはずである。シャンティでディープインパクトの調教を見た者は、そのランニングフォームに「衝撃」を受けたはずだ。そして新しい環境に馴れ、調教が進むにつれ、誰の目にもディープインパクトの凱旋門賞優勝は間違いないと思われたはずだ。
 ディープインパクトの走るフォームには大きな特徴がある。横から見ると背中のラインと地面が常に平行なのである。背が上下しない。これを他馬と比較して欲しい。 上下するのが普通である。その上下の動きを吸収するのは、騎手の膝と踝の柔らかさなのである。馬の背が激しく上下しても、優れた騎手の背は常に一定で、上下に動かないものなのである。出前のバネ付き岡持をイメージしてもらえばよい。
 普通の馬は後脚で大地を蹴り、斜め上に跳ぶように前進する。ディープインパクトは後脚の蹴りでほとんど上に跳ばずに前に跳ぶ。凄まじい推進力となって前に出るのだ。よほど柔らかな踝と筋肉なのだろう。このような推進力と柔らかさを持った馬は、過去にも類例がないのではないか。
 ディーブインパクトに付き添っている日本の関係者は、あまり言葉が分からない。通訳を入れても、彼もしくは彼女に競馬や獣医の知識がないと、上手く通訳できないことが多かろう。必要なのは専門用語なのだ。ここが「陰謀」の付け目だったのではないか。極東の「血統の墓場」からやってきた馬を勝たせるわけにはいかない。でもあの馬なら勝たれるだろう。しかし、勝っても薬物が検出されて「失格」に追い込めばよいのだ。
 凱旋門賞を勝つと勝たないとでは、引退後の種牡馬としての価値が全く違う。それも二年連覇ともなれば…あっ、犯人陣営がばれるようなことを書いてしまったか。私はどうもサスペンス小説は無理なようだ。ちなみに二年連覇が可能だったのはハリケーンランであった。
 ちなみにディープインパクトは、あの礼儀も口の利き方も知らぬ「チンピオン」の亀田某とは違う。先代の金平会長なら「チンピオン」を勝たせるためには薬物も使いそうだが(先代会長は過去に相手陣営に薬物入りのジュースや果物を贈っている)、池江調教師も武騎手もインタビューを見れば分かる通り、常に謙虚で物静かで、どこか知的な紳士である。ディープインパクトも実に礼儀正しい爽やかな馬である…と見える。
 今回の題名は「陰謀」か、やはり「衝撃」だろうか。

            (この一文は2006年10月20日に書かれたものです。)

光陰、馬のごとし ディープインパクトの敗戦

2016年06月17日 | 競馬エッセイ

 おそらくディープインパクトは現時点での世界最強馬の一頭であることは間違いない。無論、様々な要因において他馬と同一条件下で戦うことができ、また彼に向いた展開になった場合の話しである。
 凱旋門賞の戦前、馬場状態が懸念された。ディープインパクトのように跳びが綺麗で、 豪快で、かつストライドが大きな馬は、概して重馬場を苦手とする。滑るのである。また重馬場は力がいるからだ。この日、懸念された馬場状態は快晴・良馬場であった。
 しかし、ディープインパクトはゴール前でいつもの豪快な伸びを欠いた。考えられる要因の一つは、欧州の馬場は力を要求されるということである。イギリスのエプソム競馬場はターフ(芝)というよりグラース(草)と呼ばれるように芝が深く、風が吹くとなびくほどである。フランスのロンシャン競馬場の芝も、人間の踝が隠れるほどに深い。日本のように短く刈り込まれてはいない。
 つまり欧州の芝コースは重馬場のように、あるいはダートコースのように力を要求されるのである。これがディープインパクトから、あの飛ぶかのような瞬発力を奪ったのではないか。無論仮説である。
 欧州の大レースは、一見さほどスピードも無さそうな馬が、力で他馬をねじ伏せるように勝つことが多い。いわゆる底力血統の底力である。例えばその典型がサドラーズウェルズであった。無論サンデーサイレンス血統のディープインパクトもスピード豊かな瞬発力に溢れた底力血統なのだが、ここに言う底力とは、いわゆる瞬発力を発揮できない馬場で要求される底力なのである。
 ディープインパクトは440キロ台の小柄で細身の馬である。59.5キロの斤量は意外にこたえたのではないか。勝ったレイルリンクは3歳馬で、56キロであった。
 俗に1キロ斤量がちがうと、1馬身から1馬身半の差がつくと言われている。若い3歳牡馬と、実の入った4歳以上の牡馬には斤量でハンデを設けるのである。さらに牝馬は軽い斤量となる。また古馬でも6歳以上になると斤量が軽くなる。このように年齢、牡牝で斤量を定めることを別定重量という。

  凱旋門賞では過去10年、3歳馬が8勝しており、このレースにおける56キロの斤量がいかに有利かを示している。ちなみに今年の結果を含めて、過去13戦で56キロを背負った3歳馬が11勝していることになる。
 パドックから馬場に出てきたディープインパクトを見て、牝馬のように腹が巻き上がっていると感じた。腹が巻き上がるとは、お腹が後躯に向けてキュっと細く絞り上がっていることをいう。それはライバル視されていたハリケーンランやシロッコの馬体と比較して明らかだった。少し絞り過ぎではないのか。絞り過ぎると長距離ではスタミナ切れを起こす。また腹の巻き上がった馬体には59.5キロはきつかろう。
 ディープインパクトは発馬の下手な馬である。いつも出遅れることが多い。これまでの日本での多頭数のレースでは、自然後方を進むことが多かった。外を周りながら他馬に前を塞がれることなく、4コーナー手前で進出し、直線で圧倒的な瞬発力と理想的なランニングフォームで、一気に豪快に他馬を引き離していった。しかもその脚を長く使えるのである。
 しかし今回の凱旋門賞では珍しく良いスタートを切った。しかも少頭数である。たちまち先頭を窺う2番手につけてしまった。直線に向ってから先頭に立つのも早かった。むしろ早過ぎたのである。ディープインパクトはこのようなレース展開を経験したことがない。彼ははるか前を行く何頭もの馬たちを抜き去ることに、無性の喜びを感じていた馬である。今回は前にいるはずの目標が全くいなかった。抜き去る快感を味わえぬことに戸惑いを覚えているうちに、若いレイルリンクに抜き去られて衝撃を受けた。その焦りの中を6歳牝馬のプライドにも抜かれたのである。しかも、いつものように脚が上がらない、身体が前に進まない、差し返せない。…そしてそこがゴールだった。
 レース後に引き揚げてくるディープインパクトは、自らの不甲斐なさに茫然自失の体であった。そんなディープインパクトを初めて見た。彼は終始伏し目がちであった。

            (この一文は2006年10月3日に書かれたものです。)

                                                  

光陰、馬のごとし ディープインパクトの衝撃

2016年06月16日 | 競馬エッセイ
                                                                                                              

 TVで競馬の天皇賞・春(京都競馬場3200メートルの長距離レース)のディープインパクトの衝撃的な圧勝劇を見た。
 パドックの姿を見ても群を抜いて美しい馬である。近年サラブレッドは大型化し、500キロを優に超す馬が多い中で、ディープインパクトはとても小柄である。当日は438キロだった。脚が長く細身である。背と首筋と胸のバランスが良く、歩いても、走っても、いかにも強靱な柔らかさが伝わる。実に均整の取れた美しい馬である。
 一昨年のダービー馬キングカメハメハは490~500キロ台の四角い感じのする馬であった。見るからにパワー溢れるスピードがありそうな、典型的マイラー体型である。体型的には細身のディープインパクトの方が、長距離に適応性があるだろう。しかしサンデーサイレンスの子なので、本来はミドルディスタンスホースなのだ。
 長距離レースの最も重要なファクターのひとつは「血統」なのである。次が「気性」であり、次いで「調教と調子」である。血統は「体型」に現れる場合もあり、全く現れない場合もある。

 スタートは出遅れて最後方からであった。この出遅れ癖は皐月賞とダービーでも見せた。長距離レースの勝負は馬と騎手のレース中の「折り合い」が最も重要である。折り合いは馬の「気性」と騎手の手腕にかかる。ディープインパクトは、菊花賞(京都3000メートル)と有馬記念(中山競馬場2500メートル)では、折り合いを欠き、引っかかっていた。菊花賞は圧勝し無傷の三冠を達成したが、初めて古馬と対戦した有馬記念は2着と敗れた。折り合いを欠けば、この圧倒的天才馬、神の馬にしても負けるのである。
 淀の馬場は向こう正面から3コーナー手前で坂を登る。3コーナーから4コーナーにかけての長い下り坂は「ゆっくりゆっくり下らなければならない」と言うのが勝利の鉄則とされてきた。下り坂で仕掛けて先頭に立つと、直線ではスタミナがもたないのである。しかしディープインパクトはこの下り坂で行った。引っかかったのかも知れない。鞍上の武豊は抑えなかった。馬との喧嘩を避けたのである。4コーナーを回る所で早くも先頭に立った。そのまま後続馬との差を開き、これまでの天皇賞レコードを1秒も縮める3分13秒4のレコード勝ちだった。以前も書いたが、競馬の1秒差は5馬身差に相当する。つまりマヤノトップガンを5馬身ちぎったのである。
 相変わらず爆発的な瞬発力で上がり3ハロン33秒5。衝撃的だったのは4ハロンの計時タイム44秒8である。つまり下り坂200メートルを11秒3の速いラップで駆け下り、4コーナー手前からゴールまでの3ハロン600メートルを、1ハロンにつき11秒ちょっと刻みで駆け抜けたのだ。この馬は速い脚(いわゆる爆発的瞬発力)を、800メートルも持続できるのだ。これは怪物である。天馬である。神の馬である。一瞬の速い脚はどんな馬でも持ち合わせている。しかしそれは200メートル、あるいは400メートルなのだ。かなり強い(速い)馬でも、3ハロン(600メートル)34秒から35秒台なのだ。

 私は過去に遡って5000頭前後の馬の血統やレースぶりを記憶している。もっと多いかも知れない。先に書いたように、長距離レースは 「血統」である。この血統の記憶で、菊花賞や春の天皇賞、有馬記念はよく勝ち馬を的中させた。タケホープもグリーングラスも、ホクトボーイもメジロデュレンもメジロマックィーンも、ダイナガリバーもアンバーシヤダイも、ライスシャワーもマヤノ トップガンも、それまでの戦績よりも長距離の血統と気性と体型と、「上がり馬(成長馬)」かどうかを見極めて的中させた。
 いま私の周囲には競馬を知らぬ人が多いが、残念なことである。競馬を知らぬということは、寺山修司の三分の一を語れないということなのである。私が競馬の面白さに気づいてから40年になる。そして寺山と私は、少なくとも十五年は同じ馬やレースを見てきたのである。ハイセイコーとか、狂女チドリジョーとか、ガーサントの子とか…。寺山はガーサントの子が出馬するレース前に、「雨々降れ降れガーサント」と童謡の替え歌を歌った。ガーサントの子は重馬場や不良馬場に強かったのである。

           
               (この一文は2006年5月2日に書かれたものです。)

伊勢谷友介さんの言葉

2016年06月15日 | 言葉
                                                         

 
 一連のSMAPのテレビ会見を、全てのマスコミが熱中して報道していた時、それを批判した彼のツィートが炎上した。
 彼はその後に次の言葉でその真意を釈明した。



その人々の『興味』の裏で、国会と言う日本の未来を決めていく重要作業が見えなくなる。人は自らが利用される『隠れ蓑』になる事を望んではいない。



 連日のように、あらゆるマスコミが舛添都知事の問題で大騒ぎだ。その執拗さは異常を感じる。
 その裏で何かが隠されようとしているにちがいない。それを都合よく思っている連中がいるにちがいない。
 甘利の巨悪か、国民には知られたくないTPPの不都合な真実か、検察の不正義か、福島原発事故の不都合な真実か、参院選の争点隠しか…。