芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

必読「日本の中の朝鮮文化」

2016年06月08日 | エッセイ
                                                        


 ほぼ一週間ほど前、ブログに「広島、恨み…坂口安吾の随筆から」というエッセイを書いた。
 オバマ大統領が初めて広島を訪れ、多くの日本人がそれを好意的に受け止めていたとき、中国と韓国は「ヒロシマを持ち出して、戦争の被害者面をするな。日本は戦争加害者であることを忘れるな」という反応を示した。
 両国とも実に執念深く、日本人としては正直不快の念も禁じえない。執拗なまでの、南京虐殺、慰安婦…それらの問題追及と謝罪要求と嫌がらせとも取れるコメント…。
 確かに、日本が戦争加害国であることは間違いなく、加害者はじきに忘れても、被害者はその恨みを忘れがたいということだろう。また両国ともに、国内外に向けた恨みの政治的な利用という側面もあろう。
 南京の虐殺は数の問題ではなく、十万人だろうが三万人だろうが三千人だろうが虐殺は虐殺なのである。慰安婦問題でも軍や政府が関与した証拠がないという方も多いが、日本軍は全滅覚悟で突撃する際に、部隊の書類を焼き無線機を破壊してから玉砕している。731部隊も証拠となる書類を焼却し、証拠隠滅後に引き揚げている。
 市ヶ谷、習志野をはじめ国内でも外地でも、終戦直前の七月末から前日の八月十四日まで、営内で書類を山積みにして焼き続け、それはGHQ(連合軍)がやって来る直前まで続いていた。
 そう、ヒロシマ、ナガサキの原爆投下もアメリカによる虐殺であり、一晩の空爆で十万人の人が亡くなった東京大空襲も、その後の各都市の大空襲も虐殺である。そして広島に原爆が投下された翌日には、その報に接したマレーシアの小さな村々でさえ、人々が家の外に飛び出して歓喜に沸いた。日本はそれほどまでに憎悪されていたと知るべきだ。
 愚かな指導者によって引き起こされた、誇大妄想「八紘一宇」をスローガンとした戦争は、加害国となり、戦場となった国々に大きな被害を与え、また国内にも甚大な被害を受けたのだ。
 戦地で亡くなった兵士たちの八割半ばは戦病死、餓死で、戦闘で亡くなった者は一割半であった。南方に兵士を送りこむ輸送船は、航海中に次々に撃沈され、多くの兵士が戦わずして南溟に消えた。しかし軍事指導者たちは「三割が現地にたどり着けば作戦は成功だ」と言っていたのだ。そんな作戦があるものか。これほどまでに人の命を軽んじた国があったであろうか。
 また敗戦時に大陸や半島から内地に引き揚げる途次に、多くの日本人が虐殺にも遭い、シベリアに抑留された兵士たちの多くも餓死、病死していったのだ。何が戦争は国家的宗教行事、魂を浄化するだ。狂気のカルト教団オウムのポアか。
 あらゆる戦争による死、国家の名で行われる暴力は残虐なのだ。この残虐、無残な累々たる死をもたらし、これほどまでに各国から恨みを買い、憎悪された原因は、日本の政治指導者、軍事指導者ら戦争指導者の責任であって、本当は日本人がこれを決して忘れてはならず、彼等愚かな指導者たちを日本人の手で裁くべきだったのだ。
 こともあろうに、これら戦争指導者、戦争犯罪人を「国事に奔走された」として靖国神社に合祀するとは。ならば彼らによってむざむざと死に追いやられた兵士たちを、靖国神社から別の場所にお移しして祀り、慰霊すべきだろう。
 しかも生き延びた戦争指導者、戦争犯罪人たちは、追放が終わると続々と政界に復帰し、一大与党を形成し、そのうち一人はCIAから闇の資金を受け取り、首相にまでなってしまったのである。
 今、この現代に、誇大妄想的スローガン「八紘一宇」を口にし、1930~40年代の「美しい日本」に回帰すると公言し、祭政一致、戦争は国家的宗教行事・魂を浄化すると獅子吼し、改憲を叫ぶ政治家たちが衆参の議席の半数を占めるに至るとは。しかも彼らの大半が、戦前の愚かな政治指導者、エスタブリッシュメントの二世、三世で、政治を家業化した世襲議員たちなのである。曰く「平和憲法では国を守れない」。ならば「戦争が可能な憲法」なら国を守れるというのか。この一瞬のうちに決着がつき、全てを焼き尽くす核兵器の時代に。

 ヘイトスピーチは気持ちが悪い。「出て行け朝鮮人! これから千年も二千年も朝鮮人たちがここに暮らしていくというのか!」
 これらの発言をする自分たちは、いったいどこから来たと言うのか。大雑把に言っても現日本人の八、九割は、朝鮮半島から渡来した人たちの遠い遠い末裔であろう。おそらくもっと多いかも知れない。
 それは千六百年前~千二百年前のことである。七世紀、八世紀に成立した「◯◯風土記」(例「吉備風土記」など)には「この地はほとんどが今来の人」などと記されている。今来とは「つい近頃にやって来た人」のことで、どこから来た人かというと朝鮮半島から渡ってきた人たちなのである。では「今来の人」と記す人がいつ来たかというと、今来の人たちより百年かせいぜい二百年早く渡来してきた人たちなのである。こうして古代の風土記によれば、吉備も奈良の葛(葛城)も八割方が今来の人となっていくのである。
 日本古代史の研究者は、この今来の人も含めて「帰化人」という言い方をするが、まだ「日本」という国家が成立していない時代に「帰化」はないだろう。ベネディクト・アンダーソンの言う通り「国家は想像の共同体」なのである。「帰化人」より、この列島への「渡来人」と言うほうが実情に近かろう。
 渡来人が続々と入り、定住し、移動し、やがて統一国家を打ち立て、その後に渡来した人たちが「今来の人」で「帰化人」となるのだろう。

 では原日本人はいつから棲みつき、渡来人たちが来たときにどうしていたのか、また渡来人たちを残してどこに行ったのか。
 おそらく彼らは南方の島々から海流に乗って流れ着いた人々と、北方の狩猟部族の人々であったろう。彼らが南方系と北方系の縄文人で、採取と狩猟をしながら、その集落は移動していた。
 彼らは、海や太陽、山岳などの自然を畏れ、巨岩や巨樹や風穴や山を斎き、敬ったものであろう。
 やがて朝鮮半島から漂流者、そして種籾を携えた意志的な移住者たちがやって来た。この渡来してきた人々が弥生人で、彼らは定住し、徐々に北上した。彼らの稲作文化や技術は多くの人口を養うことが可能だったのだ。

 さて、作家の金達寿(キムダルス)は1919年、慶尚南道の生まれで、十歳のとき父の仕事の関係で日本に来た。強制連行ではなかったろう。当然当時は日本国籍であり、日本の子どもたちと一緒に学び、苦学して日大芸術学部に進学し、在学中に最初の小説を発表している。
 戦時中は四、五年、故国にあったようだが、戦後日本に戻り、作家として認められていくが、私は彼の小説作品を全く読んだ記憶がない。しかし彼の歴史随筆・評論は実に面白く、何度読み返しても、つい夢中になって読み耽ってしまう。
 文庫本で読めるものに「日本古代史と朝鮮」「古代朝鮮と日本文化 神々のふるさと」「日本の中の朝鮮文化 その古代遺跡を訪ねて」(全12巻中3巻)の五冊がある。「日本の中の朝鮮文化」は「思想の科学」に連載されたもので、講談社から刊行され、現在、講談社学術文庫になっている。
 彼のこの著作で、日本の古社や古刹のほとんどが、朝鮮由来の神を祀ったもので、渡来人たちが創建したものであることを明らかにしたのである。それは現在に残った地名などでも明らかである。
 しかし彼はこれらの著作で、自分の推量を披瀝することに極めて慎重で、抑制的である。おそらく日本人一般の偏見や蔑視、怒りを忖度したものであろう。彼は「我々をみな朝鮮人だと言うのか!」と怒られたことがあるという。
 この著作で彼が取った手法は、日本の古代史学者、地名学者、地誌学者、民俗学者、文化人類学者たちの既刊の研究書や、訪れた先々の市町村、教育委員会、その他の役所、郷土史家たちがまとめたパンフレットや資料、発掘された文化財、そして古い神社や古刹が発行している由緒の書かれたパンフレットや栞などの、すでに公刊された印刷物を長々と引用し続けることであった。
 すると筑前、筑後、豊前、豊後、苗代川などの九州や、対馬、出雲、安芸、吉備、播磨、若狭、越前、越中、能登、山城、摂津、大和、大和飛鳥、和泉、河内、伊勢、駿河、甲斐、相模、武蔵、下総、上総、下野、上野、常陸、那須、笠石、信濃、宇都宮…これらの土地を開いたのも、古墳や遺跡、地名を残したのも、渡来人なのである。そして古い神社や寺のほとんどが、渡来人とその二世、三世などの手によって祀られ創建されたものなのである。

 大磯にある高来神社(高麗神社)の背後は高麗(こま)山で県有の自然林である。大磯町高麗にある神奈川県林業指導所のだした「高麗山」という案内リーフレットによれば…
「高麗という地名のおこり 奈良時代に高麗王若光の一族が海路この地に移住してきました。彼等は花水、相模両川の下流原野の開拓を行いながら、大陸の先進文化をひろめました。その後、高麗人は霊亀二年(七一六)に武蔵国(埼玉県入間郡高麗村)に移ったといわれます。現在でも高麗寺、高麗山、唐ケ浜、唐ケ原などの地名が残っており、その当時がしのばれます。」
 さらに「大磯町古墳一覧表」「神奈川の歴史」が引用される。ちなみに大磯は朝鮮語のオイソ(いらっしゃい)の意味を持つらしい。高麗王若光と一族は、その浜に上陸したわけである。その時の様子を「大磯町文化史」から引用している。
 六六〇年(大和朝末期)高麗王若光一族は、自国の戦禍から逃れ日本に亡命し、大和朝の指示で大磯に上陸、その後箱根や各地に散在して、鍛冶、建築、工芸などの技術を伝えた。

「日本書紀」六六六年の天智五年に、それまで大和で「官食を給していた百済の僧俗二千余人を東国に移した」と書かれている。百済が滅びたのが六六〇年で、彼等は日本に亡命してきた渡来人であろう。
「続日本紀」の七一六年、霊亀二年五月条に「駿河、甲斐、上総、下総、常陸、下野の七国の高麗人千七百九十九人を以て武蔵国に遷し、始めて高麗郡を置く」というのもある。
 この「古事記」や「日本書紀」「続日本紀」を書いた人たちも、渡来人なのである。
 七五八年の天平宝字二年八月条にも「帰化新羅僧三十二人、尼二人、男十九人、女二十一人を武蔵国の閑地に移し、ここに始めて新羅郡を置く」とある。この地は現在の東京都練馬区の一部、保谷市、埼玉県の大和、志木、朝霞、片山の一帯とされる。新羅が転訛し、志木(志羅木)、白子、新倉、新座などの地名として残っている。
 関東には百済木という地名があるように、かなりの数の百済からの渡来人がいて、大和も山科も彼等によって開かれ、権力を掌握していたのである。桓武天皇の母・高野新笠は百済系の姫である。

「深大寺縁起」でも明らかなように、やはり朝鮮からの渡来人によって開かれたのである。そもそも深大寺は狛江郷に入るが、狛江は高麗人の郷である。
「浅草観音」は武蔵国檜前(ひのくま)の馬牧と言われていた場所で、現在も「馬道」という地名が残されている。檜前氏族は大和の飛鳥にある檜前から出たという。
 飛鳥には現在も檜前という地名が残り、檜前寺跡もある。さらに阿知使主(あちのおみ)を祭る於美阿使(おみあし)神社がある。阿知使主は坂上田村麻呂の祖で、東漢(やまとあや)氏族であった。漢(あや)とは古代朝鮮南部の小国家安耶(あや)(安羅または安那)のことである。彼等は高句麗に攻められて瓦解し、畿内に亡命し、そこで暮らした。後に漢氏族の一部が関東に移住し、仏教を信仰し浅草観音を開いた。
 このように日本各地の古墳のある土地や、歴史のある土地は渡来人によって開かれ、古い寺社のほとんどは渡来人の手で祀られ創建されたのである。

 金達寿の文庫本で読めるこの五冊は、実に面白いのである。繰り返すが、これらの著述は、古い寺社仏閣めぐりの小さな旅と、引用の積み重ねで構成された、楽しい日本の古代史を訪ねる紀行本なのである。

「朝鮮人出て行け!」と叫ぶヘイトスピーチの人たちも、その連中から政治献金を受けていた政治家たちも、美しい日本を標榜する政治家たちも、神道政治連盟の政治家たちも、神社本庁や日本会議の方々も、ほとんどが朝鮮からの渡来人、帰化人の遠い末裔であるに違いない。

                                     

舛添ギャグ漫画

2016年06月07日 | ミニコラム

 舛添問題は完全にギャグ漫画になってしまった。
 まず、第三者の弁護士そのものが「不適切」。
「クレヨンしんちゃん」は不適切。「金魚の飼い方」が不適切。「江戸流そば…」「ビザ窯…」もう漫画。シルクの中国服は書道をするのに適切。もう完全にギャグ漫画。
 もういちいち報道しなくていいよ。メディアはこの執拗な情熱を、舛添騒ぎを奇貨として権力が隠蔽しようとしている「不都合な真実」に向けたらどうだ。
 甘利の巨悪をこのまま逃していいのか。甘利を不起訴にした法務省の黒川弘務官房長の事務次官出世引き換え疑惑を報道したらどうだ。
 TPPで何を密約してきたのか、どんな不都合があるのか、追及したらどうだ。保険は医療は著作権は、ISD条項は、環境問題は、遺伝子組換え等の不表示問題は、非関税障壁撤廃で何が破壊されるのか、文化か伝統か商慣習か等を特集したらどうだ。本当に成長戦略になり得るのか、嘘ではないのか、特集したらどうだ。
「経済成長」以外の豊かな社会への提案はないのか特集したらどうだ。
 日本会議、カルト生長の家、壊憲計画を追及したらどうだ。第一次安部内閣、第二次安部内閣の閣僚の8割超が日本会議メンバーとはどういうことだ。日本会議徹底解剖をしたらどうだ。日本の原理主義者たちに乗っ取られた内閣か。いま権力はどんな団体に操られているのか。彼らの目的は何なのか。王政復古に祭政一致か。
 国谷裕子、古舘伊知郎、金平茂紀らから「いまだから話せる番組への圧力」でも特集したらどうだ。
 タックスヘイブン特集、福一事故と小児の甲状腺癌は本当に無関係かの特集でもしたらどうだ。
 原発立地と活断層徹底研究でも特集したらどうだ。本当に原発は必要なのかの特集でもしたらどうだ。

人のとなりに 猫の涙

2016年06月06日 | エッセイ
          
  
 電話をかけた相手から、突然怒鳴られ「馬鹿野郎」と罵倒され、受話器を投げ出すように切られたことが三度ほどある。相手に対して特に失礼は思い当たらず、また非常識な物言いをしたわけでもない。
 もう三十年前後も昔のことである。その方々とは作家の開高健氏であり、元横綱朝潮の先々代の高砂親方である。そしてもう一人は司馬遼太郎氏であった。いずれもすでに鬼籍に入られているので、何の差し障りもない。
 電話はイベントの企画で打診したのだった。よほどに虫の居所が悪かったか、二人の作家は執筆に詰まって苦吟していたか、あるいは乗りに乗って筆が進んでいるときに、突然電話のベルでその思考と作業を断ち切られたかであったろう。またイベント屋など実に怪しげな輩だと思われたに相違ない。
 司馬遼太郎氏への用向きはこうであった。当時、ある有名女性誌の発刊十周年だったかの記念イベントの企画を頼まれた。その女性誌はスター、ファッション、ゴシップ、グルメ、映画、旅の情報で構成されていた。私が考えたのが「司馬遼太郎とゆく京都・青春群像の旅」という、読者参加の旅行イベントであった。
 そもそも作家への打診は、怪しげなイベント屋より出版社がすべきなのである。もしこのときの企画が実現していたら、近年流行の若い女性たちの「歴女」ブームは、もっと早くに起こっていたかも知れない。また私は、怒鳴られ取りつく島もなく電話を切られたにも関わらず、その後も彼の良き読者であり続けた。ちなみに私は開高健氏の無礼な電話以後、「ロマネ・コンティ」とかいう退屈な本を一冊読んだきりで、決して良き読者ではない。

 司馬遼太郎は膨大な著作を遺した。私はその著作のほとんどを読んでいる。その中で何度も読み返している著作がある。小説の「竜馬がゆく」「燃えよ剣」「峠」「坂の上の雲」「花神」「菜の花の沖」などではない。シリーズ全四十三冊の「街道をゆく」である。全冊もう四、五回は読み返しているだろう。
「街道をゆく」は実に楽しい紀行の本である。固い歴史学術論文ではない。全く 肩肘の張らない随筆である。読者は随意に、どの街道に立ち至ってもよい。
 風土と歴史を考察しながら、次から次へと想像を飛ばし、ときにその街道から大きく逸れる。佇むその地や時代から大きく外れる。彼の連想は七世紀から明治に飛び、また戦国から元禄へと、人を語り、時代を遊ぶ。宗教を語り、思想を簡便に解説し、築城や石積みの技術を語り、運河の掘削の思想や稲作の伝播に想いを馳せる。まさに人と風土と歴史の蘊蓄紀行である。
 登場人物も楽しい。彼の旅のほとんどに同行した挿絵の須田剋太画伯は実に愛らしく、画伯の思想(道元への固執)や自らの身体への思い込み、そのぎこちのない挙措は微笑ましい。また時々旅に同行する作家の金達寿(キムダルス)氏などや、編集部の人たちの素描も素晴らしい。
 ときに「街道をゆく」の本道から大きく外れて、野芹咲く田畑の畦をゆくかのごとき、どうでもよいような逸話に遊ぶ。その中には不思議な猫の話や、愛らしい犬や、どうにも悲しい犬の話なども出てくるのである。

 その猫の話は「街道をゆく4」の「郡上・白川街道 堺・紀州街道ほか」の巻にある。その「ほか」に当たる「丹波篠山街道」である。この旅の途中から須田画伯とは別行動となり、編集部のH氏とC社の編集部のI女史が同行した。Iさんは東京住まいだが、もともと京都の女性である。
 篠山の古さびた宿に入り夕食となり、彼等の話題がよく出没する猿や猪の話となった。食事の世話をする女中さんはよほど動物好きらしく、愛情を込めて猿や猪の観察談を物語った。H氏が山陰線の亀岡あたりで、汽車の窓から山を走る猪を見たという話をした。冬場の畑には荒らすべき食物もなく、猪は悲壮な感じで地響きを立てるように走っていたという。その「悲壮」という言葉から連想の灯がともったらしく、I女史が言った。以下やや長いが引用したい。

「私は猫が涙を流して泣いているのを見たことがあります」
と言い出して、話が丹波から京都の巷へ外れてしまった。Iさんの母堂は飼い猫のしつけにやかましく、このためその猫はいやしくもお膳の上のものに手をのばすということがなく、堪えに堪えているようなふぜいで、人間たちが食事をするのを待っているというのが彼女の日常であった。
 ある日、母堂が親戚の家へゆかれると、そこの猫は実に放縦で、お膳の上のものを嗅いだり、手でひきよせたり、包み紙に首をつっこんだりして、母堂はそのために神経がくたくたになって帰宅した。
「そこへゆくと、ほんまに、お前はおとなしゅうて、ええ子やな」
と、母堂は夕食のとき、猫をふりかえって、ほめてやった。そのとき猫が無言で泣きだしたというのである。大きな目にみるみる涙があふれて、その滴ってゆく涙がひげを濡らしたというから、とても何かの見違えとはちがいます、私もびっくりしましたし、母も息をのんで見つめていました、とIさんはいった。その猫にすれば某さんの家の猫こそ猫らしい猫で、自分は御当家の御躾に堪え忍んでいるだけなのです、と言いたかったのであろう。
「なるほどな」
動物好きの女中さんはその話によほど感動したらしく、何度もうなずき、しかし猫よりもーーといった。亀岡の山を走っていた猪のほうがもっと可哀そうやな、という。猫はなんといっても食物を人からもらって暮らすのだが、猪の境涯ともなればそうはいかないのである。

 猫がぽろぽろと涙を流して泣く……「街道をゆく」全記述の中で、いささか異質に過ぎるこの逸話が、なぜか私の心に留まり忘れがたい。
 また「街道をゆく38 オホーツク街道」には、印象的な犬が二頭出てくる。女満別の遺跡の発掘現場である。

 犬が一頭、いそがしげだった。
 現場のあちこちを歩き、坑と坑の細い道に立って作業現場ぜんたいを見まわしたかと思うと、一挙に区画のすみまで行ってその角度からひとびとの動きを見、また身をひるがえして、区分ごとのふちを歩いている。
 雑種の日本犬で、シッポの巻きあげが、威勢いい。
「自分も働いているつもりなんですね」
 私は感心して、編集部の村井重俊氏にいうと、この人は童話のなかの人のまなざしになった。
 司馬らが発掘現場のプレハブ小屋で出土品を見たり、その説明を受けているあいだ、この犬は立ち上がって窓ガラスいっぱいに張りついて、中の様子をのぞいていたらしい。
 もう一頭の犬の話は、紋別西郊の、雪原と化した海辺の砂丘上の喫茶店で食事を摂っていたときである。その犬は雪原側の出入り口近くにいて、ワゴン車から降りてくる人々を見ると、すがるように寄っていく。そんな動作を繰り返しているのだ。その店の犬でもなく、野良犬でもないという。北海道犬の雑種らしく見える。軽食堂の女主人によれば「けさ、車できた人に捨てられたんです」とのことである。だから、もしや飼い主ではないかと、犬は車がとまるたびに飛んでゆくのである。まだ自分が野良犬になったとは、認めていないのに違いない。その犬の様子を覗っていると胸が痛む。むごい話になった。
 しかし「街道をゆく」は楽しい蘊蓄紀行である。だからこの犬の話も北海道犬とアイヌ犬の話として展開し、東北地方のマタギが猟に使っている犬とアイヌ犬は同系統であるらしいとか、マタギはアイヌ語の「狩猟者(マタンギトノ)」と無関係ではあるまいとか、読んでいて興味は尽きない。まるで芳醇な雪中梅を馳走されたような、あるいは立ち寄った農家の縁側で深蒸し茶とうまいお新香を出されたような、気分の良い時間が過ぎていくのだ。

          司馬遼太郎「街道をゆく4 郡上・白川街道 堺・紀州街道ほか」
             「街道をゆく38 オホーツク街道」(朝日文庫)

光陰、馬のごとし 美しい日本に

2016年06月05日 | 競馬エッセイ
                     


 安倍晋三が「美しい国、日本」と連呼しても、そのような物言いは、ナショナリスト、ファッシスト特有のカムフラージュの言葉であると、精神分析学者エーリッヒ・フロムは50年も以前に指摘していた。とにかく政治家の語り口は気持ちが悪い。

 さて気分を変えて、久しぶりに小田切さんちの馬の話しである。本日話題に取り上げる馬の名は「ウツクシイニホンニ」と言う。 
 ウツクシイニホンニは1997年生まれの牝の黒鹿毛馬であった。デビューは1999年だった。父は岐阜笠松の地方競馬で圧倒的強さを見せ、やがて中央に転厩して国民的なアイドルホースとなった連銭芦毛のオグリキャップである。オグリキャップは、灰色の幽霊(グレイゴースト)と異名をとったアメリカ馬のネイティブダンサーの血を引くダンシングキャップの子である。
 少し道草をしよう。祖父ネイティブダンサーの馬名は「日本」と深い関わりがある。その父はポリネシアンであるが、母はゲイシャだった。この「芸者」の子は22戦21勝の歴史的名馬となった。ちなみに芸者の母は「みやこ」と言った。それは日本人と思われる女性の名なのか、あるいは京の「都」なのかは、よく知らない。
 その子ダンシングキャップはあまり強い馬とは言えなかったが、ネイティブダンサーの子ではダンサーズイメージという名馬が出た。数奇な運命を背負った馬で、寺山修司好みであった。ケンタッキーダービーを薬物検出で失格となり、種牡馬となってからも世界各地を転々と彷徨った。アメリカ、アイルランド、フランス、オーストラリア、そして老いて流浪の果てに辿り着いたのは日本だった。ダンサーズイメージとは「踊り子の面影」という名前だったのだ。まるで川端康成の世界である。彼は祖母ゲイシャの国を終の棲いとしたわけだ。

 さて話頭を戻し、ウツクシイニホンニである。母はガイドブックという。つまり観光案内書である。母の父はラグビーボール、母の母はガストロノミーといった。いずれも小田切有一氏の所有馬であった。祖母ガストロノミーは5勝した活躍馬である。母ガイドブックも4勝を挙げた。

 競馬ファンの間で「オダギリ馬」として愛されている馬について、命名にはいくつかの系統があると、小田切氏自身が雑誌のインタビューで答えている。例えば自然環境へのメッセージである。その代表例がウツクシイニホンニなのである。他にウチュウノキセキ、ミズノワクセイ等がいる。
 もちろんお茶目な小田切さんには、競馬実況のアナウンサーを困らせたいという一念で名付ける系統がある。例えばナゾ、オジャマシマス、ドンナモンダイ、オミゴトデス、ツイニデマシタ、コレガケイバダ等がその範疇に入る。ニバンテという馬名登録を行ったが、さすがにJRAに却下されたらしい。「先頭はニバンテ、先頭はニバンテだ!」「一着はニバンテです!」では何とも都合が悪いらしい。でも「惜しいことをした」と小田切さんは言った。本当にお茶目な人である。
 彼は真面目でもある。ノーモアと言う馬は「人類共通のイデオロギーと願いを込めた」系統なのだ。「核兵器廃絶、ノーモアヒロシマなんです」…さすが小田切秀雄の子である。無論、お笑い系統もある。キャバレー、オセッタイ、アナタゴノミ、メシアガレ、オジサンオジサン、アトデ、コワイコワイ、カミサンコワイ、ウソ、オトボケ、オソレイリマス、イヤダイヤダ…

 寺井淳という短歌の名手がいる。短歌研究社から「聖なるものへ」という第一歌集を出版した。寺井は高校教師である。学生時代に中世短歌史を専攻したらしい。彼は競馬を愛する人のようだ。

    神よりの前借りならむ夏麻(なつそ)引く
            命をかたに馬券(うま)買へわが夫(せ)

    ウツクシイニホンニ死せり日の丸の 翩翻と予後不良の通知

 学校現場に於ける日の丸は、常に彼を鬱する問題なのかも知れない。彼はウツクシイニホンニという馬名に想うところがあったのだろう。そしてある日、競馬雑誌の片隅でウツクシイニホンニの死を知ったのだ。
 私は寺井の短歌で、ウツクシイニホンニの死を知った。ウツクシイニホンニはレース中に骨折し、予後不良と診断され薬殺処分となり遂に未勝利のまま逝ったのだ。

    ウツクシイニホンニ死せり日の丸の 翩翻と予後不良の通知

              (この一文は2006年10月5日に書かれたものです。)

水野広徳 日本人への遺言

2016年06月04日 | 言葉
                                                                   

 極めて露骨に且つ率直に白状すれば、日本人という民族は無主義無節操のオッチョコチョイで、時の権力に阿付する事を恥としない極めて劣等な性格の持主であると思います。而も病既に膏肓に入った奴隷的人種であると思います。寧ろ米国人に依って此の機会に、厳正なる選挙と政治の標本を示して呉れん事を望みます。僕らより見れば日本人は、今後尚お数十年間は正しき立憲政治を行う能力が無いものとしか思えません。



 日露戦争の際に水雷艇長として出撃、「此一戦」で文名を上げた。「出雲」「肥前」の副長を歴任した。第一次世界大戦時に二度にわたって戦地や欧米諸国を視察し、「戦争を防ぎ、戦争を避くる途は、各国民の良知と勇断とによる軍備の撤廃あるのみ」という考えに至り、軍国主義を捨てて平和反戦運動家となって、執筆、講演活動を続けた。
 昭和の軍部の暴慢を批判し、日独伊同盟を醒めた目でみつめ、ヒトラーを蛇蝎のごとく嫌い、日中戦争を批判した。日米開戦と緒戦の勝利に沸く日本に、長期戦の覚悟のありやを問い、太平洋戦争の前途を予言していた。また現代戦は機械の戦いであり、機械を生み出す科学(文化)であるとし、「最後の勝利は常に必ず文化を尊重する国民の側にある」と喝破した。彼には文化を軽んじる日本の未来が見えていたのだろう。
 彼は1945年8月15日の日本の敗戦を喜び(本当は慟哭していたに違いない)、さらに上記の言葉を言い残したのである。