芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

光陰、馬のごとし サッカーボーイ

2016年06月15日 | 競馬エッセイ
                                                       

 何年か前、夢の中で映画を見た。
 その映画は、白い砂埃をあげながらサッカーに興じる子どもたちのシーンから始まった。…パレスチナであろうか、それともアフガニスタンであろうか?
 わからない。難民キャンプである。少年たちが歓声を上げながらボールを追う。みな裸足だ。そのゲームの中に、一人だけ皆の動きやボールについていけない少年がいる。少年はあきらかに手製とわかる松葉杖で身体を支えていた。
 それでも彼は笑顔でボールを追った。彼の右脚は膝から下がない。仲間の少年が彼に向かってボールを転がした。そのボールを誰も奪いに行かない。少年の白い歯が光り、左脚でボールを蹴った。ボールはコロコロと転がり、再び少年たちは声を上げながら、あまり勢いのないそのボールを追う。砂埃が舞った…。
 その夢の中の映画は、やがてその少年たちがテロリストになっていくという、悲しい物語だった。

 サッカーボーイは大変な名馬だった。その名から「弾丸シュート」と言われた猛烈な末脚を爆発させた。一度突き抜けると、後続馬を8馬身も10馬身も置き去りにした。そのスピード感溢れるレースぶりは素晴らしかった。そして何より、栃栗毛の馬体と尾花栗毛の派手な姿は美しかった。その馬体は光の加減によって鬱黄色に輝いて見えた。
 サッカーボーイはダービーをサクラチヨノオーの15着に惨敗した。彼は飛節炎に悩まされていたのだ。彼の最後のレースは有馬記念だったが、オグリキャップの3着に敗れた。彼は典型的なマイラーであり、2000メートルまでが最適な距離だったのである。

 種牡馬となったサッカーボーイの血統は、日本の競馬にとって極めて貴重なファイントップ系であった。彼の父はディクタスで、母の父はノーザンテーストだった。ディクタスの父はサンクタス、その父がファイントップである。
 どちらかと言えば早熟で、スピード豊かなマイラー型のサッカーボーイだったが、不思議なことに、スタミナ豊かなステイヤー型の産駒を数多く輩出した。しかも初勝利までに手間取る晩成型の仔である。
 ゴーゴーゼットは初勝利までに11戦を要したが、古馬になってからアルゼンチン共和国杯や日経新春杯を勝った。
 ナリタトップロードの初勝利は2戦目と早く、皐月賞3着、ダービー2着と春から活躍し、秋に菊花賞を制覇した。古馬となってからも3000メートルの阪神大賞典を2度制した。
 ヒシミラクルの初勝利も遅く10戦を要した。彼は菊花賞と春の天皇賞、宝塚記念を制覇した。典型的な晩成型のステイヤーである。
 牝馬ではティコティコタックが秋華賞を制した。もちろんスプリンター型もマイラー型の産駒も輩出しているが、サッカーボーイは何故かステイヤーに名馬を出したのである。これは彼が母系の特性を活かす種牡馬であることを示している。従って母の父としても成功するだろう。

 ゴーゴーゼットの母の父は天皇賞馬ニチドウタロウであり、その父は豊かなスタミナを誇ったアルゼンチンの歴史的名馬エルセンタウロである。社台牧場の吉田善哉は、このすぐには結果を出さないだろうエルセンタウロを、アウトブリードを可能とする血の多様性と、そして二十年先、三十年先を見据えて導入したのだろう(本当に凄い人だ)。そしておそらく予想よりずっと早く直仔ニチドウタロウが天皇賞を制したのだ。しかしゴーゴーゼットは種牡馬にはなれなかった。日本の競馬界は、若駒のうちから稼げる早熟でスピード豊かなマイラー系を好むからある。
 ナリタトップロードの母の父はレイズアネイテイブ系のアファームドであり、その力強さをよく受け継いでいた。しかし器用さを欠いたところも受け継いだようである。種牡馬として期待されたが、残念なことに供用3年で死んでしまった。彼ならマイラー系の牝馬との間に、父サッカーボーイのような素晴らしいスピードを再現したかも知れなかった。
 ヒシミラクルの母の父はシェイディハイツである。その父はシャーリーハイツ、さらにミルリーフと遡る。この血統は、豊かなスタミナと何より底力を備えている。ミルリーフは英ダービー、キング・ジョージ&クイーン・エリザベスS、凱旋門賞を勝った14戦12勝2着2回の歴史的競走馬であり、素晴らしい底力を伝える種牡馬だった。種牡馬としても大成功し、日本に入ったミルジョージ、マグニチュードの産駒もスタミナと底力を伝え、一流馬を輩出した。ヒシミラクルはサンデーサイレンス牝馬と和合性があるかも知れない。またスピードの勝ったノーザンダンサー系種牡馬とも合うだろう。このファイントップ系の血は貴重である。しかし時流に沿った血統ではない。

 ワールドカップを見ながら、サッカーボーイとその仔らについて書いた。

           
           (この一文は2006年6月13日に書かれたものです。)



政治の家業化とその業態

2016年06月13日 | コラム
                                                         


 仙台藩の玉蟲左太夫であったか、勝海舟であったか。そして勝から話を聞いた坂本龍馬であったか。
 幕末、アメリカに渡った玉蟲や勝が、アメリカの政治体制で驚いたことのひとつに、初代大統領ワシントンの子孫が、今何をしているかを誰も知らないということであった。
 大名の子が大名家を継ぎ、家老の子が家老となり、足軽の子は足軽という制度下に生きていた彼、彼らは、民主主義的な政治制度を知って感銘を受け、それを日誌に書き留めたのである。玉蟲の「航米日録」にある。(ちなみに夏目漱石の東京帝大時代の仙台出身の友人・玉蟲一郎一は、若死した玉蟲左太夫の遺児であったか、眷属であったか。)

 しかるに現代の政治家たち、特に自民党議員の半分余は世襲議員なのである。しかも二世、三世ばかりか、曽祖父の地ゴロ時代から数えて四世までいるのである。
 初めて選挙戦に打って出る世襲候補の当選率は7割を超えるそうで、そうでない候補者より圧倒的に優位にあるらしい。
 先の北海道5区の補選も、故町村議員の娘婿が、ムサシによる不正疑惑の噂が囁かれるものの、当選した。おめでとチャンリン「親馬鹿チャンリン、政治屋の風鈴」である。娘婿だから岳父からの世襲である。「町村代議士の弔い合戦」とは嗤わせる。政治屋という家業の世襲ではないか。

 世襲候補は「地盤」「看板」「カバン」を継承するという。地盤は先代の親の選挙地盤でほぼ確定した支持者がいる。看板は親の知名度である。カバンは金である。
 どうも地盤とカバンは重複するらしい。有力な支援者からの政治献金、有象無象の支援者にばらまく金、選挙に使える金であろう。こうして親の後を継いだ若先生は、有利に選挙戦を戦い、晴れて国会議員になる。
 地元の有力者や支援者たちが若先生に陳情する。陳情には当然のように斡旋や仲介、口利きの依頼が含まれる。若先生は彼らの陳情に応えなければならない。次の政治献金や選挙での働きを思えば、一生懸命に斡旋や口利きに汗をかく。誰も見返りもなく、また無料ではお願いに来ない。若先生も先代から教えられている。彼らのために汗をかけ。最初は少ないかも知れないが、彼らは幾許かの政治献金をしてくれるし、パーティ券の購入もしてくれる。

「うちの倅はいま大学三年生なんだが、広告代理店に入りたいと言っている。先生、どこかご紹介いただけませんか」「わかりました。秘書に履歴書と第一志望の会社を伝えておいてください。やはり電博かな。うちの親父も電博の今の経営陣に目をかけていたし…。いやあ、今度の選挙もいろいろ大変そうで…」「わかりました、先生。応援しますよ。先生、これは些少ですが政治献金として…」
「どうも若先生、うちの娘がテレビ局で働きたいと言っているのですが…」「分かりました。やはりうちの党に協力的なフジ系列か読売系かな…。すぐ当たってみますよ」「よろしくお願いします。先生、これは些少ですが献金させていただきます」…。

 こうして世襲議員たちは「地盤」と「カバン」とともに、政治を家業化していき、次の代にも引き継がせるのである。家業化された政治家の仕事の大半は、斡旋、口利き、仲介、それと陳情内容によっては、その利権化なのである。
 やがて若先生が大物政治屋に育ち、副大臣や大臣ともなると、地元有力者以外の人たちからも陳情が引きも切らない。商売繁盛で慶賀の至りである。
「先生、実はURと揉めておりまして…」「よし、分かった。うちの秘書に詳しく話しておいて。すぐ当たらせるよ」「ありがとうございます先生、これは些少ですが…」「おう、いつもすまないな」
 こうして、斡旋、口利き、仲介、利権化が時の与党議員らの本業となるのである。万一のことがあっても、日本の検察は権力の味方だから、ほとんど起訴されることはない。ことが発覚してからしばらくは、表向きは睡眠障害で安静にし、爆睡していればすむのである。政治屋は三日やったらやめられないそうである。

 自民党の議員たちは、いわゆる族議員として、党内の部会、調査会、推進調査会などに所属する。しかし世襲議員(お坊ちゃん、お嬢ちゃん)たちは、文部科学部会、厚生労働部会や電力・エネルギー調査会、建設部会、経済産業や成長戦略部会などの大きな利権が期待される部会ではなく、あまり利権とは縁のなさそうな外交部会(ODAは利権になる)や、憲法改正推進本部などに所属することが多い。
 彼らは選挙でも金でも比較的安定しているので、がつがつと利権を漁らなくても済むらしい。いま、自民党の憲法改正推進調査会は、世襲二世、三世たちで占められているという。
 彼らが、一番輝いていた「美しい日本」は1930~40年代だとし、その時代への回帰、さらに明治維新の頃の王政復古的な祭政一致を掲げ、権力を縛る憲法はおかしい、権力を縛るだけなんて公平でない、もっと国民を縛るべき、公としてもっと義務を負わせるべき、あげく、国民に主権があること自体がおかしい等とほざき、「日本の誇りを取り戻す」等と獅子吼するのである。
 もちろん、彼らのバックには神社本庁、神道政治連盟、旧生長の家信者、日本会議などがおり、自民党議員や保守政治家の多くが、この日本会議や神道政治連盟国会議員懇談会に政属している。第一次、第二次安倍内閣の8割が日本会議メンバーで、第三次安倍内閣の閣僚20人のうち19人が神道政治連盟国会議員懇談会(会長・安倍晋三)の所属である。

「門閥は親の仇でござる」と福沢諭吉は言った。…、政治の世襲、政治の家業化の現代は、それよりずっと退嬰的らしい。ちなみに議会制民主主義の発祥地イギリスでは、その長い歴史の中で、世襲の国会議員は二例しかないそうである。

光陰、馬のごとし 気まぐれジョージ

2016年06月11日 | 競馬エッセイ
                                                        

「実存は本質に先行する」と言ったのはサルトルだったか。  
 エリモジョージという馬がいた。エリモジョージに則して言えば、どう走れば勝てるのかという彼の脚質の本質以前に、天才馬という彼の実存があったのだ。そのエリモジョージの本質を引き出したのは福永洋一である。  
 世に天才騎手と云われた人は福永以外にも数人いる。シンザンの主戦騎手だった栗田勝。彼が騎乗したシンザンもおそらく天才馬であったろう。  
 現在の競馬ファンの多くは武豊を天才騎手と呼ぶ。しかし私は武豊に天才を感じない。無論、彼は実に素晴らしい騎手で、極めて達者で理知的なレース運びをする。岡部幸雄もそうであった。武豊は常に同一レースで複数の騎乗依頼があり、その中から最も勝つ可能性のある馬を選んで騎乗してきた。洋一も数多くの騎乗依頼があったが、彼は常に所属厩舎やお世話になった調教師や馬主の馬の順で騎乗馬を選んでいた。福永は義理と人情の男だったのだ。当然、勝つ可能性の少ない馬も多かったのだが、そんな人気薄の馬に騎乗してもアッと言わせたのが洋一であった。  
 私は調教師となった後に覚醒剤所持で競馬界を追放された田原成貴を天才として挙げたい。おそらく栗田も福永も騎手として天才なのだが、田原の場合は天才が騎手を職業としたのである。彼は小説や漫画の原作も書き、その発言は非常にクレバーでスッ飛んでいた。またその騎乗ぶりも常人のものではなかった。騎乗者として馬の能力や状態を把握すると、それとは異なる調教師の指示や馬主の意向には平然と反対した。ために数々の軋轢を生み、生意気だと批判され干されもした。騎手という職業は調教師や馬主に依頼されて成り立つ商売なのだが、田原は決して自分の考えを曲げなかった。彼の騎乗は変幻自在かに見えたのだが、その生き様はいかにも不器用だったのである。
 
 さてエリモジョージである。彼の父は底力のあるセントクレスピン、母の父は晩成型ステイヤーのワラビーである。しかし二戦目の距離の短い新馬戦を勝ち上がり、重賞レースにも参戦した。この頃の騎乗者は大久保光康や松田幸春であった。戦法は差し、追い込み、先行と定まっていない。  
 やがてシンザン記念で福永洋一を鞍上に、先行し初の重賞勝ちをした。クラシック戦線は皐月賞3着と才能の片鱗を見せたが、ダービーは惨敗した。その夏、札幌記念に松田騎手と臨み、これも惨敗した。  
 彼はエリモ牧場で休養に入ったが、その厩舎が火事となり多数の馬が死んだ。奇跡的に生き延びた四頭の中にエリモジョージがいた。彼は炎から逃げ切ったのである。しかし暫くこの火災ショックから立ち直れず、やっと翌年の一月に池添兼雄騎手を背に競馬場に戻ってきた。彼等は逃げ先行戦法を試したが勝つまでには至らなかった。  
 そして四月の末、福永洋一を背に天皇賞に挑戦した。
「春まだ遠い襟裳岬に春を呼ぶかエリモジョージ」…関西テレビの杉本清がエリモジョージの本場馬入場を名調子でアナウンスした。エリモジョージの人気は全くなかった。馬場コンディション不良の中、彼等はスタート直後から先頭に立ち、スイスイと逃げた。そして強豪人気馬を後目に逃げ切った。人々は「展開のあや」「まぐれ」と言った。たしかにその後、池添騎手とのコンビで臨んだ宝塚記念を惨敗した。
 
 夏再び福永を背に、函館記念を60キロという斤量を背負い、一人旅の大逃げを打って7馬身の大差で日本レコード勝ちをした。秋の京都記念では61キロもの斤量を背負い、逃げて逃げて、これも8馬身差をつけての日本レコード勝ち。  
 エリモジョージは440キロ台で、牡馬としては小柄で細身の馬なのだ。その背に60キロを超す斤量はいかにも苛酷である。しかしエリモジョージには斤量も距離も無関係なのだ。「今日は気分が良いかどうか」だけなのである。見た目に楽な一人旅の大逃げを打てても、気分が乗らない日は直線で失速し惨敗した。人々は「気まぐれジョージ」と呼んだ。やがて一年以上に及ぶ低迷を続ける。
 この間、彼は常に人気を背負っていた。古いファンたちは「まるでカブトシローのようだ」と微笑んだ。そして誰もが馬券を離れて「気まぐれジョージ」を応援し続けていた。  
 そして再び春が来た。春の京都記念に60キロを背負い、一人旅の大逃げで4馬身差の圧勝。続く鳴尾記念は62キロを背負い、再び大逃げを打ち、そのまま大差のぶっち切り勝ち。勢いは止まらず、宝塚記念も大逃亡劇を演じて、4馬身差の圧勝劇。…    
「さあ行った行った、エリモジョージの一人旅だ。誰もついていけない、誰も追いつけない。今日は気分良く走っているのか。馬は天才エリモジョージ、鞍上はこれまた天才福永洋一だ。…」  
 この劇的な三連勝の後、エリモジョージは再び走る気をなくした。一年間出れば惨敗し続けて引退した。…京都競馬場でエリモジョージの引退式が行われた。すでに福永洋一は事故でターフを去り、彼の鞍上にいない。エリモジョージは首を低く下げ、ゆったりと、ゆったりとスタンドのファンの前を駆けていった。「気まぐれジョージ」は少し淋しげだった。


              (この一文は2006年7月18日に書かれたものです。)

政治と市場 

2016年06月10日 | 言葉
           

       テッサ・モーリス-スズキ「自由を耐え忍ぶ」(辛島理人 訳)

 議会制民主主義の根本原理の形成は、企業経済の勃興期とほぼ軌を一にした。選挙と議会、三権の分立、憲法、基本的人権などの諸概念は、十七世紀から十八世紀にかけてのヨーロッパの革命の時代の遺産だった。これらの理念は今日に至るまで多くの人々にとって重要なインスピレーションの源となっている。しかし皮肉なことに、西欧の民主主義が共産圏の全体主義体制を倒し、自由の勝利を祝福したまさにその時、これまでの民主主義原理の基礎をゆるがすような事態がグローバルな規模で発生したのである。
 企業市場と国家の密接な相互浸透は「経済」と「政治」や「公」と「私」といった領域の従来の観念区分をゆるがした。このプロセスによって、従来の経済理論、および「市場」と「経済」の無前提な同一視は、再検討を求められた。同時にこのプロセスは、「政治」の領域や民主主義の実践の射程にかかわる再考をわたしたちに促す。市場の社会的深化や広範囲におよぶ「民営化」政策は、普通の人々の生活をますます企業市場の影響下に置く。そしてその影響は、国家権力と企業の癒着によって連携によってもたらされたものだった。「民営化」は、国家権力の縮小を必ずしも意味するものではない。むしろ、現在行われている形での「民営化」は、人々の日々の生が民主的な議論や実践から巧妙に遠ざけられ、一般的に(また誤解を呼びうる)「市場の力」と名づけられた非人間的で不可思議な権力に支配されるというものだ。
 人々の健康はいかにして促進されるのか、知識は国民(グローバルな人口)がいかに使用するのが最良なのか、誰が生命資源や文化資源を所有すべきか、といった根源的な問いは、政治的議論の対象から排除されてしまった。そしてこのように矮小化された「政治」的課題の中に残ったのが、犯罪や国家安全保障といった、閉所恐怖症的自警団政治を助長するものばかりだったのである。

司馬遼太郎の「愛国心について」

2016年06月09日 | 言葉
                                                                       
    
司馬遼太郎が描いた人物で、高田屋嘉兵衛ほど見事な人はいないだろう。事業家として、外交家として、国際人として、そして何より人物として…。司馬は彼を「菜の花の沖」で描き出した。司馬はこの作品で愛国心や愛郷心についてこう書いた。

「その感情は揮発油のように可燃性の高いもので、平素は眠っている。それに対してことさら火をつけようと扇動するひとびとは国を危うくする」