ユア・ハイハート、自らの神聖さと共に。

心や魂のこと。生きる勇気と希望。
世界はいつも儚く光に溢れてる。誰もが強くて優しい。No worries, 大丈夫。

再生 巡る命

2011-02-15 18:54:01 | 
何故、人は人と諍う。
何故、人は人を嫌い、憎しみ合うのか。

人と人との営みを覗けば、
嫌い憎しみの気、渦が巻き、
ようよう保たれる世の均衡。

その理(ことわり)は、
勝者と敗者、
強権を持つ者、捥ぎ(もぎ)取られし弱者、
見捨てる者と、見捨てられる者を作り出し、

それぞれが、
安住の地を主張し、強要するのだ。

山頂の雪から流れ出でた清流は
濁流を消すべく
止めどなく、強く、速く。

岩はえぐられ、砂利を吹き飛ばし、もはや魚も住めぬ。


悠久の時が満ち、
その理に、閉じたまなじりを向けた今。

清流に雪の結晶が降り注ぐのを、確かに見た。

六角形の究極の美が、
溶けるを厭わず、その身を流れに捧ぐ。

見よ、命が生き返る。
再び生が生きる。


かくして濁流を許し、
濁流を受け抱く器となったとき、
心は騒ぎ、荒ぶもの。

初めて感じる空気の甘さ。
香しき花の彩り、交じり合った者だけに舞う。

空の青さを胸に吸い込み、土に手を汚せばいい。
命を受け取る者が、命を育み、
命を送り出す者に、命は授けられる。


+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・

この詩は、数日前、夜中にムックリと起きて(笑)書いたものです。
上記は、何度か推敲したあとのものですが。

当初は何をテーマに綴った詩だったのか、自分でもよく分からなかったのですが、その翌日、水の神様、祓いの神様と祀られる「瀬織津姫命」についての詩ではないか思い至りました。

大祓詞(おおはらいことば)に次のように記述されている神様です。

遺る罪は在らじと祓へ給ひ清め給ふ事を 高山の末低山の末より佐久那太理に落ち多岐つ
早川の瀬に坐す瀬織津比売と伝ふ神 大海原に持出でなむ 此く持ち出で往なば 


この大祓い祝詞、6月と12月の大祓いの儀式では勿論、(全ての神社ではないかもしれませんが)朝のお勤めの言上でも唱えられる重要な祝詞です。穢れを川に流し、大海原まで運び去り世を清める。その御働きをなさる神様とあらせられるのですが、この神様については調べれば調べるほどに諸説入り乱れ、それこそ百花繚乱と申し上げては大変失礼な表現かもしれませんが、様々な神様に繋がり、同格、同体と見なされ、本当のところが良く解らない神様でもあります。

『古事記』にも『日本書記』にも、そのお名前が出ていません。
もう一つ、この二記を含めて三大歴史書と言われながらその存在を偽書として無視され続け、また神代の神々の実在性について触れている『先代旧事本紀』上での天道日女命様が瀬織津姫様であり、スサノオノミコト様の御子ニギハヤヒ尊のお后であることが、私にとっては最も分かり易く、ここを(あくまでも私的見解として)出発点もしくは核として、その存在に深い敬意を払いながら解釈を広げていければと思っています。

今日のところは平易に現在の思うところを述べたいと思いますが、
この天道日女命様の父君が、天日神命様=(かもしれない)根源神の一柱である天御中主神様の部分からでも、禊ぎ、祓い、水、滝の神様に納まる神様ではないと思うのです。地球意識ガイアに近い存在・・・自然を司り、生きとし生けるものの生殺与奪の権を握る存在なのではないでしょうか。

その方が、日ノ本の大王であったヒギハヤヒ尊のお后になる必要があった。その為に天より遣わされた方なのではないだろうかと。

ニギハヤヒ尊が初代神武天皇に国譲り後、存在を封じられて1千数百年。これもこの方の存在が大きく関与しているようにも思えてなりません。これはその後の藤原氏の隆盛。そして聖武天皇と光明皇后が執念を燃やした東大寺大仏建立にも繋がっていくのではないかと。。。また追々筆がまとまり次第、私的見解を書いていこうと思います。

また最後に、自然を司る・・・循環の始めと終わりを司るということで、五十音の「ア」から「ワ」まで、即ち「アワ」、海の泡より生まれしビーナス、といきなり強引にギリシャ神話まで飛びますが、弁財天様などに繋がるのもこれで頷けるような気が致します。また天も海も「アメ」と読むそうです。


今日も最後まで読んで下さって、本当にありがとうございました☆

今日も皆さん一人ひとりが温かさと安らぎに包まれる一日でありますように。