ユア・ハイハート、自らの神聖さと共に。

心や魂のこと。生きる勇気と希望。
世界はいつも儚く光に溢れてる。誰もが強くて優しい。No worries, 大丈夫。

完全の苦しみ

2011-02-24 17:14:47 | 癒し
精神的にも肉体的にも疲れ過ぎた日々が続いたり、また、拒絶や喪失、裏切りという身を切られるような経験が続くと、余りに消耗してしまい、自分で何とかしようという気力は、最早残っていない場合も多いのではないでしょうか。私もそうでしたし、今も名残は十分に残っています。よく「仕事は裏切らない」という言葉を耳にしますが、これは、ここからも関連してるように思います。


あくまで一つの例ですが、幼少時に拒絶、喪失、裏切りに類する経験があった場合、子供として受け取って当然の愛情を与えらなかったとして、そこに傷や痛み、悲しみ、苦悩があります。「与えられる筈のものが、与えられなかった」と。

しかし、仕事の場合は、それを「与えられるもの」と思っている人は少ないのではないでしょうか。
経験を積み重ね、スキルを増やし・・・と、一般的にも主体的であるものでしょう。

そして、与えられて当然のものが与えられなかった場合、自分から何とかしようとする思考と行動に結び付かないのだと思います。且つ長い間、傷や痛みからずっと心身を守ってきたのですからバテバテです。このような状態のとき、差し伸べられる手、それも無条件に差し出される手や、無条件に自分の要求を満たしてくれる手を望むのは当然のことではないでしょうか。

しかしながら成長した暁に、子供のころのように一方的に求め、一方的に与えられる愛の中にい続けるのは大変に困難です。反対に、それは健全な関係とも言えません。

何故なら、誰しも求めているからです。そして、互いに与え合うからです。

理解しようとし、歩み寄るのが、大人になった今の関係性です。
そして時間をかけて、求め合い、許し合い、欠点や不完全さを受容していくものだと思います。その過程には、もちろん衝突も誤解もあるはずですが、時間をかけて共に生きる。「糸の半分」と書く絆は、このように少しづつ強まっていくのだと思います。以上のことからも、まず自分の欠乏や孤独を埋めて欲しい・・・この意識が前提としてタートする関係は次第に苦しくなってくるのも一方では自然かもしれません。


私の解釈ですが、「与えられなかった」・・・これは、実際がどうであったかどうかは別です。
自分に関係の無いところで責任を背負い続けたり、良心の呵責に耐え続けていたりなど、観念、思い込み、そこから生まれ、育ち続けてきた想念など、何かのきっかけや出来事から生まれたそれらの物達を事実として捉え、共生している場合もあります。これらは例えばヒプノセラピーで子供時代まで退行すると発見があると思いますが、とにかくも「与えられなかった」「関心を持ってもらえなかった」などの気持ちが残っているかどうかです。

大人になってからの傷を伴う経験も、その種は子供時代、またはそれ以前の過去世に発している場合が多いと私は思います。過去世から持ち越している課題や今生の役割、カルマの弁済も含めて誕生し、その子供時代があったということだとも言えます。そして「子供時代」と地点を限定すると、親や大人の全面的な世話がなければ日々を過ごせない=命の糧を全面的に依存し受身の存在なのに、与えられなかったという当時の意識やエネルギーが大人に成長した後も強く生き続けていて、これが無意識上であるが故に厄介なのだと思い至りました。

完全に受身でいて、自分の要求を満たす完全な愛を求め、それを手に入れるためには完全な自分にならなければと、強いる。誰かの役に立ちたい、立たなければ。そのような完全で立派な自分であれば、きっと完全な愛がもたらされる。よく耳にする「完璧主義者」とは、もしかしたら完全な愛を求め続けた姿なのかもしれません。求め続け、走り続け、思いやり続け、傷を傷と思わずがんばり続けた姿なのかもしれません。


しかし、私たちは皆、欠点だらけの不完全な存在です。

互いの欠点から、その時々の情けない気持ちや至らない言動から、互いにいろんな事を学んでいくのだと思います。公私、どんな関係でも相応の磨き粉として出会います。そして私個人の場合、ずっとずっと、自分が受けるだけの完全な愛を求めてたようです。至極平たく言うと、幼年、子供時代に受け取りたかった親の愛を、ずっと恋人、友人、周囲の全ての人々に対し求めていました。

でも、大人としてそれを続けていくのはどうなんだろう??と思い始められたとき、逆説的に(以上のことも踏まえてですが)「完全な自分でいなくてもいいんだ」という流れに辿り着いたのが本当に大きなことでした。

完全な愛を他者に求めなくてもいい。それは、完全ではないかもしれないけれど自分でする。では、完全な自分でなくてもいいし、それを強いる必要はない、という流れでした。そして、苦しかったのは、今も時に苦しいと思うのは、完全を求め、完全であろうとしていたからではないかと。今もそういう自分があるからからではないかと。

でも、完全な自分でなくてもいいとは、

完全さを求めてしまう、それはダメだ、不完全さを愛そう!という事でもありますが「完全さを求めてしまうのだなぁ」「完全が欲しいのだなぁ」と、在りのままを受容するのが、素のままで自然で、より心地良いように思いますし、より良い結果にも導いてくれるように思います。



私も、この部分での癒しは、ずっと続くかもしれません。でもそうします。
春も近く、たくさんの花が、少しずつ花びらを開き始めているのを感じるから。


今日も最後まで読んで下さって、本当にありがとうございます☆

今日も皆さんの一人ひとりの全てが輝き慈しまれる一日でありますように。