今年の冬至は12月22日でした。
普段から然程には夏至や冬至を気にすることはありませんが、やはり一つの分岐点なので、行ける方は神社にお参りに行ったり、御自宅でも心静かに祈る時間を持たれると良い日ではあります。
また、夏至は太陽が最も咲き誇るとき、冬至は太陽の生まれ変わりのとき、と言われます。
冬至は日本でもそうですが、外国でも「新年」とされ、古代では大いにお祝いされてきました。
冬至。一年の内、最も太陽が低く、日照時間が短い日。
最も夜の時間が長く、最も「死」に近い日とされると同時に、この日を境に一日一日と日照が長くなる日です。また「一陽来福」・・陰極まり陽となり福がやって来る日と、人々は代々、闇や死という非常に「暗く冷たい世界」と「未来への希望」は紙一重ということを理解していて、それを明確に体現し、私たちに教示してくれる大自然、大宇宙の叡智を敬い続けてきたのではないでしょうか。
ここでも何度も書いていますが、陽はまた昇ります。そしてまた昇るためには沈まなければなりません。しかし、これが、同時に「未来への希望」なのです。それが巡る理(ことわり)、日本を現す数字の「8」の理です。ノブレス・オブリージュ=貴人の義務もまた同じでしょう。
持てる物は与う=能う。誰しも、持てる分を与う=能う。
溜め込まず、巡らせて。
自分が与うものは、最善で必要なところへ辿り着いてゆきます。そして自分にも、最善に必要なものがもたらされます。巡るのですから。
ではその出所は、起点は、と言うと、持てる者からだと思うのです。現状では、持たない人ほど与おうとしているように思います。そして持てる人がその与えられたものを取り込み、益々肥え続けているのではないでしょうか。持てない人が与えられるのは、物理的に考えても量としては絶対的に少ない。単純に考えても巡りの力は弱くなります。結果、停滞してゆきます。
そして「8」ではなく「7」へ傾斜していっているのが現在の日本の風潮だと感じます。「死と再生」ではなく「死」で止まるのが「7」です。半数以上の方が輪廻転生を信じていないと言われるキリスト教に関連が深く、「罪」「罰」「突出したもの」「才能」も関連する数字です。
しかし、西洋にはノブレス・オブリージュの精神が根付いています。
キリスト教には輪廻転生の思想はなくとも(現在では、多くの信者、司教の方々も同意し始めていると聞き及びますが)、弱者を助ける文化があります。確かにこれも、現在浸透しているかと問えば全面的にYesとは言い難いのかもしれませんが、ただ、その継がれし思想や文化によって、自分を、自分が持てる分、他者に明け渡すという「巡り」の文化とバランスが取れているように、私個人的にはそう感じています。
持てる者が持つものは、持たない者に与うために。
そのために、持てる者は、その持てし力を授けられています。
冬至の前日21日の夕刻、落陽を見ました。
躍動と力強さを感じる雲、そしてその切れ間より光の帯を惜しみなく地に降らせる落日。
何だか・・・
「やるだけやった」
そんな言葉が聴こえてきそうな光景で、2011年冬至前、新しく太陽が生まれ変わる前の最後の陽に相応しい・・・と思わず胸が一杯になったこの落ちようとする陽でした。この御姿を見て、沈むこと、落ちることへの不安。更に言うと、これらの言葉で表現するときに生じる観念から引き起こされる感情。それらは「恐るに足りぬもの」と教えて頂けたように思いました。
最後に冬至に最も相応しい曲ではなかろうか、とチョイスさせて頂いた曲を。
美しくも哀しい、しかし、これ以上の力強さ、光射す方へと思える曲もないのではないでしょうか。
Tokyo Jihen - Rakujitsu
今日も最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
今日も皆さん一人ひとりの楽しく健やかな一日でありますように。
普段から然程には夏至や冬至を気にすることはありませんが、やはり一つの分岐点なので、行ける方は神社にお参りに行ったり、御自宅でも心静かに祈る時間を持たれると良い日ではあります。
また、夏至は太陽が最も咲き誇るとき、冬至は太陽の生まれ変わりのとき、と言われます。
冬至は日本でもそうですが、外国でも「新年」とされ、古代では大いにお祝いされてきました。
冬至。一年の内、最も太陽が低く、日照時間が短い日。
最も夜の時間が長く、最も「死」に近い日とされると同時に、この日を境に一日一日と日照が長くなる日です。また「一陽来福」・・陰極まり陽となり福がやって来る日と、人々は代々、闇や死という非常に「暗く冷たい世界」と「未来への希望」は紙一重ということを理解していて、それを明確に体現し、私たちに教示してくれる大自然、大宇宙の叡智を敬い続けてきたのではないでしょうか。
ここでも何度も書いていますが、陽はまた昇ります。そしてまた昇るためには沈まなければなりません。しかし、これが、同時に「未来への希望」なのです。それが巡る理(ことわり)、日本を現す数字の「8」の理です。ノブレス・オブリージュ=貴人の義務もまた同じでしょう。
持てる物は与う=能う。誰しも、持てる分を与う=能う。
溜め込まず、巡らせて。
自分が与うものは、最善で必要なところへ辿り着いてゆきます。そして自分にも、最善に必要なものがもたらされます。巡るのですから。
ではその出所は、起点は、と言うと、持てる者からだと思うのです。現状では、持たない人ほど与おうとしているように思います。そして持てる人がその与えられたものを取り込み、益々肥え続けているのではないでしょうか。持てない人が与えられるのは、物理的に考えても量としては絶対的に少ない。単純に考えても巡りの力は弱くなります。結果、停滞してゆきます。
そして「8」ではなく「7」へ傾斜していっているのが現在の日本の風潮だと感じます。「死と再生」ではなく「死」で止まるのが「7」です。半数以上の方が輪廻転生を信じていないと言われるキリスト教に関連が深く、「罪」「罰」「突出したもの」「才能」も関連する数字です。
しかし、西洋にはノブレス・オブリージュの精神が根付いています。
キリスト教には輪廻転生の思想はなくとも(現在では、多くの信者、司教の方々も同意し始めていると聞き及びますが)、弱者を助ける文化があります。確かにこれも、現在浸透しているかと問えば全面的にYesとは言い難いのかもしれませんが、ただ、その継がれし思想や文化によって、自分を、自分が持てる分、他者に明け渡すという「巡り」の文化とバランスが取れているように、私個人的にはそう感じています。
持てる者が持つものは、持たない者に与うために。
そのために、持てる者は、その持てし力を授けられています。
冬至の前日21日の夕刻、落陽を見ました。
躍動と力強さを感じる雲、そしてその切れ間より光の帯を惜しみなく地に降らせる落日。
何だか・・・
「やるだけやった」
そんな言葉が聴こえてきそうな光景で、2011年冬至前、新しく太陽が生まれ変わる前の最後の陽に相応しい・・・と思わず胸が一杯になったこの落ちようとする陽でした。この御姿を見て、沈むこと、落ちることへの不安。更に言うと、これらの言葉で表現するときに生じる観念から引き起こされる感情。それらは「恐るに足りぬもの」と教えて頂けたように思いました。
最後に冬至に最も相応しい曲ではなかろうか、とチョイスさせて頂いた曲を。
美しくも哀しい、しかし、これ以上の力強さ、光射す方へと思える曲もないのではないでしょうか。
Tokyo Jihen - Rakujitsu
今日も最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
今日も皆さん一人ひとりの楽しく健やかな一日でありますように。