元外資系企業ITマネージャーの徒然なるままに

日々の所感を日記のつもりで記録

J・S・ミル「自由論」(斎藤悦則訳)を読むと

2021-01-23 14:12:51 | 哲学ノート
1859年に初版が発行されたJ・S・ミル「自由論」(斎藤悦則訳)を読むと、それから160年以上も経っている現代も、それほど変わっていないと感じる。まだまだ特に日本は自由に関する議論が全然足りないのだろう。
例えば、
「あらゆることが官僚組織をとおして行われている国では、官僚が本気で反対することは何ひとつできない」
「社会の全階層から能力の高い人間をそこに集め、官僚的な人間に育てていけば いくほど、国民全体の奴隷化が進んでいく。奴隷化は官僚自身にも及ぶ。なぜなら、官僚は自分ら の組織とその規律の奴隷になるからだ。」
菅総理の官邸記者クラブでは、3回も続けて記者クラブの記者でさえ再質問さえ出来ない。「まだ質問があります」と声をあげるフリーのジャーナリストの質問を無視して終了するとても短い制限された記者会見。これを見て、まさにミルの「自由論」の言う通り「自ら作り上げた天下り官僚システムに、自ら進んで奴隷となる官僚と、その広報を担当する奴隷化されたテレビと新聞メディア」ではないのかと、160年前にミルが言った通りではないか。

また、「アメリカ人は、政府がない状態に放置しておくとすぐさま政府をつくりあげ、政治その他の公的な業務をしっかりとした知性と秩序と決断によって処理することができる。これこそすべての自由な国民のあるべき姿である。また、こういうことができる国民はまちがいなく自由だ」
これは160年前、明治維新の前にミルが見たアメリカだが、バイデンアメリカ大統領が1月20日の就任式直後に、国家再生に時間がないからと、すぐさまホワイトハウスに入り大統領令にサインしたのを見ると、自分たちで一から建国したアメリカの、その伝統がまだ生きていると感じる。やはり自分達で国を作った子孫は、建国の精神が身体に染みついている。翻ってわが日本は明治維新でも一部の武士階級が起こした革命であり、一般市民は全然関与していないからなのか、あれから150年も経つのに何も進歩していないのは、「自由とは?」だけでなく、様々な権利や義務についての議論が全然足りないのだろう。