ざんばら頭を無造作に束ね、ひょろりと細い長身の身体を丸め、なんだか申し訳なさそうにぽつんと立っている丸眼鏡の猫背の男性。
いわゆる、普通の社会人といった日本人男性のイメージからは程遠いルックス。
しかし、その彼が数年前まで凄腕の脳外科医だったというから驚いた。
彼とは、とある国際NGO団体の支援事業でタイで2ヶ月あまり一緒に仕事をした。
彼は東京での脳外科医としてのキャリアをあっさりと捨て、国際NGOのメンバーとして、発展途上の国々に数多く存在するまっとうな医療を受けられない人たちの命を助ける仕事を選んだ。
劣悪な衛生環境の中、簡単に命が消えていく発展途上国で、公衆衛生の知識を広め、少しでも病気になる子供を減らしたい、という信念を持った彼は、医療行為をする医師から、公衆衛生の知識を広める医師へと大きくそのキャリアの道を軌道修正したという。
「病気になってしまった人を助ける医療より、環境を改善することで、病気になる人を減らしたかったから」と、これまでの道のりをいともシンプルに話してくれたっけ。
初めてNGOのスタッフとして、タイ洪水被害の被災地支援に派遣された私にとっては、何もかもが新鮮なことばかり。
元々、一般企業の経験しかない私にとっては、こういった「災害支援活動」とは、被災地の人たちにもっぱら、こちら側が「してあげる」ことだと思っていた。
モモさんの仕事の進め方を間近で見るまでは。
彼は、相当ギリギリの健康状態でこのプロジェクトを請けたらしく、夜もよく眠れないようで、いつもフラフラの様子で現場にやってきた。
そんな風だったけれど、プロジェクト内のメイン項目、公衆衛生のワークショップのプランニングとその資料はいつも完璧だった。彼の伝手で、現地国立大学の教授の参加も叶い、現地の人向けワークショップや、衛生セミナーも大成功。
けれど、彼は、ほんの2ヶ月ほどの公衆衛生のワークショップをやったからといって、何の意味があるのか?偽善じゃないのか?といつも移動中の車の中でぼやいていたっけ。
「継続してしつこくやり続け、しまいには、そこの人たちが自らそれを自然に実践して、我々のやることがなくなってしまうことがゴール」と常々言っていた。
資金を使って、箱モノを建てたり、物資を寄付するのも、支援活動の一つの形だ。
彼が行った、教育要素のあるソフト面での支援活動というのは、形こそ残らないけれど、自分たちの行った支援活動が現地の子供の心に少しでも何か感じるものを与え、彼らが大人になって行く過程で、そのノウハウやなんかを活かしてもらえたらそれでいいんだと。
そうそう、children as a messenger ってモモさんがよく言ってたなあ。
子供たちがワークショップで聞いたことやなんかを、家に帰ってお母さんや隣のおじちゃんに教えてあげたり。そうやって、新しい知識は伝染していくんだよって。
そんなこんなで、2ヶ月に亘る支援活動も無事に終了し、私たちもそれぞれ日本に帰国して3週間ほどたったとき、現地でお世話になった大学の先生が日本にやってくるというので、久々に日本人メンバー3人が集まり、先生をアテンドしようということになった。
無事、先生を見送ったあと、3人で久々に近況を語り、これからの仕事の方向なんかを結構長く話したっけ。
その帰り途、私は新幹線に乗るモモさんと、改札口で握手してお別れをした。
また会いましょうね、って。そのとき、なんだか心から願うように言った気がした。
その日はまだ5月なのに、汗ばむような暑い日だった。
でも、やたらモモさんの手が冷たくてびっくりしたことを、昨日のことのように鮮明に覚えている。
それから、間もない6月の初めに、彼の訃報が届いた。
あまりに急な展開で、頭が混乱して、彼がもうこの世にはいないということが、とっさに理解ができなかった。
上海に帰っていた私は、翌月になってようやく日本に戻り、モモさんの実家を訪ねた。
ご両親によれば、タイでのプロジェクト終了後、彼は日本の実家に久々に戻り、やたらと身辺の整理をしていたそうだ。大阪で3人で会ったときに、モモさんが衝動的に気に入って買った革のジャケットは、一度も袖を通すことなく、甥っ子に「これ、やるから着ろよ」と譲ったらしい。
自室に保管していたスーツはきちんとクリーニングに出され、革靴はクリームでしっかりと磨きをかけられていたという。
モモさんのご両親は、まるであちらに行く支度をするために日本に帰ってきたようだ、と言っておられた。
自分の息子の仕事の内容や、海外でのNGO活動の状況など、息子から詳しく聞かされることもなかったであろうご両親は、私たちが持参したタイやアフリカ、パキスタンで働くモモさんの写真や、現地での色んなエピソードに耳を傾け、その写真を食い入るようにご覧になっておられた。
たった2ヶ月だったけれど、毎日一緒に働いた彼からは、色んなことを教えてもらった。
物事に対するアプローチの仕方や、どんな些細なことでも一つの大切なファクターとして、記録する姿。それをまとめ上げ、最終的なゴールに持って行く道筋の付け方。
ついつい、目先のことに囚われがちな私は、いつも彼のスタイルを見るたびに気づかされてたっけ。
仕事が始まった当初は、なんか変なドクターやな~、くらいにしか思っておらず、しかも、彼は彼で、彼の妙な風貌&行動に関西弁でつっこみ続ける私がかなり苦手だったらしい。
当初は、なかなか双方向のコミュニケーションがうまく成立しなかったのだけれど、1ヶ月ほど経ったころから、徐々に心を許してくれたらしく、色んなことを話してくれた。本当にいろんなことを。
ベトナムでWHOのワクチンプロジェクトを孤軍奮闘して運営していたころ、そのプロジェクトのスポンサーであるビル&メリンダ財団から、ビルゲイツ氏本人が現地視察に来たときの話を聞かせてくれた。モモさんは、ビルゲイツ氏の寄付出したら終わりではなく、どんな風にその寄付が活かされているかを自分の目で見るというそのスタイルにえらく感心していたっけ。もっとも、ビルゲイツ氏のセキュリィティ対応が仕事より大変だったらしいけれど。
タイで一緒に仕事をした時間に、彼と交わした何気ない会話が、ふとよみがえってくることがある。
彼が倒れたその日、彼が運び込まれたのは、かつて彼が勤務医として働いていた大学病院で、最後を看取ったのは彼の恩師と同僚の医師だったそうだ。
周りにどう言われようと、自分の信念を貫き続けて各国の国際貢献の現場で働いたのち、まるで、自分の人生の幕をきっちりと降ろすために、故郷に帰ったきたようなモモさん。
46歳は余りにも早い旅立ちだけれど、彼は彼の人生をきちんと生ききったんだ、と私には思える。
もうモモさんが逝ってしまって、1年が経った。
モモさんはこの世にはもういないし、彼の不在を悲しむご家族や友人がどれだけいようとも、世界は毎日変わることなく動いている。
毎年、この日は、モモさんと出会えたこと、一緒に仕事ができたこと、モモさんに感謝する日にしよう。
あ、でもこんな風にブログに書いたら、怒られそうだな。
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