◎イスラーム 20 正統カリフ時代 3
★正統カリフ
・初代 アブー・バクル(573頃-634)
・2代 ウマル・イブン・ハッターブ(592-644)
・3代 ウスマーン・イブン・アッファーン(?-656)
・4代 アリー・イブン・アビー・ターリブ(?-661)
●第3代正統カリフ ウスマーン・イブン・アッファーン
○ウマルは644年、キリスト教徒によって暗殺された
息を引き取る前に、6名の実力者の名をあげ、後継者の選出をゆだねた
後継者候補の互選の結果、クライシュ族のウマイヤ家のウスマーン・イブン・アッファーンが第3代カリフに選ばれた
●クルアーンの正典化
クルアーンの断片は、口頭で暗唱したり、ヤシの葉や石板に記録されたりしていた
ムハンマド没後、暗唱者の死亡が相次ぎ、各地でクルアーンの伝承に異同が生じはじめた
ウスマーンは、クルアーンを書物の形で統一することとし、ザイド・イブン・サービトたちを責任者としてクルアーン全体を1冊にまとめさせた
ウスマーンはこれを正本とし、そのコピーを主要都市に送り、他のすべてを焼かせた
●第4代正統カリフ アリー・イブン・アビー・ターリブ
○ウスマーンの統治には、公正さが見られないとか、人事で親類縁者をひいきしたとか、不満が生じた
○暴動に発展し、ついにウスマーンは、656年にメディナにやってきた反乱兵士たちに暗殺された
この兵士たちに、後任カリフとして選ばれたのが、アリーである
○アリーはムハンマドの従弟で、ムハンマドの娘ファーティマと結婚し、ムハンマドの娘婿であって、ムハンマドと同じハーシム家の一員だった
ところがアリーには、クライシュ族の一部から暗殺の責任者との非難があびせられた
○アリーに反対する勢力は
ウスマーンの親戚にあたるムアーウィヤが率いるウマイヤ家と
ムハンマドの未亡人でアブー・バクルの娘のアーイシャとズバイル・イブン・アウワーム、タルハ・イブン・ウバイドゥッラー
○ラクダの戦い
656年12月、アーイシャ、ズバイル、タルハはイラク南部のバスラ近郊で、アリーの支持者(シーア・アリー「アリーの党派」、たんにシーア派と呼ばれる)と戦ったが、アリーが勝利した
アーイシャの輿を乗せたラクダの周りで激戦が行われたために、この名で知られる
ズバイル、タルハは戦死し、アーイシャはマディーナに護送された
○スィッフィーンの戦い(アリーとシリア総督ムアーウィアとの戦い)
ウマイヤ家のウスマーンが殺害された後、家長の地位を継承したのはシリア総督のムアーウィアである
拠点をマディーナからイラクのクーファに移したアリーは戦力をたくわえると、657年、ユーフラテス川中流、シリアとイラクの国境近くのスィッフィーンの地で、ムアーウィアの軍と対峙した
当初、アリーの軍が優勢だったが、ムアーウィア軍の将軍アムル・イブン・アースが槍先にクルアーンの紙片を結びつけて停戦を呼びかける策に出たことで戦闘は中止された
○ハワーリジュ派
アリーの軍からこの妥協を不服とする数千人の離脱者が出た
彼らはアリーを反逆者(ムアーウィア)との調停を受け入れた者として非難、「判断は神のみが有す」と主張した
彼らはハワーリジュ(離脱者たち)と呼ばれた
アリーはやむをえず、ナフラワーンの戦いでハワーリジュ派の多くを殺害した
・661年1月、アリーはクーファのモスク近くでハワーリジュ派の刺客によって暗殺された
●アリーの死によって、「正統カリフ時代」は終わりをつげる
★正統カリフ
・初代 アブー・バクル(573頃-634)
・2代 ウマル・イブン・ハッターブ(592-644)
・3代 ウスマーン・イブン・アッファーン(?-656)
・4代 アリー・イブン・アビー・ターリブ(?-661)
●第3代正統カリフ ウスマーン・イブン・アッファーン
○ウマルは644年、キリスト教徒によって暗殺された
息を引き取る前に、6名の実力者の名をあげ、後継者の選出をゆだねた
後継者候補の互選の結果、クライシュ族のウマイヤ家のウスマーン・イブン・アッファーンが第3代カリフに選ばれた
●クルアーンの正典化
クルアーンの断片は、口頭で暗唱したり、ヤシの葉や石板に記録されたりしていた
ムハンマド没後、暗唱者の死亡が相次ぎ、各地でクルアーンの伝承に異同が生じはじめた
ウスマーンは、クルアーンを書物の形で統一することとし、ザイド・イブン・サービトたちを責任者としてクルアーン全体を1冊にまとめさせた
ウスマーンはこれを正本とし、そのコピーを主要都市に送り、他のすべてを焼かせた
●第4代正統カリフ アリー・イブン・アビー・ターリブ
○ウスマーンの統治には、公正さが見られないとか、人事で親類縁者をひいきしたとか、不満が生じた
○暴動に発展し、ついにウスマーンは、656年にメディナにやってきた反乱兵士たちに暗殺された
この兵士たちに、後任カリフとして選ばれたのが、アリーである
○アリーはムハンマドの従弟で、ムハンマドの娘ファーティマと結婚し、ムハンマドの娘婿であって、ムハンマドと同じハーシム家の一員だった
ところがアリーには、クライシュ族の一部から暗殺の責任者との非難があびせられた
○アリーに反対する勢力は
ウスマーンの親戚にあたるムアーウィヤが率いるウマイヤ家と
ムハンマドの未亡人でアブー・バクルの娘のアーイシャとズバイル・イブン・アウワーム、タルハ・イブン・ウバイドゥッラー
○ラクダの戦い
656年12月、アーイシャ、ズバイル、タルハはイラク南部のバスラ近郊で、アリーの支持者(シーア・アリー「アリーの党派」、たんにシーア派と呼ばれる)と戦ったが、アリーが勝利した
アーイシャの輿を乗せたラクダの周りで激戦が行われたために、この名で知られる
ズバイル、タルハは戦死し、アーイシャはマディーナに護送された
○スィッフィーンの戦い(アリーとシリア総督ムアーウィアとの戦い)
ウマイヤ家のウスマーンが殺害された後、家長の地位を継承したのはシリア総督のムアーウィアである
拠点をマディーナからイラクのクーファに移したアリーは戦力をたくわえると、657年、ユーフラテス川中流、シリアとイラクの国境近くのスィッフィーンの地で、ムアーウィアの軍と対峙した
当初、アリーの軍が優勢だったが、ムアーウィア軍の将軍アムル・イブン・アースが槍先にクルアーンの紙片を結びつけて停戦を呼びかける策に出たことで戦闘は中止された
○ハワーリジュ派
アリーの軍からこの妥協を不服とする数千人の離脱者が出た
彼らはアリーを反逆者(ムアーウィア)との調停を受け入れた者として非難、「判断は神のみが有す」と主張した
彼らはハワーリジュ(離脱者たち)と呼ばれた
アリーはやむをえず、ナフラワーンの戦いでハワーリジュ派の多くを殺害した
・661年1月、アリーはクーファのモスク近くでハワーリジュ派の刺客によって暗殺された
●アリーの死によって、「正統カリフ時代」は終わりをつげる