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◎イスラーム 22 アッバース朝

2015-09-06 22:21:23 | 宗教
イスラーム 22 アッバース朝

ウマイヤ朝(661年~750年)
・ウマイヤ朝の時代では、支配地域の住民の過半数がムスリムではなかった
 キリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒が多数派であった

アッバース朝(749年~1258年)

 8世紀初めに、イスラームの宗教指導者イマームの位は、ムハンマドの叔父アッバースの血を引くアッバース家の人物に伝えられたと主張するグループ(シーア派のカイサーン派)があらわれた

 アブー・ムスリムは745/6年、ウマイヤ朝の打倒をめざすアッバース家運動の中心人物 イブラーヒーム・イブン・ムハンマドによってホラーサーン地方に送り込まれ、革命教宣員の指導者となった
 747年6月、アブー・ムスリムはホラーサーン東部のマルウ近郊で武装蜂起し、短期間のうちにホラーサーン全域を掌握した
 配下の将軍カフタバ・イブン・シャビーブ率いる革命軍をイラク地方に派遣してウマイヤ朝軍を撃破した

 749年9月にクーファに入城して、11月、アッバース家のアブー・アッバース(イブラーヒームの弟)をカリフに選任し、バイア(忠誠の誓い)を行った

 ウマイヤ朝最後のカリフ、マルワーン2世は、ティグリス川の支流ザーブ川で、アブー・アッバースが率いるアッバース朝軍と会戦した
 ウマイヤ朝軍は敗れ、マルワーンはエジプトへ逃亡した
 750年8月、マルワーンは上エジプトのファイユームまでたどり着いたが、そこの教会に助けを求めたところで殺害された

 アッバース朝が正式に樹立されたことが確認され、アブー・アッバースはアッバース朝の初代カリフとして認定された

アッバース朝第2代カリフ マンスール

・754年、アブー・アッバースが亡くなると、兄のアブー・ジャーファルがカリフ位を継承し、マンスール(「神の加護を受けた者」)と称した

・アブー・ムスリムは、その強大な軍事力と人望に危機感をもたれ、755年2月、イラク中部の都ハーシミーヤで、アッバース朝第2代カリフのマンスールにより暗殺された

○マンスールは中央集権的な体制をつくることをめざした
・駅伝(バリード)の制度
 数十キロごとに駅舎を置き、そのあいだをロバ、ラクダ、あるいは馬で結ぶ
 中央には駅伝を管理する駅伝庁を置いた

「平安の都」バグダードの建設

・アッバース朝の首都は、アブー・アッバースの時代にハーシミーヤからユーフラテス川流域のアンバールに移され、マンスールはアンバールで即位した
 翌年マンスールは新王朝にふさわしい新都の建設を思い立ち、ティグリス川西岸のバグダードを選んだ

 762年に建設がはじまり、766年に完成した
 正式の名を「平安の都(マディーナト・アッサラーム)」というが、一般にはバグダードの名で呼ばれた
 バグダードは現在のイラク共和国の首都である

・新都は3重の城壁に囲まれた円形都城で、直径2.35kmであった
 円城の内部に住むことを許されたのは、アッバース家一族、カリフの腹心、指揮官クラスの高級軍人、官僚などだけだった
 市民の生活空間は城壁外の郊外にあった

・はじめは、円城内の4つの城門と内壁を結ぶアーケードにそって、市場が設けられていたが、防衛上の理由から円城南郊外のカルフ地区に移され、その地は市場経済の中心地として繁栄することになる

○バグダードは国際都市として機能する構想があった
 円城の4つの城門
・北東のホラーサーン門は、ホラーサーン街道をたどれば、絹の道シルクロードをへて、唐の都長安に達する
・南東のバスラ門をでて、ティグリス川を船で下ればペルシア湾からインド洋、東南アジアへつながる
・南西のクーファ門から西へたどればアラビア半島を縦断し、マッカに至る
・西北のシリア門を出てユーフラテス川をさかのぼれば、シリアさらにはビザンツ帝国のコンスタンティノープルに達する

○バグダードへ運ばれた商品
 中国の絹織物、陶磁器
 東南アジアやインドの香辛料、木材
 中央アジアの毛織物、奴隷
 アフリカの金、奴隷

○8~9世紀のバグダードを代表する商品
 綿織物、絹織物、貴金属、ガラス製品、紙

○9世紀のバグダードは「3万のモスクと1万の公衆浴場が建ち並ぶ」巨大都市に成長したという